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エンタメ異人伝 VOL.13 須田剛一

ええっとね・・・、僕は父親の記憶がないんです。
――まず、幼少期のお話から聞かせてください。ご出身は長野ということですが、長野のどちらですか?

須田 厳密に言うと上田です。僕は上田で生まれたんですよ。でも、すぐに松本に移ったので上田には1年いなかったと思います。松本には3歳ぐらいまでいたのかなあ。なので、松本の記憶はうっすらあります。そのあとは長野市ですね。

母と須田剛一氏

――松本の記憶はどんなものがありますか。

須田 美ヶ原温泉に父親方のおばあちゃんの家があって、その近くに住んでたんです。おばあちゃん子だったので、よく遊びに行ってた記憶があります。で、美ヶ原にはたくさんホテルがあるんですが、そのホテルの大浴場にいつも母親と行ってたのかな。そういう記憶がうっすらあるんですよ。

―それは家にお風呂がないとかじゃなくて?

須田 じゃないです。入浴料払えば入れるんですよ。銭湯と同じような感じで、せっかくだから温泉に、みたいな。それが僕の一番遠い記憶ですね。多分2歳か3歳だと思います。

――ちなみに、ご実家は何をされていたんですか?
須田 おばあちゃんがお店をやってたと思うんですよ。で、多分母親がそのお店も手伝いながらって感じで。

――なるほど。上田でお生まれになって松本、長野市と移られてきたわけですよね。それはお父様のお仕事の関係ですか?

須田 ええっとね・・・、僕は父親の記憶がないんです。途中でいなくなったんですよ。多分、松本時代です。

名字が小林から須田になったんです。

――それは離婚ではなくて?

須田 離婚です。僕が小学2年のときに名字が小林から須田になったんです。

――もともと小林さんだったんですか。

須田 はい、小林でした。なので、父親のことはまったく記憶にないです。写真は見たことあるんですけどね。

――それは、やはりお父様に要因があって、その……。

須田 父親が登山好きだったんですよ。母親も一緒に登山をやってて、それもあったんでしょうね。「あんたのお父さんは登山が大好きで、ガケから落ちたんだよ。それで行方不明に…」みたいな。実際は違う理由だったのですが。

――じゃあ、真実を聞いたときは、けっこう驚かれたんじゃないんですか。

須田 う~ん、それを聞いたところで別に……これは僕の場合なんですけど、最初から父親がいなかったのでコンプレックスがないんですよ。母ひとり子ひとりで、ずっと育ったので……
だから、父親がいなくなったとか、父親が欲しいとかいう感覚が一切なかったんです。父親への憧れもなければ、思い入れも特に何もないので、あまりなんとも思わなかったっていう。

――そうですか……。

須田 はい。ただ、「小林」よりも「須田」のほうが名字的にははまったといいますか(笑)。

――僕も「須田」のほうがしっくりきますよ。マッチするのはやっぱり「須田」ですよね。何か、宿命づけられている感じがします。

須田 ありがとうございます(笑)。

――すみません、なんか無理矢理で。でも、その頃って感受性を司る一番大事な時期ですよね。遊びとかに関して、これはやっちゃダメとか、あれはやっちゃダメみたいなことはなかったんですか。

須田 いや、なかったと思いますね。かなり放任主義で育てられました。

子供の危機管理なんてほぼゼロの時代

――じゃあ、もう何をやってもいいみたいな感じで?

須田 そうですね。田舎なので遊ぶところはいくらでもあるじゃないですか。目の前が田んぼだったり野原だったりするので、もう駆けずり回ってました。それに、今ほど子供に対する危機感がなかったといいますか、子供の危機管理なんてほぼゼロの時代だったじゃないですか。確か保育園への通学とかも子供たちだけで行ってましたし。

で、通学途中に僕がいなくなったことがあったらしいです。

――須田さんが?
須田 はい。途中で勝手にルート外れていなくなったんです。プールか何かに落ちたんじゃないかってことで大騒ぎになって、みんなでプールを竹の棒で探ってたんですって。

――それは大騒ぎになりますよね。結局、どこに行っていたんですか?

須田 おばあちゃんちに行ってたんです。
家の場所も記憶してたんですね。で、保育園に行かないで、おばあちゃんとこで遊んでたらしいっていうのを母に昔よく聞かされました。 

小学生のときに観た『エクソシスト』がトラウマ

――その頃にマンガとか映画とか本とか、のちのちのクリエイティビティに結びつくような体験みたいなものはありましたか?

須田 松本時代はまだ3歳とかだったんで、うっすら記憶にあるのは映画ぐらいです。どこの町か分かんないですけど旅行かなんかで行って、そこで『ガメラ』を見た記憶があるんです。それが、多分僕が初めて映画館で観た映画だと思うんですけど、すごく怖かったんですよ。怪獣映画ってトーンが暗いじゃないですか。で、暗闇の中をガメラが発光して空飛んでて、ギャオスかなんかと戦ってたと思うんですけど、それがまた気持ち悪くて。とにかく怖かった記憶だけ残ってます。

――あの頃の怪獣映画ってけっこうダークですよね。『マタンゴ』(注1)なんかすごく怖いし、初代の『ゴジラ』もけっこうダークですし。

須田 そうですよね、破壊神ですからね。

注1:初代『ゴジラ』を生み出した本多猪四郎監督、円谷英二特技監督コンビによる1963年公開の日本のホラー映画。無人島に漂着した男女がキノコの化け物と化していく恐怖を描く。

――今でこそ明るく見られますけど、幼少期に見たらけっこうトラウマですよね。

須田 と、思いますね。母親が映画好きだったので、映画館にはちょくちょく連れてってもらってたんですが、小学生のときに観た『エクソシスト』(注2)もすっごく怖かったです。あれはトラウマです、完全に。

注2:少女に憑りついた悪魔とカトリック神父との戦いを描いた1973年(日本では1974年)公開のホラー映画。悪魔に憑依され変貌していく少女のショッキングな描写が話題となり、日本でも大ヒットとなった

――『エクソシスト』はねえ~。アレをそのくらいの年齢で見たら相当怖いと思いますよ。

小学校時代

須田 怖かったです。しかも、雨の日だったんですよ。雨がザーザー降ってる中を長野の駅前の映画館に見に行って。それで、あの映像を見て……いやもう怖かったです。この世の終わりかってぐらい怖かったです。

――アッハハハハハ、でも分かる気がします。

須田 だから『エクソシスト』は鮮烈に残ってます。鮮明に残ってますね、頭の中に。

僕らの時代は「冒険王」っていうのがあったんですよ。

――そのあとはどうでしたか。ゲームに出会うまでに何かエンターテインメントのポイントになるようなものはありましたか?

須田 子供が好きになるものはすべて好きでした。まずは『ウルトラマン』ですよね。特撮系は見れるものはすべて見てました。『仮面ライダー』とかの等身大ヒーローも大好きでしたし。なので、当時ケイブンシャの大百科(注3)はバイブルでしたね。あれで怪獣の名前を覚えました。まだ小学生になる前でしたけど『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』の怪獣は全部言えるようになってましたね。

注3:株式会社勁文社が刊行していた子供向けの文庫本シリーズ。特撮ヒーロー、アニメ、自動車、ラジコン、昆虫、プロ野球、相撲など多彩なジャンルをテーマにしており、情報量も充実していたことから男の子たちの間で絶大な人気を誇った。

――そんなにですか。

須田 はい。ほかには「妖怪大百科」とか、「テレビマガジン」「テレビランド」(注4)とか。あと、僕らの時代は「冒険王」(注5)っていうのがあったんですよ。覚えてます?

注4:どちらも児童向けテレビ雑誌で70年代はこの2誌が両巨頭的存在だった。
注5:秋田書店が刊行していた月刊マンガ雑誌。当初は少年誌だったが70年代に特撮やアニメ作品のコミカライズなどを中心とした児童向けテレビマンガ誌にリニューアルされた。

――もちろん覚えてますよ。「冒険王」、ありましたね。

小学校時代

須田 すごく好きでしたね。付録がよかったんですよ、「冒険王」は。友達もみんな大好きでした。ちょうど『ゴレンジャー』の始まった時代ですよね。確か小学1年のときに『ゴレンジャー』が始まったんですよ。

――今もご自身の分身としてのヒーローとかヒロインっていうのを常にイメージングされてますけど、その頃からヒーローものがお好きだったんですね。やっぱり、そのあたりがルーツだと思われますか?

須田 そう思います。『マジンガーZ』も『宇宙戦艦ヤマト』もそうです。いわゆるアニメーションや特撮の原点となっているものに早い段階で出会えたんですよね。『ガンダム』も中学1年くらいの時で、今もヒーローとして脈々と生き残っているものの最初のスタートをちゃんと見て、体感することができたんです。なので、体内にしっかり入ってる、もう血液となって流れているぐらいだと思うんですよ。

千葉は僕にとっては夢の国でしたから・・・

――日本の特撮やアニメのヒーローを初期から全部、身体に染み込ませてきたっていう感じですか。

須田 そうです。あと、僕は長野出身なんですけど、当時の長野って民放が2局だったんですよ。NHKを入れても4局しかなかったんです。それが良かったのか、悪かったのかは分からないですよ? ただ、選択肢がなかったので、あるものをすべて見てました。

――選択肢がないのが、かえってよかったと。

須田 ええ。もし、東京とか関東圏にいたら選ばなきゃいけないじゃないですか。多分、子供で民放5局って忙しいと思うんですよ。当時はビデオもないですし、取捨選択しなきゃいけないんですが、僕の場合は必要なかったので全部養分として入れることができたんです。でも、民放5局ってすごいですよね。実は4歳ぐらいの時に、母の仕事の都合で千葉に1年間行ってたんですけど、僕にとっては夢の国でしたから。

――なんでも見られますよね。

須田 もう、びっくりでしたよ。見たことない番組ばっかなんですよ。『カリキュラマシーン』(注6)とかね。長野では『ピンポンパン』(注7)しか選択肢なかったので、「これはなんだ?」って思って。特撮モノもアニメもくさるほどやってて、なんでこんなことが起こってんだっていう。

注6:70年代に日本テレビ系列で放映されていた子供向け番組。
注7:フジテレビ系で放送されていた子供向け番組で正式タイトルは「ママとあそぼう!ピンポンパン」。数ある子供番組の中でも特に人気があり、16年にわたって放送され続けた。

――同じ日本なのに(笑)。

須田 そうなんですよ。それで、もうテレビに夢中になりました。千葉の奥の方で八千代だったんですけど、街もなんか都会の雰囲気があって。

今冷静に思い出すと山奥なんですけどね(笑)。

そのときの体験がすごく自分の中で、いい思い出として残っています。

――じゃあ、その1年間は千葉にいて、それでまた長野に戻ってきたと。

須田 そうですね、はい。

なんだこれはっていう。衝撃でしたね。もう、完全にトリコです。

――長野時代はいわゆるゲームセンター、ゲーセンがお好きだったという話を読んだんですけど、ゲームに出会ったのもやはりゲーセンが最初ですか?

須田 ゲーセンよりも前ですね。

――というとエレメカ(注8)とかですか?

須田 エレメカもそうですけど、その前からです。長野なんでスキーに行くじゃないですか。母親に連れられてスキーに行って、昼にホテルとかで食事したりするんですけど、そういうところによく置いてあったんですね。『ミニドライブ』っていうレースゲームでコースからはみ出さないように走らせるアレです。懐かしいです!。

注8:ビデオゲームのような画面表示をメインとしない、いわゆるアナログ式のゲームのこと。ビデオゲームの台頭以前はデパートの屋上、ホテル・旅館、遊園地などのゲームコーナーにおいて主役というべき存在だった。

――ありましたね~。

須田 もう夢中になりまして、母親からお小遣いをもらって遊んだりしてました。で、ボーリング場とかでも、いわゆる『スペースインベーダー』の前の時代に海外から入ってきたビデオゲームが置いてあったじゃないですか。

――『ブロックくずし』とかアタリのゲームとかね。

須田 アタリだと『スターウォーズ』(注9)とかも早々に入ってきましたから。もう、どハマりですね。なんだこれはっていう。衝撃でしたね。もう、完全にトリコです。

注9:映画『スターウォーズ』を題材にした最初のアーケードゲーム。X-WINGを操縦して戦う3Dシューティングで、ベクタースキャン方式のグラフィックやコックピットのような大型の筐体、操縦桿を模したコントローラーなどの斬新さが大いに受けた。

――そんなにですか(笑)。

須田 多分、小学校の低学年だったと思うんですけども、そのぐらいの頃って光るものが大好きじゃないですか。しかも、それを動かせるわけです、自分がコントロールできるんですよ。もう、とんでもない装置ですよね。

――じゃあ、それからはずーっとですか。

須田 ずーっとです、ハイ。

ゲームセンターを自転車で10店ほどハシゴした

中学校入学時 母と

――家庭用はどうだったんですか。

須田 家庭用は高くて手が出なかったです。金持ちの家の子がエポック社のヤツとか持ってたので、遊びに行ってやりましたけどね。でも、あんまり面白くなかったです。

――確かにそうです。

須田 ゲームセンターの方がどんどんどんどん進化していってましたから、面白いゲームはゲーセンというのがありましたね。ファミコン(ファミリーコンピュータ)が出たのは多分高校の時で、もちろん友達が買ってましたから、みんなで家に遊びに行ってやったりとかしていましたけども。

――なるほど~。須田さんの世代だから、そこからスタートできるんですよね。それ以前はなかったものですし。ちょうど感受性のアンテナを張ってるときに、アーケードでそういうアタリのゲームとかが出始めたわけですね。

須田 そうなんです。だから、ベクタースキャンの洋ゲーもガンガンやりました。『スクランブル』(注10)とか死ぬほどやりました。当時は長野市だけでもゲームセンターが10店以上…いやもっとですかね。どの店がどこにあるのか、全部頭の中に入ってましたから自転車でハシゴしてました。で、小学校のときに50円ゲームセンターとかも出てきて。

注10:1981年に業務用としてコナミから発売された横スクロールシューティングゲーム。当時はまだ『インベーダー』のような固定画面が主流だっただけに非常に画期的だった。

――そういうのも出てきましたよね。

須田 一番安いところだと30円でした。ちょっと古くなったやつは30円で遊べるっていう

僕がよく行っていたのはコインランドリーだったんです。

――でも、まだその頃って中学・高校ぐらいですよね。そういう場所って、ちょっと怖くなかったですか。

須田 怖かったのは小学生のときですね。

――あ、小学生の頃からですか(笑)。

須田 最初の頃はまだ「ゲームセンター」じゃなかったですからね。

――『インタベーダ―』の前からですもんね。じゃあボーリング場とかですか?

須田 ボーリング場はまだ安全なんですよ。僕がよく行ってたのはコインランドリーだったんです。コインランドリーの洗濯機の数を減らして、空いたスペースにゲーム機が6台ぐらい置いてあったんですよ。

――うわ~、ハイブリッドですね。

須田 で、『インベーダー』とか『ブロックくずし』とか『ムーンクレスタ』(注11)とか、創世記のゲームですよね。そういうのが置いてあって遊びに行くんですけど、高校生の不良のお兄ちゃんたちがいるんです。で、彼らがタバコ吸いながらやってるんです。カツアゲされたことはなかったと思いますけど、でも怖かったなあ。

注11:1980年に日本物産から業務用として発売された、いわゆる『インベーダー』タイプのシューティングゲーム。自機をドッキングさせるとパワーアップする合体システムが話題を呼んだ。

――それは怖いですね(笑)。

須田 で、そのあとちょうど家の前にゲームセンターができたんですよ。小学2年か3年のときですかね。家の近くがショッピング街みたいな感じになって、ファミレスが目の前にできて。そのファミレスの前がゲームセンターだったんです。

でも、そのゲームセンターは全面スモークのガラス張りみたいになってて、反射しないように中がちょっと暗くなってるんです。で、当時中高生の不良のお兄ちゃんたちがタバコ吸いながらたむろしてるんですよね。なので、行くともう空気がよどんでいるんですよ。すごく怖いんですけど、それでも行きましたもんね。その怖さにゲームの面白さが、ゲームをやりたい気持ちが打ち勝つんですよ。だから、怖いとかそんなのは関係なかったですよね。

――じゃあ、もう輝く思い出ばかりですね。

須田 新しいゲームもどんどん出てきましたからね。「なんだ、このゲーム!?」ってビックリの連続でした。『平安京エイリアン』(注12)も初めて見たときビックリしましたもん。で、不良の兄ちゃんで上手い人がいるじゃないですか。ずーっと見てると、これはこうやってこうやるんだよ、みたいな感じで教えてくれたりして。

注12:東京大学の科学サークルが1979年に開発したアーケードゲーム。碁盤上の迷路に落とし穴を掘り、エイリアンを埋めることで倒していく。

とにかく東京に出たかったんです。

――それは楽しかったでしょうね。高校まで長野で、そのあと東京の専門学校に行かれるんでしたっけ?

須田 そうです、東京デザイナー学院です。なんでもよかったんですけど、とにかく東京に出たかったんです。

――なんでもよかったんですか? でも、デザイン系・服飾系の学校を選ばれたわけじゃないですか。それはやっぱりファッションとかが好きだったからじゃないんですか?

須田 ファッションは好きだったんです。高校の時はなんとなくですけど、ファッションや音楽に興味があったんで。

――それは当時聞いていたロックの影響ですか? 須田さんのインタビューにはザ・スミス(注13)の話がよく出てきますよね。

須田 そうですね。その前のニューロマ(注14)の時代からです。ジャパンとかデュラン・デュランとか。UK(イギリスで生まれたロック)にはもうド直球で影響受けてますね。ちょうどポリス、U2、ジョイ・ディヴィジョン、ザ・スミスが出てきたあたりで、インディーも含めてUKが一番面白い時代ですよね。

注13:ボーカルのモリッシーとギターのジョニー・マーを中心としたイギリスの伝説的ロックバンド。
注14:1980年代前半に一世を風靡したイギリス発祥の音楽ムーヴメントで正式な名称はニューロマンティック。シンセサイザーを多用したサウンドや派手なコスチューム、メイクなどがおもな特徴とされる。代表的なバンドはジャパン、デュラン・デュラン、ヴィサージ、スパンダー・バレエ、カルチャークラブなど。

――なるほど、それもあって服飾系に。でも、一番の理由は東京に出たかったと。

須田 はい。もうそれだけです。

東京は居場所を見つけるのが大変だった気がします。

――東京の何が魅力だったんですか?

須田 田舎で生きるイメージがなかったんですよね。ここで自分が何をしていくのか何も見えかったというか。もちろん、長野は自分のふるさとですし、友達もたくさんいましたし、生きやすい場所だと思います。でも、大人になって自分で食っていこうとしたとき、ここに自分の居場所があるのかなと思ってたような気がします。なので、東京に出て何かしたいと。

――漠然とした何かがあったわけですか。

須田 そうです。明確な目的はないです。東京に出たら何かあるんじゃないかという、ホント漠然とした感じでした。

――では、実際に来てみて東京はどうでしたか。

須田 う~ん、ひとことで言うと居場所を見つけるのが大変だった気がします。

――居場所なかったですか。

須田 やっぱり東京って僕が想像していた以上にデカい……今もデカいじゃないですか。より肥大化してると思うんですけども。で、普通に学校に通ってバイトしたりしてましたけど、そのうち学校行かなくなって。妻とはその学校で出会ったんですけどもね。

――そうだったんですか。

須田 出会って、つき合い始めて、同棲するようになってっていう感じですかね。で、生きていくためには働かなきゃいけなくて。それで、学校行くよりも働こうと。

――じゃあ、学校はドロップアウトされたんですか。

須田 中退しました。多分、1年行ってないです。半年ぐらいじゃないですかね。

パターンとかなんの興味も湧かなかったんですよね。

――よく思い切りましたね。

須田 思い切ったっていうか……ファッションデザインの課だったんですけど、服飾なのでパターン(衣服の型紙のこと)とかやるんですね。もちろん、他にもいろんな授業があったんですけど、パターンとかなんの興味も湧かなかったんですよね。ただ、当たり前の話ですけど、東京では自分で家賃払わなきゃいけない。それもあって19歳ぐらいから働き始めました。

――ちなみに、それは葬儀屋さんの前ですか?

須田 もっと前、全然前です。

――じゃあ、最初は何をされたんですか?

須田 最初は英語の教材とか販売する会社です。池袋にあったんですけど、最初はそこに入ってテレアポの仕事を。名簿をもらって電話をかけて、こういうのがあります、いろんな特典がつきますとか言うわけです。

――知ってます、そういうの。それを最初にやられたんですか?

須田 2カ月ぐらいやりましたかね。ふたりぐらい契約させたんですけども、途中でこれはヤバいかなって。その会社の母体もヤバ気味だったんですよね。

――ああ~、やっぱりそうなんですか。

須田 社長さんがもう完全にコワモテ系で。僕には優しかったし、かわいがってもらったんですけど、厳しい相手にはメチャクチャなんですよ。脅し方とかもすっごく生々しくて。で、その会社のエースの男女がいたんですけど、そのふたりがつき合ってて会社がマンションを借りてあげてたんです。いいとこに住んでるんですけど、その人たちもなんか普通じゃないなあと。まあ、分からないですけどもね。ちょっと怖い世界だなあと思って、途中で行かなくなりましたね。

某大手不動産会社のとある支店に就職したんですが・・・

――それは大変でしたね。その後はどうされたんですか。

須田 その後もやっぱり同じような仕事しかなくて、次は電話代が安くなるような外部装置の取り付けを歩き回って営業販売するっていう。工事現場の制服みたいなのを着て回るんですけど、それも数カ月でしたね。それでまた不動産のテレアポをやって、そのあと某大手不動産会社のとある支店に就職したんですが、そこは1年……1年半ぐらいはいましたかね。

――いろいろやられてますね~。五木ひろしのデビュー前みたいですね。

須田 食うためには働かないといけないっていうのがあったので。で、辞めてまた新しい仕事を見つけてっていう。

――どうしてもそういう選択になってしまったと。

須田 そうなんです。結局その不動産会社では、マンションひとつも売れなかったんですけどね。売れそうになったことはあったんですけど……熱海のマンションだったかな? けっこう年配のお客様が投資物件用に買いますっていうんで、熱海まで物件を案内しに行ったんです。で、契約しましょうとなったときに、物件を管理している現地の不動産屋さんが「仲介手数料を会社通さずにやろうよ。キミ個人にバックマージン上げるから」みたいなことを言ってきたんですよ。

――そういう話になっちゃったんだ。

須田 で、買い手の方も「そっちのほうがいいわよ」「アナタ、そうして」みたいな感じで。でも、当時僕はまだ19歳で、その世界に手を染めたら終わりなんじゃないかなと思ったんですね。それで、その話を断って会社に連絡をしたら「それはもうやめとけ」「いいよ、いいよ」と。結局契約できなくて、そのあとバツが悪くて辞めちゃいました。

でも、すごかったですよ、売る人たちはやっぱり豪快で。いつも面倒見てくれていた人とかは、大きな契約を取ったら「須田クン、今からジャガー買いにいくからついてきてよ」って。それで、一緒に環七沿いだったかな? 中古のジャガーのお店があって、そこに一緒に見に行って「これちょうだい」とか。当時、その方はまだ30歳ぐらいだったと思うんですけど。

――そういう世界ですか。

須田 10代の僕からはすごい年上に見えましたけどね。エースでバリバリやってた人も20代前半ぐらいだったんですけど、給料日のお金の使い方なんかすごかったです。まあ、バブルだったんですよ、当時は・・・。

――もしかしたら今頃マンション王になっていたかもしれませんね。

須田 そうなったら堕落してたんじゃないですか。マンションの投資に失敗したりとかして。

――ハハハハハ、堕落ですか。

原宿のバッグメーカーに4年間お世話になる。

須田 いや、ホントそう思います。当時、専門学校時代の同級生に会ったりしてたんですけど、バブルを直で体験した人間はもうすごかったですよ。車をガンガン買い替えて、マンションも転がしたりして。で、バブルがはじけた瞬間に、その彼とか忽然と消えました。だから、……バブルでいい思いしなくてよかったなっていうのはありますね。で、その次は今も原宿のほうにあるバッグのメーカーのB.stuff(http://www.b-stuff.co.jp/)に19歳のときに入って。4年間ぐらいそこでお世話になりましたね。

――そこは長かったんですね。

須田 はい。そこで仕事のノウハウを覚えました。僕が入ったとき、その会社は3人だったんですよ。社長と僕ともうひとりの3人で会社を回していく感じだったので、ホントになんて言うんですかね……これまでやった仕事って自分はパーツだったじゃないですか。組織の中のパーツのひとつで、結果を出さないと必要ないっていう。だけど、その会社では僕は新人でしたけれどもパーツじゃなくて、かなり大きな歯車のひとつだったんですね。そこで社長に仕事のイロハをすべて教えてもらって、デザインと資金繰り以外は全部やらせてもらいました。本当にいろんな経験をさせてもらいましたね。

――そうだったんですか。

須田 はい。それで自信がついたというか。僕の職業人としての部分を形成してるもののほとんどは、多分B.stuffで学んだものだと思います。
物作りの意識の高い社長だったので、その背中を見て得た感覚感性は今も僕も物作りの根っこになっています。

――なるほど。でも、そこも辞められちゃったんですよね。なぜだったんでしょうか。

須田 腕に職をつけたかったんですよ。B.stuffではいろんなことを教えてもらって、会社とか業務を回していくスキルは身に着きましたけど、自分はデザイナーではないですし、製品を作る職人さんでもなかったんですよね。なので、やっぱ自分にはなんにもない、一生食っていける何か腕が欲しいっていう思いがずっとあったんです。そうでないと家族を養っていくこともできないだろうなっていうのもあって。当時はもう結婚してましたから、その怖さは常にありましたね。だから、今飛び出さないと! と思って思い切って辞めました。

――そうだったんですか……でも、奥さんには何か言われませでしたか?

須田 まあ、しょうがないよねって言ってましたね。

ゲームとの接点はセガAM2研『バーチャレーシング』から

――そうでしたか。それにしても須田さんの生き方は創造と破壊そのものですね。

須田 アハハハハ。でも、やっぱりその時は緊張の糸がちょっと切れちゃいましたね。4年間、すごく気合いを入れて働いてましたから。朝9時から夜10時、11時まで働いて、土曜日も出勤してましたし。在庫とか台帳とか全部頭の中に詰まってたんで、夢の中でよく台帳整理してましたよ。それぐらい気を張ってやってましたね。で、そのあともいろんな仕事をして、ゲーム業界に入る直前は葬儀屋だったんですけど、その前にグラフィックデザインの仕事をしたんですよね。

――セガのAM2研(注15)の仕事をしたっていう。

須田 そうです、そうです。あちこちでしゃべってますけども、鈴木裕さん(注16)が案内してくれて、『バーチャレーシング』(注17)を遊ばせてもらってっていう。そのときにゲームは博士たちが作っているんじゃない、普通の人たちが作っているってことを僕は知ったんです。

注15:数多くのヒット作を生み出したセガの開発分室である第2AM研究開発部の通称。
注16: 『アウトラン』、『スペースハリアー』、『バーチャファイター』など数々のヒット作を手がけ、セガを世界的企業に押し上げた大功労者。現在は株式会社YsNetの代表取締役を務める。
注17:F1をモチーフにした1992年発売のセガのレースゲーム。F1マシンを模した大型筐体が話題を呼んだ。

――そうおっしゃられていましたよね。それまでは、やっぱり特別に見ていたんですか? ゲームを作っているのは、ある種の特殊な人たちみたいな。

須田 そりゃそうですよ。大学の研究チームとかがラボみたいな厳重な場所で作ってて、プラグをこうやって、テープをグルグル巻いてみたいな。そんなイメージしかなかったです。

ゲームをパソコンで作っているとは思ってなかった

――それ、スーパーコンピューターの世界ですよね、当時の。

須田 でも、冗談抜きでそう思ってました。パソコンで作るなんて思ってなかったです。

――それで実際に見られて、俺でもできるんじゃないかと。

須田 あの……淡い期待をね。もちろん、皆さんそれなりの大学を出ている方たちだと思うんですよ? でも、服装も含めて自分と年代は一緒だし、普通に音楽聞いてるし、自分が聞いてるようなCDを買ってる人たちもいるし。こういうところで、こういう普通の人たちが作ってたんだっていう。それでもう目からウロコですよね。すごく憧れました、AM2研に。でも、その夢はすぐ消しました。絶対無理だと思った。

――無理だと思っちゃったんですか。

須田 思いました。そんな夢を持っちゃいけないっていうか、自分には絶対無理だっていう。だって、なんのベースもないじゃないですか。だから、AM2研を見れてすごくうれしかったし、楽しかったですけど、それはあきらめるべきものだと思って。それで、そのあと葬儀屋になってっていう感じですかね。

葬儀屋さんは尊い仕事だなあと思ったんです。

――葬儀屋さんはお給料が良かったからっていうのを読んだことがあるんですけど、ほかの仕事をしようとは思わなかったんですか? 僕は実家が寺なので葬儀屋さんともお付き合いがあるし、大変なお仕事だってよく分かるんです。それをあえて選んだっていうのは、けっこう大変な選択だったんじゃないかなと思うんですけど。

須田 う~ん、でも、もともと手に職が欲しかったっていうのがあるじゃないですか。葬儀屋さんって、やっぱ手に職なんですよね。葬儀会場を作るスキルもそうですし、あと司会進行する人たちって報酬がいいんですよ。で、その先輩たちがすごくカッコよかったんです。派遣なんで、いろんな葬儀屋さんのサポートをするんですけども、そこで司会進行されてる方の姿を見て、尊い仕事だなあと思ったんです。自分が思ってた手に職っていうのは、ひょっとしたらこのことかもしれないと思って、この世界で生きていこうと腹をくくったんですね。それで、いろんなところから社員スタッフにならないかって声かけてもらってたんで、じゃあどこかにお世話になろうかなって。

「ホントにそれでいいの? やりたいことがあるんじゃないの?」(妻)

――もしかしたら違う人生だったかもしれませんね。それが変わるきっかけになったのが、アトラスとヒューマンの募集だというのを読んだんですけど、それはやはり就職情報誌みたいなところで?

須田 そうです、その通りです。「DODA」でしたね。当時は雑誌でしたけど。

――ということは、やっぱり自分の中で何かが引っかかっていて、仕事を探していたところもあったんでしょうか。

須田 これは他のインタビューで言ってるかどうか、ちょっと分からないですけども、もう就職するよって妻に言ったときに「ホントにそれでいいの? やりたいことがあるんじゃないの?」って聞かれたんです。それで、まあ無理だけどゲームの仕事はやってみたいと思ってるって言ったら「じゃあ受けてみればいいじゃん」って。「ダメ元で受ければいいじゃん、それでダメだったら就職すればいいんじゃない?」みたいな。そう言われて、じゃあ受けてみようかなと思ったんです。

――すごい、いい奥さんですね~。

須田 それで、アトラスとヒューマンがちょうど中途で募集してたんですよ。高卒、未経験でもオッケーだったのが、この2社だけだったんです。他はやっぱり経験者のみとか、経験者優遇とかだったんです。で、ヒューマンに転がり込んだと。

――最初はダメだったと思い込んでて、奥様から電話してみたらって言われたというエピソードを聞いたことがあるんですけども、そうだったんですか?

須田 そうです、そうです。面接したんですけども、1カ月ぐらいまったく連絡なくて、もうあきらめていたんですよね。実は落ちてて、担当者が連絡を忘れてたんですって。で、こっちから連絡したら、ちょっと待ってくださいって言ってきて、『ファイプロ(ファイヤープロレスリング)』の前任者の方がもう辞めると。浅古(大輔)さんっていうエースプランナーの方なんですけども、その方が辞めることになって後任がいないっていうんですよ。当時のヒューマンの企画課にはプロレスにくわしい人間が誰もいなかったんです。

プロレスゲームの神様とプロレスの神様が、とりあえずヒューマン入っとけと・・・。

――プロレスのゲームを作ってるのに(笑)。

須田 だから、浅古さんが辞めたときに『ファイプロ』どうすんだみたいな感じで、会社が騒然としたらしいんです。

――誰が作るんだと。

須田 そうそう。それで、僕が電話した時に「プロレス詳しいですよね?」みたいになって。

――すごいですねえ~。なんか人生の歯車ってホント面白いですね。

須田 不思議ですよね。多分、プロレスの神様がヒューマンに入れてくれたんだと。ゲームの神様かもしれないです。ゲームの神様とプロレスの神様が、とりあえずヒューマン入っとけみたいな感じで。ホントもう今しかないってタイミングだったですからね。

――でも、そこからですもんね。

須田 本当は(ヒューマンに)電話するの、僕はイヤだったんですけどね。嫁さんに言われてイヤイヤかけたんですよ。

――落ちたって思っているわけで、なんでわざわざ問い合わせなきゃいけないんだよってなりますよね。でも、かけて良かったですよねえ。

須田 良かったです、ウン。

このチャンス逃したら人生終わるって・・・

――それにしても須田さんは奥様とか家庭の影が一切見えないですよね。僕はずっと独身だと思っていました。それが、今聞いたら専門学校時代からですからね。

須田 もう25年ですね。だから、つき合ってから30年です。

――長いですねえ。それで、ヒューマンはどうでしたか?

須田 それはもう楽しかったです。ヒューマン入ったときに、オレはここで生きようって思いましたもん。このチャンス逃したら人生終わるって。いや、ホントに

言葉そのままの意味で死に物狂いでした。

――やっぱりそうですか。

須田 はい。当時の課長はその後独立して今はシンソフィア(注18)の社長をやってる吉田(秀司)さん(注19)だったんですけどメチャクチャ厳しかったんですよ。挨拶しないとすぐに睨まれて呼ばれたりとか、ホント厳しかったので企画はいつも空気がピリっとしてました。で、「須田クン、ちょっといい」って呼ばれて、「1週間あるから、この資料見て仕様書作って」って言われるんですけど、1週間じゃなくて2日で作ってました。とにかく言われたことの倍以上のスピードで全部やっていくっていう。

注18:ゲームソフト開発を中心にさまざまな事業を手がける開発会社。タカラトミーアーツとの協業による女児向けアイドルゲーム『プリティーリズム』、『プリパラ』シリーズなどが有名。
注19:ヒューマンでプロレスやサッカーゲームなどの制作を手がける。その後、独立して株式会社シンソフィアを設立。現在は同社の代表取締役社長を務める。

赤い彗星の感覚です。とにかく3倍速で仕事しようと。

――なぜ、そこまでされたんですか?

須田 当時は企画に20人ぐらいいたんですけど、プロジェクトに参加できてるのってほぼ半分なんですよね。なので、浪人するスタッフが10人ぐらいいるんですよ。で、仕事なければ辞めていくんです、自然に。生存競争がめちゃくちゃ激しいんです。

――辞めていくんですか。

須田 辞めていきます、居場所がなくなってね。だから、居場所をつかむっていうわけじゃないですけど、とにかく人より仕事をしようと思って、ほかの人の3倍のスピードでやってました。シャアと同じですね、もう赤い彗星の感覚です。とにかく3倍速で仕事しようと。ヒューマンの初期はずっとそういう意識でした、

で、自分のポジションつかんでからは『ファイプロ』ってブランドを僕が守ろうって。守るっていうか、自分が全部背負うくらいのつもりでやってました。当時はヨネちゃん(米山輝之氏)っていう先輩が『ファイプロ』を担当してたんですけど、そのヨネちゃんが「須田さん、やっていいよ。任せるから」って言ってくれて。

――全権委任されたんですね、すごいなあ。

須田 そうなんですよ。そこからですね、これまで経験してきたすべてのスキルを使って、この世界で生きていこうって。それが通用するって思いましたし。ヒューマンクリエイティブスクール(注20)から入ってきた若い子たちもいましたから、その若い勢いに飲み込まれないように、自分が一番の勢いになろうと。まあ、若いっていっても今思えば僕の2、3個下くらいで、ほとんど変わらないんですけどね。

注20:ヒューマンが運営していたゲームクリエイター養成専門学校。卒業生の多くがヒューマンに入社する新人養成機関になっていた。

このチャンスを逃したら僕の人生はないなと思って。

――そうか。須田さん自身も若かったですもんね。

須田 26歳ぐらいだったと思うんですよ。でも、当時は26でも上の方だったんです。30代なんてほとんどいなかったです。メイン張っている人間はみんな20代中盤か後半でしたから、本当に若い現場ですよね。そのぐらい若い勢いのある会社だったんですよ。

――それにしても、すごい決意をされていたんですね。

須田 だって、ここしかないと思いましたもん。入った経緯自体、ほぼ奇跡だと思うんですよ。このチャンスを逃したら僕の人生はないなと思って。

――それで形にしたんですもんね。

須田 はい、しましたね。のちのちですけど、このために東京に出てきたんだと思いました。普通は入れない世界ですし、ホント学歴もないですし、ベースもないですし。

――確かに、あの頃すでにゲーム会社に入るのは大変になっていたと思います。

須田 あの頃すでに、ヒューマンの新卒は国立とか六大とかばっかりですよ。だから、その時代によく入り込めたと思って。

――いや、本当にすごいですね。

須田 ねえ(笑)。ホント、プロレスのおかげですよ。プロレスの一芸ですもん。

――その後にある種、ご自身の世界観満載のモノ、『スーパーファイヤープロレスリングSPECIAL』を作られますよね。あれは本当に賛否があって、今だったら大変なことになっていたかもしれないわけですが……。

須田 大炎上したでしょうね。賛否の賛は10パーセントなかったですもん。

「プロレスじゃない男になることも考えなよ」って言ってくれたんです。

――ご自身の世界観を集約したような作品でしたが、やっぱりそういうものを作りたかったんですか?

須田 ん~~、あれがデビュー2作目だったんですけど、やっぱり吉田さんの存在が大きかったと思います。ちょうど『ファイプロ1』を作り終わって、次の『ファイプロ』が始まるというときに、吉田さんが「オレ辞めるんだよ、会社作るんだ」って言って。で、『ファイプロ』は須田クンに任せるからと。

当時は吉田さん、野村(弘治)さん、増田(雅人)さん(注21)が開発でいうとビッグ3で、増田さんが『ファイプロ』の生みの親だったんですが、この3人に呼ばれた時に吉田さんがその話をしてくれて。増田さん、野村さんも「好きに作っていい」「自由に作ればいいんじゃないの」みたいな感じで背中を押してくれたんですよね。それで、吉田さんが「須田君はこれ(プロレス)で多分食っていけるよ。でも、それじゃあプロレスだけで終わっちゃうから、プロレスじゃない男になることも考えなよ」って言ってくれたんです。

注21:『ファイプロ』シリーズを生み出したクリエイター。ファミコンディスクシステムの名作『プロレス』の開発にも関わるなど2Dプロレスゲームの基礎を作り上げた。2014年に死去。

自分の中のカルマやらドグマやら、あるもの全部放出した感じですね。


――いいこと言いますねえ。

須田 それが僕を押してくれました。『ファイプロ』は好きに作ってくれていい。好きなことをなんでもやりなさいと。じゃあ、やろう。スペシャルな俺の『ファイプロ』を作ろうと。それで、今までの『ファイプロ』になかったストーリーモードというもので、ひとりのプロレスラーの人生を描こうと思ったんですよ。

でも、最初は自分で(シナリオを)書くつもりはなかったです。さっきも言いましたが、ヒューマンは人があふれてるんですよ。なので、文章が書ける人たちにちょっと手伝ってもらえないかって声をかけてみたんです。ところが「プロレスは書けない」「プロレスのこと何も知らないし」みたいな感じで、みんなに断られちゃったんです。僕はシナリオなんか書けないし、いや参ったなあと思ってたんですけど、もう自分で書くしかないと。それで、初めてシナリオを執筆したんです。

――そこからですか、シナリオを執筆するようになられたのは。

須田 はい、誰も書いてくれないから、しょうがなかったんです。で、書くからにはもうとことんやってやろうと。とんでもないものを『ファイプロ』ファン、プロレスファンに浴びせてやろうと。これまで自分が好きだったプロレスに対する思いをすべてブチかまそうと思って、自分の中のカルマやらドグマやら、あるもの全部放出した感じですね。

――新日だ、全日だ、FMWだ、UWFだっていう、ギミックもあれば真実もある。須田さんが感じてきたプロレス的なものをそこにすべて盛り込んだと。

須田 盛り込みました。当時、ちょうど総合格闘技、UFCが始まったんですよね。なので、総合もすぐ取り入れて。『ファイプロ』は早かったんですよ、総合入れたの。ホイス・グレイシー(注22)が出ますからね。で、主人公とホイスが戦って勝つっていうプロレス最強伝説をストーリーモードの中で書いて。もう、ホント「俺のファイプロ」を作り上げたっていう。

注22:グレイシー一族の柔術家で兄はヒクソン・グレイシー。1993年に開催された第1回UFCでプロレスラーのケン・シャムロックに勝利して優勝したことからプロレスファンから注目される存在となった。作中での名前はヴォイス・ステイシー。

――でも、ファンにしてみれば「俺のファイプロ」をやるのか、みたいな感じもあったんじゃないですか。そこが当時ぶつかり合ったんですよね。

須田 ぶつかったっていうか、究極の選択だったんですよ。もちろん、最初はハッピーエンドとバッドエンドを用意したんです。最後にリック・フレアー(注23)を倒したら優勝してハッピーエンド。負けたらそのまま自殺して終わるっていう。

注23:80年代初頭から長きにわたって活躍し、NWAやWWEで何度も世界王座のベルトを巻いた伝説的プロレスラー。作中での名前はディック・スレンダー。

――恐ろしいシナリオですよね。

須田 そうなんですよ。でも、そのときに思ったんです。単なる試合の勝った、負けただけで都合よく人生が分岐するっておかしいだろうと。やっぱり思い入れがあったんですよね、純須杜夫(スミス・モリオ、ストーリーモードの主人公)の人生に。

それで、本当にマスターアップの直前でプログラマーに相談して、エンディングひとつにしてくれと。で、優勝した後に花束バーっとやって、自宅に戻って自殺するっていうのを。それが彼の人生だっていう風に僕の中で決め込んだんです。

――よく社内で反対されなかったですね。

須田 社内は誰も……ひとりぐらいですかね、言ってきたのは。

――そこはみんな須田さんに任せてたわけですか。

中途半端な結末ではなくて、ちゃんと人の人生を描こうっていう。

須田 それもありますが、マスター直前で知らない間にそうなってたっていうのもあります。

――ええ~そうだったんですか?

須田 ただ、自分の決意表明ではありました。中途半端な結末ではなくて、ちゃんと人の人生を描こうっていう。あと、やっぱり葬儀屋やってたのもあるので、都合よく死を使うのはやめようと思ったんです。負けたから死って安直じゃないですか、それは違うと。

自分が葬儀屋で見てきた死っていうのはもっと生々しくて、ご遺族にとってとてつもない出来事なんですよね。俯瞰して見てるはずの僕にも、悲しみが伝わってくることがありましたし。でも、一方でもっと軽い死も実はあったりして、死の等価値じゃない側面を1年間すごく見てきました。だからこそ自分が死を描く時は、キャラクターではなくて人間の死を描こうと思ったのもあります。それで、その分岐をやめたんですよね。

神の領域・27thクラブとは

――あれはある種、何かを達成したことによる本人の達成感が死ということでいいんですか?

須田 僕は神の領域だと思うんですよ。ちょうど27歳でたくさんのカリスマが死んでるじゃないですか。27thクラブ(注24)っていうんでしたっけ? ジャニス(・ジョプリン)もうそうだし、イアン・カーティスもそうだし、ジミヘン(ジミ・ヘンドリックス)もそうですが、彼らは自分の音楽性も含めてなんですけども、ある領域まで突破したと思うんですよ。神を超えた音楽を作った人たちは、神のまま音楽を作ることが多分できなかったんじゃないかって。

それで、『ファイプロ』作ってるとき僕が26歳で、27歳のカート・コバーン(注25)が自殺したんですよね。自分がその神の領域にいってるかっていったら、いってないんですけど自分も翌年27になるだけに、カートの死の意味合いは、乗っかってきたものはすごく重かったですね。

注24:27歳で不慮の死を遂げた世界的ミュージシャンやアーティストが多いことから、このように呼ばれるようになった。
注25:アメリカのロックバンド「ニルヴァーナ」のボーカル兼ギター。セカンドアルバム『Nevermind』と収録曲の『Smells Like Teen Spirit』が驚異的なヒットを記録するなどカリスマ的人気を誇ったが1994年に自殺した。

――じゃあ、それをある意味、自分自身の分身であるゲームになぞらえたと。そう思えばいいんでしょうか。

須田 そうですね。

――なるほど。でも、それは確かにファンには伝わりにくいですね。

須田 伝わりづらかったでしょうね。

――でも、そこまで任せてくれたヒューマンですけど、あと2作品ぐらい手がけたあとお辞めになるじゃないですか。それはなぜですか?

須田 『トワイライトシンドローム』シリーズ(注26)と『ムーンライトシンドローム』(注27)のあとですね。やっぱオリジナルを作りたかったんですよ。『トワイライト』は引き継ぎの仕事でしたが、『ムーンライト』では、それを反映して自分の感覚を出せていたと思います。でも、やっぱり自分でゼロからイチを作る仕事をしてない。自分にとっては本当の代表作じゃないんで、それを早く作りたかったんですよね。もちろん、ヒューマンでやりたかったんですけど『ムーンライト』を作ってるときですかね。会社がちょっと不安定な状態になって、ウワサでもうヤバいよっていう。

注26:高校生の女の子が心霊現象の謎を解き明かしていく、オカルトを題材とした横スクロール型のアドベンチャー。現在まで『探索篇』『究明編』『再会』『禁じられた都市伝説』の4作が発売されている。
注27:『トワイライト』シリーズに連なるホラーアドベンチャー。1997年にヒューマンからプレイステーション向けに発売された。

グラスホッパーマニュファクチュア創業の背景と時代

1998年3月30日の創立記念日 三軒茶屋ビル前にて

――確かに、そういう話題でましたよね。

須田 で、そのときに元ヒューマンでアスキーのプロデューサーになってた田村(裕志)さん(注28)に声をかけてもらっていたんです。「来ない、ウチに」みたいな。

注28:アスキーでは須田氏の『シルバー事件』のほか『火星物語』や『moon』などの開発に参加。現在はトライエース所属で『ファンタシースター ノヴァ』ではディレクター兼プロデューサーを務めた。

――ということはアスキーからお金を出してもらったわけですか。

須田 そうですね。ちょうど専務の廣瀬(禎彦)さん(注29)が起業サポートしてたんです。いろんなスタジオに力貸してあげて、新しいブランドやレーベルを作っていこうみたいな感じで動いていて、そこに僕らがうまいこと乗っかってグラスホッパー・マニファクチュアができ上がったんです。

注29:日本アイ・ビー・エムを経てアスキーの専務取締役に就任。その後もセガ・エンタープライゼス、アットネットホーム、コロムビアミュージックエンタテインメントで役員を務めるなど実業界で活躍した。

※若手プログラマーや企画課長とのイザコザは100パー掲載無理と判断して全面カットしました。

――「マニファクチュア」って家内制手工業ですね。何かイギリスの産業革命っぽいんですけど。そこには何か須田さんの思いがあったんでしょうか。

須田 ちょっとありました。グラスホッパーやるときに自分たちはパブリッシャーにはならないだろう、作る側だろうということで。あと、長い会社名がいいなあと思って。ギャガ・コミュニケーションズとか。

僕、ギャガも受けたことがあるんですよ。

2014_06_26_黒川塾_19_日活千葉氏_映画評論家高橋ヨシキ氏と

――僕がいたところですよ(笑)。ギャガ・コミュニケーションズも長いですよね。

須田 僕、ギャガも受けたことがあるんですよ。社長面接までいったんですけどダメでした。

――そうだったんですか、あらら。

須田 当時、ヒューマンの社長が脱税して騒ぎになりまして。それで、面接の時に「なんでヒューマン辞めるの」って聞かれて、

「社長が脱税したので嫌になりました」って言ったら「それは君とは関係ないよね」って怒り始めちゃって。当時の社長さんはなんていう方でしたっけ。

――藤村(哲哉)さんですね。過去の「エンタメ異人伝」インタビューURL挿入

須田 そう、その藤村さんが「君は社長じゃないから、それをとやかく言える立場じゃないでしょ」って説教されちゃったんですよ。「いや、でも脱税は会社にとっていいことじゃないと思いますよ」って言っても「それはキミが決めることじゃないよね」って。

――そういう話になっちゃったんだ(笑)。

須田 社長目線になっちゃったんですね。そのあと、すぐ落とされました。それがなかったら、もしかしたら黒川さんの同僚になってたかもしれませんね。

――そうだったんですか。すみません、脱線してしまいました。ええっと、ギャガみたいな長い名前にしたかったと。

須田 そうです。資生堂コスメティックとか、長い名前がなんかよかったんで、ああいう感じにしようと思って。

「グラスホッパー」は僕にとってのエネルギーというかガソリン

――「グラスホッパー」も由来があるんですね

須田 UKに「ライド(Ride)」っていうバンドがありまして。今また再結成してますけども、彼らのインストの曲で10分ぐらいの長い曲があるんです。それが「グラスホッパー」っていうんですよ。その曲が好きで聞いてたっていうか……ただ好きなだけじゃなくて僕にとってのエネルギーというかガソリンだったんですね。

デビュー作の『ファイプロ』の頃、朝から終電までずっと仕事、もちろん徹夜もするんですけど、夕方の6時から7時まで睡眠時間にしてたんです。で、ヘッドホンを着けてライドの「グラスホッパー」を大音量でずっとループで流しながら寝てたんですよ。

――おお、なんと・・・。

須田 それで、1時間ずっと「グラスホッパー」を聞くとエネルギーが注入されて、またガッツリ仕事ができたんです。そのときの気持ちを忘れないために、自分にガソリンを入れてくれた楽曲のタイトルをつけようと思って「グラスホッパー」にしたんです。カッコイイじゃないですか「グラスホッパー」って。バッタって意味合いもなんか好きで。

連帯保証人のハンコ押すのは怖かった。

――なるほど。それで、創業されたわけですけど、アスキーはいろいろ社内事情があって応援をしてくれなくなりますよね。そのあとは完全に自力でやるしかなくなった感じですか。

須田 そうです。その通りです。

――まさに社長業として試された時期ですよね。すごい大変だったんじゃないですか?

須田 大変でした。アスキーから受託で予算もらってたんですけども、ある日突然なくなったんですね。どうすんだって話ですし、営業しなきゃいけませんし。で、決まりそうになった時にキャッシュがなくなって。その時、初めて銀行に行って融資をお願いしました。そういうところからスタートしたんで、そこで試されたというか、覚悟を持ちました。

だって連帯保証人のハンコ押すわけじゃないですか。てことは、これは返さなきゃいけない。返す覚悟で押さないといけない。だから、ホント最初怖かったです、ハンコ押すとき。この1500万円を返せんのかなあ、返せなかったらどうなるんだろうって。簡単な気持ちで会社作ったんじゃないので、いつかこういう時がくるみたいなことは、漠然とイメージはしてたんです、ただ、あのときはいろんな決意みたいなものを、自分の中でもう1回かみしめながら押印しましたね。生々しい話ですけど(笑)。

――僕も社長業をやったし、今もやってるから分かるけど、そこでアスキーさんの資金繰りとか支援が切れるっていうのは、すごい大変だったと思います。

須田 命綱がなくなった感じでしたもんね、イメージ的には。しかも、ヒューマンって鎖国の会社だったんで、業界に知り合いがいなかったんですよね。ルートがなくて自分が動かないとなんともならないので、いろんな人に頭下げて紹介してもらったりしました。ホント海に飛び込む感じでした。その時に比べたらヒューマンはお風呂です。

――すごく恵まれていたわけですね。

須田 ホント、あったかいお湯でしたもん。アスキーさんも敷地内のプールみたいなもんでした。で、アスキーさんがもうゲーム事業撤退となって、完全に命綱なくなって海にボーンと投げだされて。しかも、僕はカナヅチなんですよ。僕自身泳げないし、社長としても泳げない。でも、泳がなきゃいけないっていう。

自分から出てくる企画をお金に換えるしかない

――そのあとパブリッシャーを探しつつのコンテンツ作りをしてきたじゃないですか。

須田 はい、そうです。

――それって、パートナーがいないと作れないわけですよね。しかも、相手は須田さんのクリエイティビティを求めているわけで。今はガンホーさんの傘下というか、資本が入られたので安定されているかもしれませんけど、それまではすごく大変だったんじゃないかと思っているんです。もちろん、今は今で別の大変さがあると思いますが、どうなんでしょうか。

須田 う~~ん、振り返ってみると大変でしたけど、当時は大変と思う瞬間がないぐらい、前に進まないと何も始まらない状態だったので。とにかく前進、前進あるのみ、みたいな感じでした。だから、シンプルに考えてましたね。僕は企画出身で、お金を生むのは企画しかないんだと。自分から出てくる企画をお金に換えるしか、グラスホッパーっていう会社が生き残る道はないので、それだけをやろうと。他が作れないスタジオの特色だったりとか、僕自身の強みだったりとか、もともとゼロベースでなかったものを構築していって、実績、実績でとにかくやっていこうっていう。で、新しいところの門を叩いて、組ませていただいて。その連続でしたね。

――でも、そうやって常に新しいもの、みんなが見たことがないようなものを提供してきたわけじゃないですか。須田さんが今まで構築されてきたものは、常にそこに凝縮されていたってことですよね。

須田 そうだと思いますね。現場のみんなと、今度はこれでいこうみたいな感じで一緒に作り上げていって。で、ドンピシャでハマるときもあれば、まあちょっとズレたんで直しましょうってときもあってっていう。それはホントもう……黒川さんなら分かると思いますけど、やっぱり組む先が違うと戦略も変わるじゃないですか。ここと組むにはこの戦略だったりとか、この企画書だったりとかっていうのがあって。あと、決定権が誰にあるのかっていうのも、すごく大事ですよね。

――そうですね、分かります。

須田 ですよね。ハンコ押すのは誰なんだと。担当者の裏にいる決定権を持つ人は誰なんだっていうのを会話しながらなんとなく探っていって。その決定権を持つ人の傾向とか特色とか、どういう書式が一番いいのかも含めてリサーチをかけたりしてっていう。そういうものを自分の中でなんとなくでも理解してないと勝てないじゃないですか。

――取れないですよね、作品をね。

須田 そうなんです。取れないんですよ。

死ぬまでこの仕事をやりたいなと思ってるので、廃業・引退は考えてない

――ひとつネガティブな質問をさせてください。グラスホッパーってある種、株式会社須田剛一じゃないですか。須田さんのクリエイティビティとかイマジネーションがベースにあった上でのグラスホッパーさんというか。あくまでもメインになるのは、真ん前に出てくるのは須田さんで、「須田剛一、ここにあり」みたいな。

須田 ああ……ですかねえ。

――でも、このエッジの立ったクリエイティビティといいますか、そういうものを須田さんが永遠に作り続けるのは不可能なわけで。やっぱり須田さん一代で終わっちゃいけないと、僕なんかは思うわけですが、須田さん自身はこの先どうなると考えられていますか?

須田 どうですかね、僕自身は作り続けると思います。死ぬまでこの仕事をやりたいなと思ってるので、廃業・引退は考えてないですね。

――もちろん、そうでしょうね。

須田 ただ、若手は育てたいですね。やっぱりそのメゾン(ファッション業界における会社や店のこと)じゃないですけども、ココ・シャネルは亡くなってるわけじゃないですか。ルイ・ヴィトンもディオールもそうですよね。

――でも、残ってますよね。

須田 はい。しかも、ああいうメゾンって一番イキのいい、エッジの立ったとんでもない若手を採用するじゃないですか。で、メインのラインを全部任せたりとかして、そこでそのブランドが持ってた色とは違うものを作らせて。そうやってファッションって、どんどんどんどん蘇っていくじゃないですか。そういうメゾンのやり方ってすごく理想だなと思ってて。

――つまり、プロレスで言えばカール・ゴッチ(注30)になればいいわけですね。

須田 そうです、そうですね。前田日明を見つければ。

注30:「プロレスの神様」と呼ばれた往年の名レスラーでジャーマン・スープレックスの創始者として知られる。日本のプロレスとの関わりが深く、アントニオ猪木、藤原喜明、前田日明、高田延彦、船木誠勝、鈴木みのるら多くのレスラーがゴッチの指導を受けた

――若き日の前田日明や高田延彦を見つけたりすれば、もしかしたら須田さんを目指されるかもしれないですよね。

須田 まさにそうです。それをやりたいと思ってます。押井(守)さん(注31)が押井塾ってやられてたじゃないですか。で、今『攻殻機動隊』をやってる神山(健治)さん(注32)とか、確かみんな押井塾出身なんですよね。それって、やっぱり押井さんの英才教育のたまものだと思うんですよ。多分、押井さんのアニメの作り方、作品の作り方みたいなものを押井塾で全部教え込んで。まさに黒川塾じゃないですけど、そういうものをやらないと自分に一番近い若手は育たないのかなって気がなんとなくしてるんですよね。

注31:『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』などを生み出した映画監督・演出家。『紅い眼鏡』や『アヴァロン』など実写映画にも意欲的に取り組んでいる。
注32:『攻殻機動隊 S.A.C.』シリーズや『東のエデン』などを手がけたアニメーション監督。

『リリィ・ベルガモ』から『LET IT DIE』へ

もしかして常時電源とキーオン電源を逆につないでいませんか?

――『LET IT DIE』についてちょっとうかがいたいんですけど。森下(一喜)さんにお話をお聞きしたとき、アメリカもしくは海外にフォーカスして作ったっておっしゃっていたんですが、そこは須田さんも同じだったわけですか。

須田 そうですね。それで、『リリィ・ベルガモ』から『LET IT DIE』に途中で変えたわけです。『リリィ・ベルガモ』はやっぱり国内に向けた企画だったですから。でも、ガンホー・グループに来た目的はそこじゃないだろっていうのもあって。で、企画のコアである非同期オンラインの要素が面白かったので、そこにフィーチャーして『LET IT DIE』に切り替えて、世界に向けてっていう。ちょうどガンホー自体がガンホー・アメリカを立ち上げたタイミングでもあったので、そこも含めて森下と話をしながらもっていった感じです。

――タイトルが須田さんっぽいですよね。LET IT“DIE”、“BE”じゃないわけですから。そのあたりも須田さんのテイストを感じますよね。

須田 でも、『LET IT DIE』はみんなで作り上げましたね。森下も開発の中核にいましたし、大きなアイディアも含めたコンセプトはホント現場の若い子たちから出てきてるんで。

若いっていっても、30代後半なんですけど…。

――今後はどういうものをお作りになりたいというか、すでに構想はあるんですか。

須田 今、Nintendo Switchで『Travis Strikes Again』(『TSA』)っていう『ノーモア☆ヒーローズ』シリーズの新作を作ってるんですけど、今回はインディーサイズで作ろうっていう挑戦でもあるんですよね。

――そうなんですか。

須田 はい。去年のPAX West(注33)で発表したんですけど、任天堂のインディーズ系のイベントでの発表だったんです。要は若いインディーのクリエイターの作品群に交じってベテランの僕が……多分ベテランでいいと思うんですが、その若手ではない僕が『TSA』っていうタイトルを発表したと。

で、若い子たちに混じって、これからゲームを作っていくわけですよね。若い子たちが作っている新しいゲームの中に僕らのゲームを投下していくと。だからこそ、若い子たちに負けないように。もちろん、彼らからの刺激もいろいろあるでしょうが、ロートルのオッサンでもビンビンの新しいゲーム作るぞっていうのを、この場で見せつけたいなって思ってます。

それはこの一作で終わりではなくて、インディーズスタイルで完全新作のゲームも作りたいと思っています。『TSA』は続編ではないですけど、ある意味スピンオフだったりするので、そこはいろいろ考えてるというか画策してます。

注33:アメリカ、オーストラリアで行われている大規模なゲームイベントのひとつ。

チャンスがもらえる限りは作っていきたいと思っています。

2016年_ロンドンコミコン_ファンサイン会

――今はスマートフォンに多くの人がシフトしていますけど、スマートフォンにおけるゲームみたいなものは須田さんの中でイメージはあるんでしょうか。

須田 今のところないです。やっぱりコンシューマーの中で勝負していきたいです。それに、コンシューマーはコンシューマーでSteamの台頭もあったりして、プラットフォームがたくさんある世界になっているじゃないですか。すごく健全になっているので、チャンスがもらえる限りは作っていきたいと思っています。

――プロレス団体じゃないですけど、須田さんはゲーム業界に入る前からいろんな世界を見てきて、ヒューマンに入ってそこから離れてというか分派して、アスキーがいろいろ事情があって独立されてっていう。生まれるものと壊れるものの繰り返しの中で、すごくたくましく生きられてますよね。

須田 そうですかね。

自分が動かなければ何も動かないですよ。

――本当にインディペンデントで作っているっていう意味で輝いていると思うんですよ。

須田 ありがとうございます。逆境のほうがチャンスって、いろんな方が言うじゃないですか。それは自分でも感じるところがすごくあって。本当に会社がヤバいときとか、この先どうなるんだろうって思ったときのほうが僕自身もエネルギー出ますし、いろんな意味で好転することがあるんですよね。

でも、やっぱり自分が動かなければ何も動かないですよ。自分の意識とかにエネルギーを注入しておくことによって、そのエネルギーを感じてくれてる人や応援してくれてる人が僕を見つけてくれたりすると思うんですよね。じゃあ、コイツとやってあげよう、コイツを助けてあげようと。

そこで僕自身のエネルギーが切れたりしてたら、多分応援してくれないと思うんです。それはモノを作るエネルギーとかもそうです。多分、ガンホー・グループに入るときも、森下はそれを感じ取って、一緒にやろうぜって言ってくれたと思うので、そこの火だけは絶やさないようにしたいなと思ってますよね。

あの人たち、またあんなことしてるわ、負けてらんないぞっ

――その火が永遠に燃え盛っていてほしいと思います。

須田 この連載の1回前がサイバーコネクトツーの松山(洋)さんじゃないですか。松山さんもまさにインディペンデントで21年、会社でいうと1コ先輩なんです。

――そうですね、21年ですね。

須田 で、同期だとレベルファイブ。日野(晃博)さんも今年20周年なんですよ。会社でいう同期の方たちなので、松山さんや日野さんの存在はすごく刺激になりますね。あの人たち、またあんなことしてるわ、負けてらんないぞって思いますし。

――いや、全然負けてないですよ。いい意味で十分バッドテイストだと思います(笑)。そういう意味では、須田さんはすごいと思いますよ。

須田 初めて言われました、うれしいですね。

――それにしても、須田さんも松山さんも日野さんも会社を興して20年なんですね。

須田 そうなんです。で、日野さんの場合はリバーヒルソフトにいて、脱藩されたわけじゃないですか。僕もヒューマンから脱藩して。しかも日野さんは年齢が1個下で、ほぼ同年代なんです。もちろん、スタイルも違えば、作るモノも全然違いますけどね。松山さんは松山さんで会社が1年先輩だったりするので、いろいろ刺激になります。

――今度、3人でトークショウやりましょう。

須田 面白いですねえ。ぜひぜひお願いします。

須田剛一氏と筆者

取材協力:仁志睦
撮影:北岡一弘
企画・取材:黒川文雄
初出展:エンタメステーション

ご高覧ありがとうございました。以下は有料部分ですが、このエンタメ異人伝とゲーム考古学をご支援いただけるかたのみ、ご賛同のご意志あれば有料部分もお読みください。(インタビュー本文自体は無料公開です)

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