「協働することへの憧れと不安」への解答

「黒がいい人は挙手してください」。

いつだったか、HED展(環境デザイン学科の作品展)のためのスタッフTシャツを作るとかで、学生達が集まってミーティングをしていた。そのTシャツのデザインを決める時、まず色を決める多数決を採っていたのだ。

デザインを多数決で決めて行こうとしているのに愕然とした。他の学科でないならいざ知らず、歴としたデザイン学科なのにだ。Tシャツデザインを決定する代表(デザイナー)を決めるために多数決を採用すると言うのなら納得できる・・・。

いやまてよ、デザインとはもともとそのような物だったかもしれない。

「問い」と「解決」があるのが、デザインだ。どんな色がスタッフTシャツとしてふさわしいかと言う問いは、一人のデザイナーの恣意的判断では解決できない。大勢の意見をもとに解決しなければならない。とはいえ、みんなの意見のまとめてとして出来上がったものは何だか冴えないものに成りがちでもある。

アートとデザインの違いは何だろうと考える。アートはある人間の特殊な体験や感情を抽象化して行く作業ではないか、それは帰納的と言える。その逆、演繹的といえば、一般原理から特殊な原理を導き出すテクノロジーである。アートとテクノロジー、この両方を同時に行なうのがデザインだと言えないだろうか。

しかし、自分を振り返ってみると、どうも少しアートよりな思考が強いように思う。(いや、全然反対に見えるよと言う人もいるかもしらない。それは自分のことは自分では案外わからないと言う事)デザインは「怒り」だと言っていた時期があるがそれもその現れの様な気がする。

協働して解決を見つけていくときにはどうしても正解へ向かって行く事になる。ただし、アートやデザインにとって必ずしも正解を出す事がよいことではない。平均点はとれているが、魅力が欠けたものが多い。
「正解のコモディティ化」。

デザインに必要な物は、「問い」に「決を採る」ではなく、
デザインに必要な物は、「怒り」に「尻を捲る」だーーー。Y

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