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“分かり合えなさ”を超えられるか

 手記としての記録。日常から離れる程、視野が狭まっていたこと、どう足掻いても固定された価値観で行動し続けてしまう恐ろしさを再認識しつつ、1日PCに向き合うより分かり合えない人と出会える生活が豊かだなぁと思います。日々是感謝。

 毎日心に刻んでいる「明日と明後日で考える基準を変え続ける」為には、やはり日常から意識的に離れなければいけないと感じています。

 先日、広島平和記念公園の帰りに訪れたのは西成の「あいりん地区」と呼ばれる、闇市や不法投棄や売春が今も社会課題となっている、古くは「赤線」が引かれていた地域です。旧知の人間もいることから、ただ観光的な過ごし方をするのではなく、その地域で生きる人たちと心を通わせることができればと思いました。慈善でも偽善でもなく、ただ心の動く方へ、という感覚です。

 2,700円で、二人分でも大満足なくらいの料理が楽しめました。店員さんの気もすごく良い。飲食客としてはこの上なく満足で、1人30,000円は優に超えるようなレストランの食事よりも気持ちは満たされつつ、この安さで商売をして、どれ程の生活ができるかはある程度予想がつきます。

 先日、西成の飛田新地で行われた落合さんの展示。心の動く方へ生きてみているだけなのに、好きな人と被ってしまうのは、良くも悪くも影響を受けているんだなぁと不思議な感覚になります。

 「明日と明後日で価値観を変え続ける」ことは並大抵のことではないと日々反省しつつ、こうして普段、目を逸らしたくなるような経験や場所、関わり合いのない(恐らく分かり合えない前提で避けている)人との関わりを、定期的にとることが大切です。分かり合えなさを超えない限りは、一生わかったような気で世の中を捉えていくのでしょう。

 私は基本的に言葉遣いの乱暴な人が苦手です。「死ね」とか「くそ」とかを他人に口語で使う人に魅力を感じることはありません。「わろた」とか「草w」とかのインターネット用語?も感覚的には不快です(20年以上前からインターネットでサイト作ったりもしていたのに生理的な抵抗感があります)。ただ、その一面、というか一点だけを見て、分かり合えなさを超えられないのであれば、どんなに意識をしても「明日と明後日で考える基準を変え続ける」ことはできないし、狭い狭いフィルターを通してしか他者と関われなくなってしまう。どんなに学んでも、寧ろ学べば学ぶほど、無意識な差別や偏見の心は育ってしまうようにも感じています。

 そもそもなぜ、考える基準を変え続けなければならないと考えているのでしょうか?それは同じ経験をしても、多種多様な受け取り方をすることができることがひとつの理由だと思います。全てを学ぶことも、全ての場所を訪れることもできない人生の短さの中、そして今日死ぬかもしれない可能性と常に隣り合わせの中で、固定された価値観で生き続けていては、見える世界が予想されるものでしかないんだなと、つくづく感じる旅でした。

 犯罪は犯罪です。そこに被害がある限り肯定することはありません。ただ、その過去と未来、そして現在のそこにある心の在り方と向かう場所、これまでの経緯にも目を向けられ続ける人でありたいし、それが欲張りで負担で常識ではないというなら、ありとあらゆるものを駆使して前例のない生き方で人と関わりたいです。

いつでも帰れる場所って最高の心理的安全性

 いつでも帰れる場所がある人は本当に羨ましいし、帰れる場所がない人の孤独感は分からないでしょう。ただ同時に、いつでも帰る場所がある人の大変さも私はわかりません。分かり合えなさを、超えたい。分かり合えなさを超えない限りは、一生わかったような気で世の中を見て死んでいく気がするから。


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