SNS。発散の墓場。浮き彫りになる私の価値。

SNSの議論をするときに、承認欲求を満たすために依存する、みたいな話が多いけど、私はそれだけではなく発散したい、という欲求も前段にあるのではないかと思っている。
発散と承認について考えたので書く。インスタとFacebookを想定している。


発散したくてSNS依存している人は多分、日頃自分の話を聞いてくれる相手がいないか少ないんだと思う。

あとは誰が受け止めてくれるのかわからないパターン。人のこと信用してなかったり、リアルにいる目の前の相手のことをちゃんと向き合えてない、ちゃんと知らないから。(から、自分のことを話していいのかもわからず、相手が何の話が興味あってないのかもちゃんと知らない。相手のことを理解しようとしてないから)

これを受け止めてくれる人がいないから、SNSに注ぎ込んでいる。

私が実際にそうだった。
自分が考えたことを面白がって聞いてくれる友達がいない。自分が興味があることを共有し続けられる友達がいない。
一人で楽しめるほど大人になれてもいない。

そういうやつが日々せっせとクソどうでもいいことを垂れ流しているのだ。

誰にも聞いてもらえない寂しさと、発散する快楽をぶつける。


そして発散した次にあの承認欲求がくる。

誰が見てくれてるのか。
この人はあんまり私に興味ないんだな。
この人は認めてくれないんだな。
いらないバイアスがかかる。勝手に嫌いになる。失望する。絶望する。

どれだけ自己表現をしたものであっても、冷ややかな視線を感じる。
私がやることに信用がなくて、いいことをしても評価されるわけではなく、ださいな、程度にしか思われてないのもなんとなく感じる。
反応がないとそれだけダメージを大きく感じてしまう。疎外感や、自分への興味のほどがネット上でわかってしまう。

お前のやることには価値がないんだぞ、と突きつけられているみたい。

話を聞いてほしくて自分のことを垂れ流しているのに、実は発信すればするほど恥をかいているわけだ。

自己表現する
自分の話をする
でもそれを受け止めてくれる人はSNSにすらいなくなった。
私という「私人」は完全に世の中に居場所をなくして拒否されたのだ。

結局は寂しくなって、SNSという友達すら捨てるのだ。やればやるほど危険でしかし便利な発散アイテムは今すぐ捨てないと心が壊れてしまう。
私事を切り売りして垂れ流すのは恥にしかならない。

これからは、発散じゃなくて発信にしよう。

発信するのは情報と言葉を整頓した、主張のある「作品」だけにしよう。

そして自分の与太話すら拒否されるなら、もうオフィシャルな発信だけをしよう。


私がそう決めた数日後に、こんな動画を見た。
SNSを捨てたら、本当に孤立するんだろうなと思ってたけど、同じような主張をしている方がいて少し安心した。きっと大丈夫だ。

「インスタントな承認の交換は麻薬。だからSNSは危ない。」
そんな議論を見て思った。

SNSを捨てるということは承認欲求を捨てるということだ。
この承認欲求を捨てて、他人じゃなくて自分と向き合う時間を作ろう。

そうおもった。

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