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コーヒーでお絵描きをしつつ、ステートメントの無い写真のアート性を考えていた

 コーヒーでお絵描き。お絵描きとアートってかけ離れているなぁ...

 最近はアートとしての写真を好きになってきた。良いメディア(カメラ)を使えば誰でもそれなりに撮れてしまう写真は、綺麗なんだけれど、アートとしての魅力ってどこにあるのかなとずっと考えていた。

 そんな中で、落合さんの写真と、蜷川さんの写真(特にポートレート)だけはアートとして楽しめたので、その共通点を考えたりしていた。どちらも作風は全く似ていないのだけれど、「誰が撮ったか」が一発で分かる世界観が広がっている事に気づいた。

 それは、被写体の好みもあるし、ピントの絞り方の法則性であったり、現像の仕方だったり、タイトルのつけ方だったりする。
そういったファクトがあるのは事実なんだけど、下手に言語化するとなんか安っぽく感じる。ただ、「ああ、好きだなぁ」と思える写真ばかり。

 本当は、3月~5月に渋谷のBunkamuraで開催予定だった「超写実絵画の襲来」展を見れば、写真のアート性と絵画のアート性をしっかり区別出来て、写真の良さを分かる気がしていた。が、残念ながら中止。

 それで、行けない(見られない)のは仕方ないので、今まで「好きだなぁ」と思った写真を見返していたら、それはすべて落合さんの撮る写真と、蜷川さんが撮るポートレートだった。それと自分が作品として撮った写真。
 つまり価値観の共通点とか、世界観の共有とか、そういうことで、同じ(ような)目線で世界を切り取るから好きなんだと気づく。

 落合さんや蜷川さんのような視点で世界を見られる程、自分はまだ出涸らしになりきっていないけれど、多分そうありたいから、憧れるような視線で、似たような世界を切り取ろうとしているんだと思った。

 そう考えると、どんな視点でこの人は世界を見ているんだろう?どんな思いを抱いてこの景色を眺めたのか?という、多分当たり前なんだけど、いや集中しないと気づかないような、そんなところに興味を持った。

 沈んだ日は、沈める曲を聴いて、空を眺めたり、部屋を見まわしていると、沈んだ世界観が広がっている。それは逆もまた然り。

 やっぱり自分は、「感情を保存する手段」としてアートを愛でているんだなと感じるし、人の心に土足で寄り添おうとする烏滸がましいところがあるみたいだ。写真はそういう意味で分かりやすいアート。

 そういう点でいくと、今日自分がコーヒーで描いた絵は、メディアにこそ様々な感情を持っているけど、なんのステートメントもない、紙切れアートだったなと考えつつ、お絵描きってそういうもんだなぁ、自分の子供が描いたら意味付けをしたくなるんだろうなぁとかゆったりしていた。

 何も考えなくなれる時間は貴重だから、偶にはまあ良いかと思っている。

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