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ちゃんと自転車に「乗れた」ことなどあっただろうか 〜映画『夜明けのすべて』の自転車描写について〜

 あなたは自転車に乗ったことがあるだろうか?

 きっと、ある、と答える人が多いだろう。しかし、僕は決してそう言い切れない。もしかしたらあるのかもしれないが、思い返してみると、自転車に乗る、という作業を完遂できた記憶は一向に見つからない。

 自転車を漕いだことなら、幾度となくある。何ならさっきも、お気に入りのラーメンを食べにいくため、グイグイと力を込めて自転車を漕いできた。だが、さっきも、それ以外の時も、漕ぐ、という作業をひたすら行なったに過ぎず、乗る、という次元には到底達していなかった。そう思えてならない。

 いつか自転車に乗る、という行為を完璧にやってのけることができたら、実に誇らしい思いがするだろう。いや、誇りに思う、という状態自体が、漕ぐ側に属する何かなのかもしれない。もし完璧に乗ることができたのなら、誇りすらも見えなくなるだろう。そこまで含めてようやく、僕は自転車に乗った、と言い切ることができるのだと思う。

 少なくとも今の僕にとって、それはなかなかに難しいことだ。ついつい力んで、漕ぎ出しそうになってしまう。まずは、その難しさを認めるところから、自転車に乗りきることの遠さを受け入れることから、始めてみるべきかもしれない。



 映画『夜明けのすべて』の見事な自転車描写を見て、ふとそのように思った。パニック障害とPMSに悩まされている男女が助け合う姿を描いたこの映画には、素晴らしい自転車描写がある。PMSにより、退勤を余儀なくされた藤沢(演:上白石萌音)に差し入れをするため、自身もパニック障害を抱える山添(演:松村北斗)が自転車に乗る場面だ。どの要素みても、それなりにグッとくる場面に仕上がっているのだが、僕が一番衝撃を受けたのは、自転車に乗る山添の、やたらと力の抜けた様子だった。

 親しい相手(特に異性!)を助けるために移動する場面、と聞いて、あなたはどのような絵を浮かべるだろうか。僕の場合、全力で、すなわち自らの心身に無理を強いることを厭わず、がむしゃらに駆け出す絵を浮かべてしまう。おそらく、あなたもそうだろう。実際、大抵の映画やら何やらでは、そのように演出されているはずだ。自らの心身を破壊してまで相手を助けようとする、という状況を武器に、観客の感情を刺激しようとする作品が大半だろう。否定するわけではないが、新海誠の『天気の子』終盤の線路を走る主人公の姿なんか、その典型だと思う。

 しかし、『夜明けのすべて』のこの場面は、決してそんな風にならない。観客の感情を上下させるために、自らの心身を犠牲して相手を助けようとする姿を使ったりしない。むしろ、この場面の山添は、とてつもなくリラックスしているように見える。なんなら、日光や風を浴びて気持ちよさそうにしてすらいる。

 自転車に乗って、藤沢を助けにいくわけだが、そもそもたまにしか自転車を漕がない。足をあまり動かさず、何となく回っている車輪に、ただ乗るようにして移動しているのだ。上り坂に当たったら、当然のように、自転車に乗ることすら中止し、ゆっくりと押して歩いていく。その横をママチャリがグイグイと登っていく姿が、同じ画面に捉えられているので、ますます彼のゆったり具合は目立つ。


 この場面には、『夜明けのすべて』という映画の、慎ましやかながらもはっきりした反骨精神が現れていると思う。前述した通り、大抵の作品では、このような場面はできる限りパワフルに描かれる。本作はその真逆をいくことによって、従来の人を助けようとする場面、そしてそこに期待を寄せる作り手と観客双方の価値観を解体する。静かに、静かであること自体を武器に、我々の中にある「エモーショナルなケア像」とでも呼ぶべき何かを、切り裂いて見せる。松村北斗が自転車に乗るというだけのこの場面には、それほどの破壊力が、確かに宿っているのだ。



 静かであること自体によって切り裂かれた僕は、当然ながら、僕の中にある「エモーショナルなケア像」とでも呼ぶべき何かと、その中核をなす、自らの心身を壊す姿勢に対する信仰を、見つめざるを得なかった。そして、自転車をギコギコ漕ぎ、そこに自己破壊的な喜びを覚えている自分をも、発見してしまった。話はこの文章の頭に戻る。

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