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最高に都合の良い男

「結婚することになった」

まるで他人事のように彼女は告げた。

テーブルの上にある焼き鳥を口に運びカシスオレンジで流し込む様子を見つめつつ、僕は煙草に火をつけた。彼女に煙が触れないように天井へめがけて吐き出す。

「なんで?」

平常心を保とうとしながらも、言葉には動揺が現れてしまった。もう少しクールな返答ができないものか。

「彼氏が本格的に病んできたから」
「どういうこと?」
「そのままの意味。私が側にいないとダメらしいよ」
「それで結婚?」
「うん。放っておいたら死にそうだもん。あ、なんか追加する?」

彼女は僕の空いたグラスを指差した。「お前はそれで幸せなのか?」と口に出しかけたが、「じゃあハイボール」の一言で上書きする。

大学の時に同じサークルで知り合って、そして僕は彼女に恋をして、振られて、疎遠になって、卒業してからサークルの同窓会で再会したのが5年ほど前。振られたことも振ったことも、互いになかったことにして(僕はハッキリと覚えていたけど)友達の関係に戻った。その時は付き合ってる子が別にいたのも大きかったかもしれない。他愛もない話で笑い、月一で酒を飲むようになり、あっという間に今へと至る。僕も彼女もその間にコロコロと付き合う相手を変えていたのが、どこか共感めいたものを帯びて、友達というよりは仲間意識のような結びつきで仲良くしていた気もする。

僕の中で、彼女は絶対的な存在だった。どんな相手と付き合っても本気になれなかったのは彼女のせいだと思っているし、だからといって彼女に手を出すのは神聖なものを汚すような行為にも思えてしまい、再会してからの5年間は「友達」に徹していた。ふいに湧き出る性欲は、その時々で付き合っていた相手に向けた。

彼女に彼氏ができても嫉妬心を抱かなかったのは、僕がそういう対象として彼女を見ていなかったからだと考えていたのだが、今は違ったと断言できる。彼女が放った「結婚する」という言葉に僕はひどく動揺していたからだ。単純に、再び振られて今の距離感を失うのが怖かっただけで、そういう自分を正当化するために偽り続けた結果、出来上がったのが「彼女を神聖なものとする」という盾だったのかもしれない。

いや、なんとなく、本当に感覚でしかなかったが、彼女は最終的に自分を選んでくれると思っていたのだ。それはただの自惚れだったと気づき、羞恥心が脳内をピンボールのように暴れまわる。

ほとんど上の空のような気持ちでお酒を飲んでいた。彼女もいつもより言葉数が少なかった。無言でいても気にならない関係だと2人でよく話していたが、今日はそうではなかった。僕らの関係は変わってしまう。もう、友達のままではいられないのだろう。そこは言葉にしなくてもわかるという雰囲気。でも重たい空気というよりはフワフワとした感覚に包まれていた。どうしていいのか分からず、僕は煙草とお酒で誤魔化して、彼女もハイペースでお酒を飲んでいた。

彼女の彼氏、今は婚約者が正しいのか。どういう相手なのかは少しだけ聞いていた。とても彼女を好きでいて、嫉妬心も強いらしく、男と2人で飲みに行くなんて話をしたら怒り出して最終的には泣き出すような感情豊かな人。そんな印象だ。だから彼女は僕と飲みに行くことを彼氏には黙っていたし、僕はそんな奴とは早く別れればいいのになんてぽろっと口にしたが、「そんなことしたらあの人は自殺しちゃいそう」と苦笑いを浮かべた。

フワフワとした空気にさらされながらも、アルコールの力で僕らは徐々にいつものペースを掴んだ。「結婚」の話は忘れてくだらない話で笑い合う。もう最後かもしれないから。酔いが回った頭の片隅にはそんな感覚が残っていた。

終電間際まで僕らは居酒屋で過ごして、少しフラつきながらも駅の改札へとたどり着く。改札の前で彼女は立ち止まった。

「……どうした?」

彼女は僕に右手を差し出す。

「握手」

ああ、本当に最後なのだな。僕は彼女が好きだったし、今でも好きだし、この先も多分好きだと思う。それでもこの想いは実らなくて、彼女は他の男と一枚の紙切れで契約を結ぶのだ。差し出された右手をそっと、大切なものに触れるように、優しく掴む。

「なんかお別れみたいだね」

彼女は笑いながら泣いてるような気がした。実際に涙が流れているというわけではなかったが。僕も泣きそうだったが笑って誤魔化した。

「まぁ、愚痴りたくなったらいつでも呼んでくださいよ」
「ふふふ、ありがと。そうするー」

改札を抜けて別々のホームへ僕らは進む。最後に何か言葉を交わした記憶もあるが、あまり覚えていない。そういえば、僕が彼女の身体の一部に触れたのは別れの握手が初めてだった気がする。ようやく触れられたのに、喜びはなくて寂しさに襲われる。残酷な人だ。

僕は彼女が他の男と付き合おうと、結婚しようと、僕が誰よりも彼女のことを好きだという自信があった。だから、例え二番目の男だろうが、都合の良い男だろうが、彼女に会えれさえすればそれで良かった。僕は君の愚痴を嫌な顔せずに聞き続けられるし、趣味や趣向も似ているから君にとっていつでも自然体で接することのできる存在としてい続けたかった。

「そんな相手はやめて、もう俺にしとけよ」くらいの一言を、最後に告げることができれば良かったのか。でも、彼女に依存する交際相手の精神状態は話を聞く限り切羽詰まったものだった。彼を捨てて僕を選べば彼は死ぬかもしれない。そしたら彼女は罪悪感に苛まれて心を壊してしまうかもしれない。それは避けたかった。

なんて、言い訳だ。僕は結局のところ、ようやく手にした彼女との心地の良い距離感を失いたくなかっただけだ。前に進むのが、関係を変えることが怖かっただけなんだ。

いつでも連絡してよ。僕は君にとって最高に都合の良い男でいるから。冷たい夜風で身体の芯から凍っていくような感覚に襲われる12月の新宿駅。2番線にやってきた最終電車にゆられて窓から見えるキラキラした光をぼんやりと眺める。

それから2年が経つ。彼女からの連絡は一度もなかった。

それでも僕はいつでも、いつまでも待っている。安い居酒屋で彼女と過ごす時間。ほろ酔いで歩く帰り道。最後に交わした握手と僕の勇気のなさと口に出せなかった言葉が、時々フラッシュバックする。


〈あとがき〉
実体験のようなフィクションのような、そんな曖昧なテンションでストーリーを綴りたかった。なぜか最近エンドレスに聴いてたある曲が影響しているのかもしれない。なんか切ない恋愛モノが読みたかったし書きたかった。読んでくださった方に感謝しつつ、最後にこの曲を。GRAPEVINEで「ぼくらなら」


この文章をお読みになられているということは、最後まで投稿内容に目を通してくださったのですね。ありがとうございます。これからも頑張って投稿します。今後とも、あなたの心のヒモ「ファジーネーブル」をどうぞよろしくお願いします。