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【しらなみのかげ】エイプリルフールの翌日に #35


昨日は一年で一回嘘を吐いても良いエイプリルフールであったが、結局、一日の殆どを勉強に費やしていたら、一つたりとも嘘を吐かずに一日を過ごしてしまった。何よりもまず、勉強は必ず自分の血肉になるので、決して自分に嘘を吐かないのである。

 

 

「「近代」の本質は「宗教」への問いである」という記事には、note上の「スキ」やX上でのポストにおいて沢山の反響を頂いており、誠に有難いことに投げ銭をなさって下さる方もいらっしゃる。真に冥利に尽きる。私の方が連続的に記事を生産出来る様になってくれば、この「しらなみのかげ」も何れは有料マガジン化しようと考えている。それまでは、基本的に投げ銭方式で運用する算段であり、皆様方よりの投げ銭によって運営させて頂くことになる。今やっていることは嘗て私が研究者であった時と殆ど変わらない。研究は、それ自体では金にならない上に、金が掛かる。そしてこれはずっと私自身課題であると思っているが、研究者共同体において評価に値する論文を書くことと、研究者ではない方々に広くお届けする記事を書くこととは、そのスタンスにおいて全く異なるのである。そのような暗中模索の中で、「スキ」や投げ銭を頂けることは本当に救いになるのである。

 

 

私が人文系アカデミアより事実上追放されたのは、今から凡そ二年程前のことだ。

私は北村紗衣武蔵大学教授によって、当時の非常勤講師としての勤務先であった甲南大学の私の非常勤講師用ポストに内容証明郵便を送られ、それに気付かないで過ごしていたら、学長及び文学部長にTwitter(当時)による名誉毀損の旨を通知された。学長と文学部長より三年前の十二月、最後の授業の日に呼び出されたのである。「宇崎ちゃんは遊びたい!」コラボの日本赤十字社のポスター等に関して、北村による表現規制を訴えるツイートを以前より批判していたこともあるが、何よりも呉座勇一国際日本文化研究センター助教であった呉座勇一氏の鍵垢での発言を吊し上げ、千三百余名の署名を集めたオープンレター「女性差別的文化を脱するために」を批判し続けていたからである。それに徹底的に抗った結果、密かに録音していた甲南大学学長と文学部長とのやり取りを公開した廉で甲南大学の職の契約更新を取り止めにされ、そして北村によって名誉毀損訴訟を提起された。これらは、一昨年の三月の出来事であった。

 

 

そして、そこから今に至るまでの間、私は、自らの経験からキャンセルカルチャーに対抗出来るような独自採算の文化学術プラットフォームを打ち立てようと決意し、二人の共同事業者と一つの事業を立ち上げようと総力を挙げて尽力していた。そして、その内の一人、内心では恐らくやる気の無かった法人責任者の勝手気儘により、事業計画の全体が今年の初めに敢え無く潰えた。こうして私は、丸一年以上を、無駄に費やしてしまった。当たり前のことであるが、勉強は嘘を吐かないし裏切らないが、人は嘘を吐くし裏切るのである。

 

 

こうしてnoteの更新を再開出来るようになったのも、積み上げてきたものも、積み上げる過程で抱いていた希望も、そして一切の余裕も喪われてしまったその事件から暫くの間、虚脱感と喪失感に襲われる苦しい時間を経た以後となった。そして今、文章を書くことの実感を取り戻しつつある。文章を書くこととは、単に心の内なる声である意味や論理を死んだ声としての「文字」に載せることではなく、「文字」を書くによって同時に新しい「意味」を刻み付けることである。文章を書き続けるためには、書く行為を遂行する中でこの実感を絶えず摑み取っていくことが必要なのである。そうでなければ、例え自らの心に内なる声の多声的で豊かな反響があったとしても、否、それが余りにも強く響き渡れば響き渡る程、そこから次々と「文字」を書く行為へと移ることが出来なくなってしまうのだ。今、私はその実感をこの手に取り戻しつつある。

 

 

こうした事業の終了に纏わる騒動の最中、裁判の方は双方の最終準備書面の提出期限も過ぎて、後は判決を待つのみにまで至っている。私自身の感想を述べるのであれば、この裁判の判決は、恐らくは私個人だけの問題に留まらないのだ。

伊藤詩織氏を誹謗中傷するX上のポストへの杉田水脈衆議院議員による「いいね」に対する賠償命令確定(最高裁が上告を棄却)や、元参議院議員のガーシーこと東谷義和氏への暴力行為法違反(常習的脅迫)の廉での有罪判決(懲役3年、執行猶予5年の判決)等、昨今の表現規制問題や誹謗中傷を巡る世間の動向を見ていると、そう考えざるを得ないのである。言論・表現の自由は、アメリカの憲法判例の言う「明白かつ現在の危険」の原則に従ってのみ規制が設けられるべきであって、言葉や表現の「汚さ」とか、「明白かつ現在の危険」としては解釈不可能な「憎悪」や「差別」とか、傷つきやすい個人の「傷つき」等によって規制されてはならない。そのような美的・道徳的・政治的な理由による規制が僅かなりとも始まった瞬間に、物事の解釈権の独占・寡占が始まり、やがては美的・道徳的・政治的な理由に基づく言論・表現の自主規制が始まるのである。このような状況に至れば必ず、言論・表現の自由というものは、それらが「自由」であるとは根源的にどういうことかという、その原理において毀損されることになるのである。そうなれば最後、「文字の獄」が始まるのである。

いつ何時であれ、言論には言論で対抗すべきという対抗言論の原則を決して忘れてはならない。キャンセルカルチャーによる表現・言論そのものの社会的排除を決して許してはならない。そして、或る言論への対抗として法廷闘争を行うことが常態化すれば必ず、美的な観点は兎も角として、道徳的・政治的に(そして経済的に)「力」の強いものが圧倒的に有利になる状況が醸成されてしまうことを我々は危険視しなければならない。

 

 

まして況や、裁判の途中で原告によって追加された請求原因として、平成を通じて恐らく最大級の政治的問題であり続けた「歴史修正主義」という言葉の用法が法廷で問題となっているのである。

「歴史修正主義(historical revisionism)」という言葉には、「イデオロギー的に固定されたそれまでの歴史記述を修正する」という意味(1960年代にアメリカ自由主義を基調とする歴史記述への批判として提出された新左翼的な立場が代表例である)と、ホロコースト否定論等「事実と異なる歴史像を広めることを意図して歴史記述をそれに合わせて改竄する」(これは一般に否認主義(negationism)と呼ばれる)という、「修正」に関して全く異なる方向性を持つ二つの意味がある。法廷で問題となっているのは、原告によるこれらの意味の使い分けに対する私の批判的言及に関して、である。

従軍慰安婦問題や南京事件論争、或いは「新しい歴史教科書をつくる会」に纏わる教科書問題を考えれば分かるように、「歴史」の解釈権を巡る論争は、国家の根本的な来歴と現代の接続に直に関わるものであるが故に、国内の社会の根本的な在り方どころか、国際関係に迄波及する。そして、そうした巨大化する論争の最中で「歴史修正主義」という言葉が使われるのは、先の二つの意味で言えば当然ながら圧倒的に後者の方の文脈であり、その言葉が向けられる言説に対する決定的な糾弾の含意を持つものである。それだけに、「歴史修正主義」という言葉の使用には、あらゆる意味において人を抜き差しならなくする重大さと深刻さが備わっている。

 

 

そもそも「歴史」を巡る問題が持つこうした特異な位置は、先程述べた如き政治的に巨大化した個別の問題をも超えて、その根柢にある「近代」の成立の問題と深く関わっている。件の「宗教」論で述べた如く、「歴史」の問題は私の論題と無関係ではないどころか、寧ろその中核に位置する問題なのである。それと言うのも「歴史」という範疇が完全な自立性を持つのは、本来ならば「宗教」という近代的範疇に分類される筈の意味や価値を、「非宗教」の中に人間が「翻訳」していくその過程によるものだからである。そうして、その過程において、「歴史」への問いが現在を根源的にどのように意味付けるのかに関わるようになる。歴史の解釈は現在の解釈となり、歴史の解釈権は現在の解釈権となるのである。歴史の解釈を巡る闘争は、現在という時代的境位そのものを巡る闘争なのだ。「歴史修正主義」という言葉が一人歩きすることの恐ろしさは、正にここにあるのである。

表現・言論の自由やキャンセルカルチャーの問題と共にこうした巨大な問いの一端を、私の裁判はその途上で帯びるようになったのである。

このような観点から私自身、自らの裁判はこうした大局的な視点からも意味のあるものだと考えている。

 

 

そして、今noteに書き記しつつ進めている私の「探究」は、私の抱えている裁判とも、事業において実現したかったこととも、深く関わっている。

何となれば、「近代」を「宗教」への問いとして考え直すことは、私自身が直面させられている、現代における「文字の獄」の根源的な意味を探究することに他ならないからである。

プロテスタンティズムにおける信仰(belief)をモデルとした「宗教」という近代的範疇は、科学革命や政教分離の成立といった近世以降の歴史過程の中でキリスト教が相対化されていく中で、絶えず<問題>として現れ続けた。「宗教」という一般概念はそうして自らの意味を解決すべき<問題>として近代人達へと突き刺さり、「宗教」に好意的な立場からであれ否定的な立場からであれ、彼等を当の概念の反省的=再帰的な自己規定へと駆り立てることになった。この時代、「宗教」と「非宗教」の境界区分はその都度引き直されることになり、その引き直しの中で、「宗教」に含まれる事象が次第に「主権」「人間の尊厳」「藝術」「道徳」「歴史」「社会」等諸々の「非宗教」の領域へと「翻訳」され続けてきた。その過程において、この「宗教」の領域が自立するにつれて徐々に狭められると同時に、「世俗」の領域が巨大化していった。「非宗教」或いは「世俗」という名目の下での諸々の「宗教のようなもの」が、こうして誕生していく。

 

 

それ故に、「近代」という時代においては、そうした範疇の意味内容の解釈権が、一貫して政治的・社会的な<問題>であった。「主権」「人間の尊厳」「藝術」「道徳」「歴史」「社会」のような「宗教」の「翻訳」としての「宗教のようなもの」は、それが大文字で書かれる場合「イデオロギー」と呼ばれるものに大凡相当する訳だが、この時代においては、これらの範疇の解釈と解釈権こそ、あらゆる政治勢力とあらゆる人々にとって焦眉の課題となった。近代という時代が、それこそ宗教的にも思える情熱に駆られているかのような激しいイデオロギー闘争の時代であったことは至極当然のことなのである。そしてこの闘争は、世界大戦と冷戦を引き起こした。

 

 

そして前世紀の中頃、西側の高度成長が完成とともに終わりを迎える1960年代から1970年代頃に至って、大文字の「宗教のようなもの」が、当の「宗教」と同時に、徐々に失効し始める。消費資本主義の拡大と共に、それらの範疇の反省的=再帰的な自己規定自体がその内側から解体され始め、そのような諸々の大文字の「意味」からの一切の「解放」が主張されたからである。ここに、ポストモダンの時代が到来する。しかもそれは奇しくも、表現・言論の自由が西側世界において「完全に」実現したのと軌を一にしている。この意味において実際に、「解放」は実現したのである。

 

 

キャンセルカルチャーという現代における「文字の獄」は、この「解放」が、政治的・社会的な実効力として「近代」へと向けられた時に起こり始めたのである。最後に残った個人主義と道具的理性、そして消費資本主義の三位一体が齎す歴史的ニヒリズムに耐えられない人々の中の一部が、「真の解放」は未だなされていないのだと主張し始め、「近代」に由来するあらゆる事象に対し、政治的・社会的告発を始めたのである。そうして、この恰も逆立ちした宗教的熱狂ともいうべき運動が、「史的唯物論」という、大文字の「宗教のようなもの」の中でも最大の信念体系を信仰し、それに基づいた「真の解放」を目指していた左翼の陣営を次第に呑み込んだ。そしてこの勢力は、「解放」によって実現した所の表現・言論の自由の事実上の制限を「真の解放」という大義を掲げて絶叫し、「真の解放」にそぐわない人やものを際限無く告発するに至ったのである。

 

 

こうして私の「探究」は、必然的にこの勢力の歴史的系譜へと至り着くのである。

そして、私が言論においても法廷においても戦っているのは、差し当たりこの勢力である。

 「文字」を書くことは私にとって戦いである。

 


これは嘘で言っているのではない。

そう、私は決して、嘘を吐きはしない。

 

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