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教師の夢破れ行き着いたのは自分らしい道: フリーランスのライターになる前の話

若さが故にもがき苦しんでいた頃の話なので少々暗いトーンなのをお許しください。

もう何年も前から書こうと思っていたのに向き合う労力が思いのほか必要で……

ライターは書くのが生業ですが、仕事で書く文章と自分の話をするのとでは勝手が違いますね。

ただ、自分の経験からの気づきや学びを記すことに意味があるのではないかと感じましたので、少々荒っぽくても書いてみることにしました。

少し長くなりますが、若い方やキャリアや仕事、働き方に悩んでいる方に読んでいただけたら嬉しいです。

22歳の頃。心底絶望していました。深い自分への失望、悲しみ、敗北感──周りはみんな優秀で順調で、私ひとり取り残されたような憂鬱な気分だったのです。

なぜこんな気分になったのか。ことの発端は幼少期に遡ります。

教師の父を子どもの頃から誇りに思っていました。母も家庭に入る前は教師だったので、この仕事の良さをよく聞かされていました。

人に慕われ、人を導く尊い仕事──

いつしか私の夢も教師になることになっていました。

勉強を頑張って、推薦入試で第一志望に合格。教員免許を取得して、英語教師になる。

当時はこの道しか見えていなかった。本気でその通りに進むものだと、信じて疑わなかったのです。

でも、違っていました。教育実習に行った時に教壇に立つ自分に違和感を感じました。そんなはずはない、ずっと憧れていたはずなのに何かが違う──

不安、恐怖、自信のなさ。自分と年がそう変わらない生徒を目の前に私はスーツを着ていて、彼らは制服を着ている。それだけの違いのように感じたのです。

一体、何を私が教えられるのだろうか……
おこがましい。

そんな言葉がグルグルと頭の中で回転していたのを思い出します。

今思えば当時は自分という存在があやふやで人生経験も圧倒的に足りていなかった。それにプロフェッショナルとしての英語力にも自信がなかった。違和感の正体はそれだけのことだったのかなとも思います。

こんな状態で教師になって、本当にいいのだろうか──そこからは急に迷いが生じてしまいました。

お別れの日に生徒たちが書いてくれた寄せ書きのメッセージ。きちんと向き合えないまま月日が流れてしまいました。

数年後、改めて見返してみたのですが、そこに書いてあったのは感謝、ねぎらい、応援……どれも優しく温かい言葉でした。

先生はきっといい先生になるよ。私が保証する。頑張ってね。

これまでに会ったことがない面白い先生だった!ありがとう。

当時は自分のことで精一杯でじっくり向き合うことができなかったけれど、周囲は外からやってきた私に対しても寛容で好意的な眼差しを向けてくれていました。それを見なかったのも、気づけなかったのも自分自身の未熟さゆえです。

今思うと自分のいたらない部分にばかりに目が向いていたけれど、意外とちゃんと実習で教師をやれていたのかもしれません。

自分では苦手だと思っていることが周りには上手だと思われていたり、得意だと思われていることは結構あるみたいです。最近も自分では苦手だと思っていた話すことを褒められました。

親しい人からはこうも言われました。

「自分のことは案外見えていないものだよ。私の方がよっぽどあなたのことをよく知っていると思うな」

脱線したので話を戻すと、教育実習から帰ってきてからは、自分が何をすべきか分からなくなってしまった──

ただ、卒業後の就職先を見つけようと思って正社員の求人を探し始めたのですが、とにかく時期が遅かった……

当時は2〜3年から就活スタート。4年の前半には就活はほとんど終わっていて、クラスメイトの大半は内定をもらっている。そんな時代でした。

第一志望ではない会社に入社することになった同級生が大半で、就職浪人(卒業を1年遅らせて新卒カードを使って就職するため)という選択肢も身近にあった。

私たちが卒業した年はリーマンショックが起きた翌年で、第二次就職氷河期と呼ばれる時期に運悪く遭遇していたと後から知りました。

第二次ではなく第一次就職氷河期はもっと悲惨な状況だったみたいですが、私たちの頃は100社受けて内定が1つも取れない……説明会や面接のため自費で月に4回以上も東京に足を運ぶ。深夜バスで移動、東京に数名で短期でウィークリーマンションを借りている。そんな話もよく聞きました。

このように周りが努力する中、凡人かつ遅いスタートの私に残された選択肢はそれ以上に少なかった──

ハローワークでも就職活動を始めました。それでも上手くいかなかったので、窓口の人に「私に合いそうな仕事先を選んでくれませんか?」と伝えたところ、紹介されたのが私の初めての就職先です。

家族経営のアットホームな職場でした。面接から入社まで、とにかくスムーズに進んで働き始めてから25歳を迎えるまで、あっという間に月日が流れていました。

あまり適性がある仕事だったとは言えませんが、何をやっても意外と前向きに楽しめる性格なんだなと気づけたのは新たな発見でした。

それから不思議な縁を感じたのはひとりっ子で親が教師、教員免許を取ったけれど教師にならなかった、ひとまわり以上、年上の女性との出会いです。

自分の将来を彼女の姿を通して想像しましたし、各々の経験や価値観をシェアする中で自身の凝り固まっていた心が少しずつ解放されていくのを感じました。

教師になれなかった自分。他の道もあると気づき、問題ともいつしかフラットに向き合えるようになっていて、今度はこれまでの得意や褒められたこと、興味があることを試してみようと副業で在宅の文章の仕事を始めました。

それが自分にはとても合っていたようで副業を続けていたらいつしかライターの仕事が本業になっていました。

当時の私の仕事は正社員で週5のフルタイムで残業もありましたが、地方で10年前なのに副業許可。金髪で働くスタッフにも寛容で服装自由。硬い業界のわりに恵まれた職場でした。

それから少し経ち、転職を考えて仕事を辞めようかなと悩んでいた時に次に進む勇気をくれる頼もしい存在にも出会いました。

かつての私はこれしかないという思い込みが強かった。それだけに意識が向いていると、確かに目標達成はしやすいのかもしれません。

でも、途中まで順調だったとしてもひとつのことしか見えない状態は危険も孕んでいて。

“それがなくなった”時に自分が途端に分からなくなる、私のようにアイデンティティを喪失してしまう姿を近くでたくさん見てきました。

そんな時に色々な人の話を聞いて、影響を受けて目線が変わる中で、違った世界や別の可能性があることに気づけるかが鍵を握っているのかなとも思います。

人には色んな事情があって、こうなりたいという希望もあるけれど、それだけが全てではなく他にもたくさん可能性があること、選択肢だってあることを知ってほしくて、学生さん、仕事や働き方やキャリアに悩む方、フリーランスやライターさんの相談にのっています。

34歳の現在、当時とは仕事内容も環境も置かれている状況も悩みの種類や質も全てが変わりました。

でも、あの頃の弱く儚かった自分が今の私を形づくる原点です。

もっと辛い経験をしている人はたくさんいる。そういう人からすれば、こんな話はちっぽけな話なのかもしれない。

でも、仕事と生活は密接につながるもの。だからこそ、幸福な働き方をひとりひとりが追求してほしい。

職業や進路選択でつまづいて、そこから立ち上がれなくなる人を減らしたいんです。教師にはなれなかったけれど、別の形で人の人生に影響を与える人間になりたい。そう思っています。

当時の自分にとっては教師になることが全てで、それしか見えていなかった。だから苦しかったのかなと、ようやく言語化できました。

今辛い方は目の前で起きていることが全てで、それを一刻も早く取り除いて楽になりたいと思うかもしれない。

でも、不本意だなぁと思いながらでも、ひたすら自分や周囲と向き合っているうちに思いがけない心境の変化や道が開けることがあるかもしれない。

ふとした瞬間、出会いから良いヒントが得られることがあるかもしれない。

今の自分がダメだと思えても、この先ずっとダメなわけではない。この先の未来は大丈夫だと信じて、どうか苦しい時期を乗り越えてもらいたいなと感じます。


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