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病院の待合室で読む本は、本屋の消滅を救えるか?

 自分の住むど田舎県の、とある町の本屋がこのGWで店をたたむという。息子がどこからか情報を仕入れてきた。ド田舎の中心部を通過して、車で1時間ほどの距離だ。特にどこかに出かける予定のないGWだったこともあり、トレカ目当ての息子に促されて、閉業する前の本屋へと出かけた。店についたら、昔ながらの本屋だった。ド田舎らしく駐車場も広くて、CDを売っているコーナーがあって、文房具も売っている。かつては、どこにでもあった本屋だ。町に一つはあった本屋だ。

 お目当てのトレカは随分と割引されて販売されていたようだ。息子が真剣にトレカを選ぶなか、店内をゆっくりと見て回る。縦長のシングルCDが100円で投げ売りされていた。古いビデオも投げ売りされていた。全てが懐かしい。自分が高校時代に通った本屋にタイムスリップしたようだ。文房具はあらかた売れてしまったようで棚ががらんとしている。村上春樹コーナーはあるが、新刊はならんでいない。そのかわりBRUTUSの特集号が目立つ位置におかれていた。流石にユリイカはない。

 このお店が閉業すると、この町内からは本屋が消滅する。この町の人々は、車で30分かけて県庁のあるところまで行かないと本屋がない。そもそも違う町に住んでいる自分はお店を利用してこなかったのだから売り上げに一切貢献してこなかったわけで、何かをいう立場にはない。今はネットで本を買うのが主流だろうし、紙媒体にこだわる人も減っているだろう。この先、こうやって本屋が存在しない町はどんどん増えて、それが当たり前になる。時代の流れとしかいいようがない。

 店内を一通り見て回り、特に買う物も見当たらず、がらんとした駐車場の片隅でベンチに座って、タバコを吸って息子をまっていた。無性に悲しくなる。分かっている。本屋が消滅するということに対して、他の町に住むくせに、ただ感傷的になっているだけだ。あるいは自分の思い出の何かと勝手に重ねて、懐古主義的な思想にとらわれただけかもしれない。でも上手く表現できないのだが「寂しい」とか「悲しい」といった複雑な感情が心の中で渦巻く。

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 自分が今の大学に移ってきた頃、町内には3軒の本屋があった。そのうち1件はスーパーの敷地内で家族経営をしていた間口の狭い小さな本屋だった。もう1軒が広い駐車場、CDショップも兼ねて、文房具もあるような本屋だった(3軒目はだいぶ距離があったが住所的には同じ町内のTSUTAYA)。

 私は小さな本屋もキラキラした本屋も両方を良く使っていた。特に何かを買うのでもなく本屋をウロウロしたい時は大きなお店を、買いたい本が決まっていたり、取り寄せをお願いする時は、小さなお店を使用していた。キラキラしたお店の方は老舗の書店屋さんで、大学にも営業さんが出入りしていて、月に何度か「本の注文はありませんか?」と回ってきてくれた。お願いすれば仕事の本でなくても、個人払いでも注文を受けてくれた。職員さんは「ビックコミックオリジナル」を定期購読していた。

 でも、このご時世だ。キラキラした書店は店内でパンを売ったりなどもして迷走のうえに結局のところ閉業した。大学にも営業さんはこなくなった。小さなお店の方も、スーパーの改築かなにかにあわせて閉店した。店主が「潮時だよね」と言っていたのを覚えている。そのため自転車や原付で移動出来る範囲から本屋が消滅した。暫くは車でTSUTAYAまで通っていたが、そのTSUTAYAも今はもうない。幸いに新しく出来た郊外型のショッピングセンターに本屋が進出してくれたおかげで、本屋が一切ない町にはなっていない。

 県の中心部にいけば、本屋はある。妻とは本屋そのものを目的として中心部に向かうことが多い。子供の用事がある時、私は待ち時間に本屋をウロウロする。会合や飲み会がある時、1時間ほど早くいって本屋をウロウロする。そうやって新刊で面白そうなものがないか物色をしている。仕事関係の洋書はAmazonで注文している。和洋を問わず、専門書はKindleの方が良いこともあるので紙媒体で買わないことも増えた。ただ、基本的に個人で読む小説や雑誌の類いは、今も紙媒体で買っていて、町内に唯一残った本屋を極力、使用するようにしている。

 以前も書いた様な気もするが、私の妻は文字通りに本の虫だ。私も妻も紙媒体の本を常に持ち歩く。電子本の便利さは分かる。本棚が片付くことも想像できる。でも、うまく説明出来ないのだが、読みかけの紙の本が鞄に1冊入っていないと落ち着かないのだ。二人でキャンプにいけば、焚き火を挟んで読書をする夫婦だ(ただし、最近は老眼がつらく、暗い場所での僅かな明かりを使っての読書は難しくなった)。時間があれば、鞄や車から本が出てくる。そういう習慣をもった生き物、としか言いようがない。

 時代の流れだというのは理解している。でも日々の生活から本屋がなくなる、そう考えるだけで悲しい。

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 そういえば、こんなことがあった。先日に、定期通院の病院の待合室でも老眼鏡をかけて本を読んでいた。びっくりするくらい混んでいた。周りを見渡しても紙の本などを読んでいるのは私一人だった。受付では「XXXXX病院で見て貰ってきたんだけど異常がないと言われた。心配なので、こちらでもう一度診察して欲しい(要約)」と一方的にまくし立てている方がいて、待合室では付き添い同士の年配の女性おふたりが、ゲスであるとしか言い様のない下ネタで盛り上がっていた。なんというか田舎の病院あるあるの世界だった。しみじみとコロナがあけたと感じる。

 看護師さんに名前を呼ばれて、採血室に向かう。老眼鏡を胸ポケットにひっかけて片手に本を持ったまま採血室に入ったら、名前の確認の前に看護師さんが「その本、面白いですか?」と声をかけてくる。ちょうど持っていたのが文庫ではなく「三体」の単行本だった。カバーもせずに読んでいたので目立ったかもしれない。今時、紙の本を読む人が珍しいのに、分厚い単行本を持ち歩くなんて変人と思われたかな、いやただの社交辞令かな、とか思いつつも「めちゃくちゃ面白いですよ!」と元気に答える(笑)。

 すると意外なことに、「では、私も買います!」と採血の準備をしながら看護師さんが言うではないか。予想外の返事に、思わず「え?」と驚くと、実はずっと購入を迷っていたらしい。面白いとは聞いているが、既に7冊も刊行されている。おまけに文庫にならない。文字量は構わないが、手を出してしまうと、最後まで読まないと気が済まない性質だし、もしイマイチだったらと思うと手を出しづらかったとのこと。

 鮮やかな技術で採血をしながら、「私は紙媒体で本を読みたいんですよね、でも単行本を持ち歩くのは大変なので、文庫本を待っている間に、次々と新作が出てしまって・・・」という。いや、それなら、今頃、まだIIの下巻を読んでいる私もだいぶ乗り遅れている。採血管をゆっくりと転倒混和しながら、「実際に三体を読んでいる人をみかけたのが初めてで、そうやって読んでいる人を見たことで、やっぱり読んでみたくなった」という。

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 なるほど、確かにそうかもしれない。大都会の近くに住んでいた頃は、電車によくのっていた。電子媒体なんてなかったし、スマフォもなかった時代だ。電車の中ですることといえば、ウォークマンで音楽を聴くか、新聞や本などの活字を読むかだった。電車で本を読んでいる人をみては「何を読んでいるのだろう?」と気になったものだ。たまにカバー無しで読んでいる人がいると興味を持ったものだった。人が読んでいる本って、確かに気になる。

 車移動が当たり前のド田舎では「人が紙の本を読んでいる」のを見かけることも少ない。周りに本の虫がいないと、読書という行為そのものを見ない。なので「何を読んでいるのだろう?」という興味を持つこともない。今はどこでもそうだろうが、誰も彼もがスマフォを見ている。このド田舎では紙の本を読んでいる人を見るのは珍しいので、もしかすると紙の本を読むという行為そのものが、知らず知らずのうちに本の宣伝にならないだろうか?などと考える。それは、このド田舎の本屋の消滅を防ぐことに繋がらないだろうか?などと妄想をする。

 もちろん、私一人が本を持ち歩いたとことで、たいした貢献など出来ないだろう。でも紙の本を持つことの意義を、家の外で本を読むことの意義を、勝手に一つ増やしたことになんとなく満足する。我が町の本屋が長く続くといいなと願う。

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