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ここらへんの史跡をゆく⑪ ~中村

本シリーズ第11回は 中村 から。多分ここらへんの人しか知らない地名でしょう。中村は豊臣秀吉と加藤清正の生誕の地で、名古屋市の行政区のひとつ「中村区」の由来になっている。
【余談】初代中村勘三郎はここ中村の生まれ(1598年)というのが有力説。

(今の地図での)名古屋市出身の戦国武将を行政区別にまとめてみると‥ 
 〖中村区〗 × 豊臣秀吉(1537-1598)    ◎× 加藤清正(1562-1611)
 〖中川区〗 ◎ 前田利家(1539-1599)   ◎ 池田恒興(1536-1584)
 〖名東区〗 × 柴田勝家(1522-1583)
 〖昭和区〗 × 佐久間盛政(1554-1583)
 〖西 区〗    ◎ 丹羽長秀(1535-1585)   △佐々成正(1536-1588)
など大勢輩出している。
【余談】鎌倉幕府初代将軍 源頼朝は、1147年名古屋市熱田区の生まれ。

名古屋市以外の尾張地区出身の戦国武将は‥
 〖愛西市〗 ○ 織田信長(1534-1582)
 〖あま市〗 ◎ 蜂須賀正勝(1526-1586)  ◎△ 福島正則(1561-1624)
 〖一宮市〗 ◎ 山内一豊(1545-1605)      ◎ 浅野長政(1547-1611)
など錚々(そうそう)たるビッグネームがリストアップされる。

上記13名の武将は知識浅い私の人選。私が知っている名前だけを挙げた。
大事な名前が漏れている可能性もありますので悪しからず。
名前の前に、◎ ○ △ × 印を付けました。何だか分かりますか?
答えは後ほど。

赤い線は尾張と三河のおおよその境界線
名古屋駅は中村区の東部に位置する

先日私は秀吉と清正生誕の地 "中村" を訪ねた。そこには豊臣秀吉を祀る豊国神社があり、後に作られた中村公園の一部になっている。公園内には中村公園文化プラザなる建物が建ち、一階が図書館、二階に「秀吉清正記念館」が設けられている。

同じ名前の豊国神社は、秀吉ゆかりの場所や、彼と縁の深かった大名が治めた土地に存在する。秀吉没後、京都、大阪、金沢、長浜(滋賀)、小松島(徳島) など各地に豊国神社が創建された。しかし大坂の陣で豊臣家滅亡のすぐ後、家康の意向でその神号が否定され神社は廃絶となった。
時は流れ明治に入ると、明治天皇は「豊臣秀吉の国家への功績は多大」とそれまでの見解を完全に覆し、豊国神社の再興を布告した。これにより各地の豊国神社は約250年振りに復活を遂げた。
徳川幕府の間は、祭神を変えたように見せかけて神社を続けたり、ご神体を隠し持ったりと、豊国神社には苦難の歴史とドラマがあったそうだ。

しかしここ中村の豊国神社はそれらの仲間ではない。各地で豊国神社再興の機運が盛り上がっている明治の初め、当時の愛知県令(知事)と地元の人々の「秀吉生誕の地に秀吉を祀る神社を創ろう」運動が盛り上がって創建に至ったもの。いわゆる「町おこし」の一環で生まれた比較的新しい神社なのだ。

神社の東隣りにはふたつの寺院が並んでいる。ニ寺とも加藤清正による開基。常泉寺は1606年に秀吉を偲んで創建、もうひとつの妙行寺は1610年に清正が、近隣にあった寺を自分の生誕の地に移築・再建したもの。ふたつの寺ともに、よく手入れされていて静謐な空気が流れていた。

***

「豊公誕生之地」の碑(右) と豊国神社   ※タイトル画像は豊国神社本殿 
常泉寺にある「豊太閤之像」と「太閤産湯之井戸」
妙行寺 山門
訪問当日「秀吉清正記念館」では "特集展示" が行われていた 思いがけずしっかり勉強できた

***

ここで冒頭で出した問題の答えを発表します。
私は歴史ばなしに触れる時「それで子孫はどうなった?」「家は続いたの?」「その後栄えたの?どうして没落したの?」みたいなことに過剰な興味を抱く。競馬予想も血統を重視するし、NHKの「ファミリーヒストリー」は大好物の番組だ。前フリはこのくらいにして‥ 解答は以下のとおり。

◎○△×は、記載している武将個人ではなく、その "お家" が その後どうなったかの分別結果を表しています。

◎‥ 大藩の大名に取り立てられる ~8家
〇‥ 小藩の大名となる  ~1家
△‥ 旗本となる   ~2家
× ‥ お家が断絶する   ~4家    
※印ふたつは "合わせ技" を意味します。例 ⇨「大名となったが後に改易」
※◎のみ、○のみ、△の "家" は明治まで続き、維新後は華族に列している。

まとめてみて驚いたのは、13家中8家もが大名になっていること。関ケ原の戦いまでに既に3家は滅んでいるので、10家中の8家、豊臣家を除くと9家中の8家だ。しかもそれら8家全ては、かつて秀吉に仕えていた "家" だ。

【因みに】滅んだ3家はいずれも秀吉の手による。賤ケ岳の戦いで柴田勝家は討死、佐久間盛政は処刑された。佐々成政は失政の責任を問われ秀吉から切腹を命ぜられている。

不思議に思い、更に調べてみると‥  驚いた。豊臣家を除く9家の中で、関ケ原で西軍に就いたのは丹羽家の長重のみ。あとの8家は東軍(家康)に与(くみ)した。秀吉と同郷の尾張出身の武将たちは、秀吉亡き後の豊臣家を見限っていたのだ。

私が ◎印を付けた "家" は、関ケ原の戦いの戦功によって大名に取り立てられたということが分かった。関ケ原では西軍で戦った丹羽長重も、後の大坂の陣で名誉挽回(?)とばかりに豊臣家潰しに大活躍し、大名に復帰している。

関ケ原の戦いでは西軍についた武将も多くいて、東西の兵力に大差はなかった。そんな状況にもかかわらず、かつて秀吉に仕えた尾張出身の武将たちが、ことごとく東軍(家康)に就いた理由は何だったのか。 

単なる偶然とは思えない。「近くにいたが故に離れていった」何らかのメカニズムがあると思うのだが、新米の戦国史マニアの私にはこれが限度。
本稿は疑問を呈するだけで終わりとする(締めは駄ジャレです)。

~こんな私の疑問の答えは、歴史通なら当たり前に知っているのかもしれません。私もちょっと勉強してみます。暖かくなったら、関ケ原古戦場記念館にも行ってみよう。

***

私はほぼ時を同じくして、中川区の荒子周辺を訪ねた。ここは加賀藩藩祖 前田利家の生誕の地で、その痕跡が今も多く残っている(2002年大河ドラマ「利家とまつ~加賀百万石物語」の放送に合わせて整備されたようだ)。本稿は当初「中村~中川」として合せて紹介するつもりだったが、思いのほか中村で字数が嵩んでしまったので、中川(荒子)編は別稿に譲ることにする。

< 了 >


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