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自分の可能性を信じるポジティブさを失った分、他人を信じてバランス感覚を保っている事にネガティブさは感じない。

 タイトル以上に説明する事なんて本当は無いから、ツイートでもすれば済む事なんだけれど、自分の記憶にも残らない流れていく呟きより、見返す事がなくても蓄積されていく日記に残す感覚でnoteを綴る。
 それでもnoteのサービス提供がある日突然終わったらこれも消えるのかと思うと、人に支えられている実感を感じざるを得ない。

 それはさておき。

 20代半ばくらい?はっきりとしないけどそれくらいまでは、「自分はこれから何でも成し遂げられる」という謎の全能感(未知の)があった。多分思春期に、自分が世界の主人公だと錯覚する心理と似ているんだけど、「今の自分」でなくても「これからの自分」に凄く自信を持っていた。根拠は無い、根拠がないからこそ自信なのはそうで、その根拠ない自信を最近感じる事はなくなってきて、「俺の人生、こんなものか。」という一歩引いた目線で見る事が増えた。

 それと同時に、昨日より今日、何も成長をしていない自分は刺し殺したくなるから、日々何かしら勉強するなり工夫をすることは続けているから、その習慣と何かのタイミングで、「俺の人生、楽しいな。」と思い返せるような期間が来る自信はある。それでも毎日絶望と、少しの希望と、すべてを俯瞰してシムシティの住人を眺めるような気持ちを持ちつつ、揺れ動く気分を眺めている。

 そしてそれと同時に、他人への関心はゼロの割に、他人の「これから」には凄くポジティブな期待を抱くようになった。例えば、罪人でも、いつかどこかで一人か、一匹か、一羽か、一尾くらいを助ける事はあると思うし、明日死ぬやもしれぬご老体も、誰かに命の大切さを教える存在になり得るだろうと思う。それは今日ではなくて、今日以外のどこかの時間なんだけれど、きっとそうだと信じている。

 客観的にみると、他人に期待する事がないから根拠なく信じられるのかもしれない。自分を裏切った人間もいつかだれかを幸せにすることはあるだろうし、意図せず人を助ける事や役に立つ事は多聞に及ぶ。環っかみたいに人が人をつないでぐるぐる回ってんだろうなーと抽象的な事を考える。

 それでいうと、自然はサイクルが絶対的なんだけれど、信じる事ができない。天災と自然の恵みは別だし、ウイルスは人間の事なんて意識もしていない。そうした自然の理不尽さに畏敬の念を抱きつつ、自然によって急に明日死ぬかもしれない自分の可能性に期待しても仕方ないから、今、ここ、自分、そして目の前の人、しかいないと思うと、「人生、こんなもんか。」としか現在進行形では思えないのは仕方がない事か。

 想像力の無い奴は死ね、と自分に対して一日何回も言うけれど、同時に想像しすぎて今を忘れている奴には何も言う気すらも起きない。

 仮に、この記事を最後に死んだとして、このマガジンを一通り読んだ人間は、自分という人間像にどれだけ辿り着けるのだろうか。きっとありもしない虚像しか生まれない、だとするとやはり過渡期の思考は何も形作らないと思いつつ、虚像に思いを馳せる文学や歴史は何よりも大事にしたい。

 歴史や文学だけが他人を教えてくれるし、他人を信じさせてくれる。

 

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