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消費者としてのランクを上げる為に生きていくのは少し馬鹿らしい

タイトルが浮かんで、話したい事がふんわりと浮かんだけれど形にする時間が取れなくてタイトルだけ下書きにする、みたいなものが沢山ある。

今回は今年の1月あたりに浮かんだらしいタイトル。
その時々にどんなことを感じて、どんなことを考えていたのかということは記録にしていても思い出せない。
例えば、先日いいねをつけてくれた人がいたので「ショーシャンクの空に」について過去に自分が書いた記事を読み返したのだけれど、丁度今の自分に欲しかった言葉や考えが書かれていた。
中々今の自分にぴったりの良いこと言うなぁとか思いつつ、いや待て、これ書いたの自分じゃんということに気付く。

 思考というものは繰り返し、使っていかなければ中々定着しないと思う。こういう事象の時には自分はこう考える(もしくは行動する)というものが決まっていたとしても、パターンを繰り返さないと、それがものにならず違うものが出てきたりすることも多い。

「ショーシャンクの空に」を観て感じたことや思考したことはその都度変わっていくし同じものもあるんだけれど、それにしても記録に残しておいても忘れるくらいに刹那の思考というものは絶対にあって、そうした刹那の思考にこそ自分なりの考え方があるから良いなと思う。

話をタイトルに戻す。

消費者としてのランクを上げるためだけに生きていくのは馬鹿らしい」という言葉以上の深い意味は特にない。唯、そうした空気が満ち満ちている限り、多様性が活躍する社会は実現されないだろうというのが最近の考えだ。(因みに、「空気」というものに関しても最近考える事が多いけれど、これはまた別の時間で考える事にする)
 資本主義を全否定するわけではない。唯、どうにも、お金を稼いだ先の使い道にくだらない選択肢が多過ぎる世の中のように思えて仕方がない。
良い車を買う、良い家に住む、みたいなことが幸せの形で無くなってきた兆しも多少はあるけれど、それでもまだまだ金を稼いだら所謂モノ的な贅沢を求める人は多いし、社会はそういうふうに出来ている。

 「仕事」という時間においては確かに誰かのためになるような時間の使い方をしているのだとしても、それが所謂モノ的な贅沢の為に頑張るのだとしたら、なんとも虚しい気分になって仕方がない。
まだ美味しいものや普段食べられないものを食べたり、そのモノを通さないと出来ない体験があるのであればまだ良い。(高級フレンチで松ぼっくりを食べるのは絶対に経験した方が楽しいし、交通機関のないような山奥で家族と星空を見る経験には車があった方が良いに決まっている。)
唯、コト消費とは名ばかりで、それもモノ消費の延長線上にしかない。消費が他人や社会のために役に立つとすれば、それはどんなものが考えられるだろうか?

 最近はESG経営(投資)の考え方も広まってきてはいるんだけれど、そもそもESGの意味を正しく捉えている人がどれだけいるのかは怪しいな、と感じる場面は多々ある。サステイナブル、という言葉にしてもそうだ。
サステイナブルな消費が謳われるようになってきたのは良い傾向であると同時に、じゃあ新しい電気自動車を買うのがサステイナブルなのかとか、空き家問題が山積みの中でソーラーパネル付きの新築を建てるのってどうなのとか、個人の都合の良い範囲でしかサステイナブルな消費が根付いては行かない実感がある。

 それは自分自身もそうで、やっぱりジャンクフードを食べたい時は食べるし、まだまだ使える中古のモノと新品のものを見比べたときに、やっぱり新品を買ったりする事はあるし(多分、コロナのせいでそうした意識は増えたのではないだろうか)、水や電気を無駄にしていると思う。そもそも、市場に生まれてしまったモノは誰かが消費しない限り、モノとしての価値を失いゴミになるだけの存在なのかもしれないが、それでもサステイナブル消費が根付いていけば、時間はかかるけれどそうした不必要な(実は現存するもので十分に代替可能な)モノがそもそも市場に送り出されないようにはなると思う。

 話を戻して、消費者としてのランクを上げる事に必死すぎる世の中の空気感が凄い濃い上、新しい価値観が根付いていくまで数十年はこれが続くかと思うと嫌気がさす。
その原因としてSNSは絶対に関与しているし(実情より背伸びした消費を発信したがる人で溢れているしお気持ちも理解出来る)、そもそも「贅沢は敵だ!」とか言われていた(言わされていた?)時代の後で高度経済成長期を迎えていれば、そりゃ他者軸の消費に価値を感じる人が量産されていくのは実に自然な道理だと感じる。

 消費の選択肢は年々増えている。少し前までは、衣食住に加えて、車、旅行、程度のものだったのが、今やあらゆる趣味やブランドや電化製品やコトへの消費、それに加えてアートや人への投資にはほぼ際限が無い。(アートや人への投資は最高だ)
 消費の選択肢が増える(=生産の選択肢も多い)事は一見、様々な価値観の人を包括しているようで良いように思える。唯、他人を評価する、他人を気にする多くの人間にとっての「良い」という軸は限りなく少なく、衣食住によって判断される事が殆どだ。
西麻布で飯を食って、品川ナンバーの車に乗って、六本木のタワマンに住んでます、みたいな人が幸せであると言わんばかりの空気で満ち満ちている限り、どんなに消費の選択肢が増えたところで、多様な価値観が活躍できる時代を迎える事はないのではないだろうか。

 つまり、言いたい事の本質は、消費ランクによって人を評価する事がなくならない限り、多様性の受容は実現しないという事だ。
100人中99人にとっては価値が感じられない消費でも、1人にとっては物凄く価値のある消費というものが存在してはいるけれど(例えばそれは地下アイドルのサインかもしれないし、無名のアーティストの絵かもしれなければ、孫が大好きなおもちゃなのかもしれない)、その消費に対して99人のうちの誰かが否定をしはじめてしまうとその消費(と生産)はたちまち消えてしまう上、その否定は無意識に行われる事もある。
だから、別に新しい家と車を買おうが、西麻布のラウンジで金を使おうが、カンボジアのスラム街に寄付しようが、どこかに正義を置く必要もなく、それでいてその消費を否定しない世界観が必要だ。

その世界観を作っていくことが出来れば、本当の意味での多様性が根付いていく社会になると思うし、ある意味カオスな社会が形成されると新しい価値観が生まれるスピードも上がって面白いのではなかろうか。(その方がコロナみたいなイレギュラーっへの解決スピードも早いと思う)
他人と比較する事で自己肯定感を上げるだけの消費に走ってしまったここ数十年のお陰様で、失われたものは多く、富の再分配がもはや不可能に近い時代を迎えてしまった。

 よく年収が1000万を超えても幸せの度合いは変わらないという研究があるが(研究によっては800万とか)、それは今の消費者ランクを意識せざるを得ない空気の社会で生きているからの話であって、世界中で自分だけが価値を感じられる消費があって、それが1億だとして、それを手に入れる為に1億を稼ぐ過程はきっとこの上なく幸せではないかと考えている。(主にアートがそれを担っていくと思う)

それと同時に、資本社会の中では値段は付かないくらいのモノなんだけれど、「私」にとっては最大の価値を感じる、というモノも存在している社会にしていきたい。せめて、自分はそうした哲学の中で消費をしてこうと思う。



最近、色んな本を読んでいると自分だけの考え方、が埋もれていく危機感があるので、まとまらないなりに、こうして自分の考えを吐き出していく習慣は残していく。

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