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SPIは本当にウソを見破れるのだろうか。

日本語には「諦念」という言葉がある。

デジタル大辞泉によれば、(1)道理をさとる心。真理を諦観する心。(2)あきらめの気持ち。とある。

…例えば、人間は…とりわけ日本人の性質として、乗り越えられるものについては意思の力が働く一方、それと同時に、人智を超えた事象には、諦めに達することがある(東日本大震災の恐ろしさはみんなが実感したことだろう)。

換言するならば、「楽観的」でありつつ、究極の「悲観性」の両立構造という状況であろうか。

SPIではこれらのことが矛盾とされるようである。

例えば、YOSHIKIは一人でいるときには悲観的である一方、一度ステージに立てば、自分が最強であるという認識をもっている(参考記事)。

問題は、この実践を一生涯継続できるかであり、多くの人にとって、それは困難なことなのであるが、一部の天才は、自分の生きる限りやり通すものもいる(インド思想では、大変重要なことである)。

この視点に立つならば、SPIは彼を矛盾ある人間と判断するだろう。


「自信」についても同様に両立構造を示すパターンがある。大学を卒業した多くの人たちにとって、その分野に関しては、学士号をもらえるのであり、その専門性は、他分野の領域の人々と比べて優位であろう。けれども、全てのことがオールマイティにできるわけではない。

したがって、まじめにやって成果を残した人間は、総じて自信がないとしても、一定の分野においては自信があり、本人のプライドに繋がっていることもあるだろう。自信のないことと、自信のあることは両立しうるものであり、それを矛盾とすることがおかしいのではないだろうか。

このように極端に真逆を表すことは往々にしてみられるのであり、それを矛盾とするならば、ごく平凡な、社会にあわせる人間しか評価されないのではないだろうか。


また、SPIでは、「ウソをつくのはよくない」という質問が度々される。社会通念上、それは良いことではないが、現実問題としてウソをつくことは仕方ない場合もある、というのが一般的な理解なのかも知れない。ただそれは、その人の理解がそういった偏見を前提としているということを考えなければならない。いわば、日本語文法上、あるいは哲学上許される(=科学的に認められる)意味の理解ではなく、多くの人々の偏見を満足させることを言わなければならず、答えられない人を批判する「差別」が含まれるのだ。繰り返す、「差別」なのだ。

「戒」を見ると、「理想論」はよく述べられる。戒とは良き習慣性を述べたものであり、模範とする生き方であって、できるかともかは別の話として、実践すべき生活スタイルなのである。この場合において、「ウソをつくのはよくない」というのは当たり前であって、それが実践できるかどうかはともかく、嘘をつかないよう心掛けることによって、理想の社会生活を構築しようというものである。

このような視点からすれば「ウソをつくのはよくない」を否定することは(それを実践できるかは別として)、社会性を欠いた、人の道を外れた生き物ともいえる。もはや、そのような道徳観の欠けた人間は、問題であるのだ。

また、「嘘をつくことが問題である」ということを知らない人間と、知っている人間では生活態度は異なるであろう。知っている人間は、いつか、改善しようとするのである。すなわち、戒を保ちつつ、破戒をしてしまう人間のほうが成長の余地がある人間なのである。


もっとも、この世界では、社会にあわせることこそが最重要な評価項目であるから、それはそれでありなのかも知れない。とはいえ、個性を大事とする傾向とは全くの真逆である可能性は否めない。ただ迷うことさえ許されない社会は決して生きやすい世界とはいえないだろう。


そこには偏見と差別があるのだから…。

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