『協働することへの憧れと不安』について思うこと

簡単なコメントを書くつもりで書いていたら、いつのまにか500字を超えていたので、noteとして投稿することにします。

『一人で意思決定していくことが、ときとして辛い』ということについては、よくわかる(その意味するところや原因は別として)。

それは、僕自身も常に感じていることだから。自分が考えようとしていることについては、いちおう自身の中で相対化しようと試みているつもりだけれど、本当にこれでいいのかという『拠り所のなさ』ことはどうしても気になる(もしかしたら、僕自身は、知らず識らず「いい人」の役を演じることから逸脱できないでいるためなのかもしれません)。

ともあれ、自分の考えが一番という風にはとても考えにくいのです。そんなふうにできたらどんなに良いだろうと思うこともある(でも、本当にそうだろうか)。いずれにせよ、自身を全面的に肯定することができないのです。自信の無さか。それとも自意識過剰のせいなのか。

たいした研究はしなかったし、実作もきわめて少ない。この他にも、知的能力のことで言えば、知能指数がとても低くて(この評が教壇の上に置かれていた)、それを見た同級生たちに同情された覚えがある。今でも暗算はまったくだめだし、たいていのことはいったん視覚化しないと理解できない。といって、運動能力に恵まれているわけではもちろんない。どちらかと言えば臆病な質で、姿形については、これはまあ、好まれるほうじゃない。こうしてみると、その材料にはこと欠きませんね。

伊丹十三が、かつて、「自分はただの器にすぎない、自身は空っぽの人間なのだ」というようなことを書いていたけれど(これは、韜晦、または強烈な自負の裏返し、あるいはカモフラージュのような気がする)。僕自身については、文字通りそうに違いないようなのです。

だから、僕の不安は、『自身の思いが投映されにくくなるのでは』という危惧ではなくて、逆に『自身の思い」が的を得ているのか、むしろ妨げになっているのではないか……、というものなのです(こう書いていると、ちょっと我ながら情けないね)。

ま、これはぼんやり暮らしてきたために、それを乗り越えることがついにできなかった、ということに他ならない。でも、それを言っていてもしようがないので、「10遍に1回」理論で乗り切るしかない、と思い定めようとしているところ(願わくば、せめてそのくらいのタフな気持ちを持ちたいのです)。

もしかしたら、こんなことを書いたのは、「恊働の喜び」をいくらかでも実感するための言い訳をしたいのかもしれません。いずれにしてもこんなことを投稿するのは、情けなくもあり、恥ずかしくもあるのですが、有言実行のためにも勢いに任せることにしようと思います。(F)

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