がらむ

「人生」「生きるとは何か」といったことについて検討しています(正解かどうかはわかりませ…

がらむ

「人生」「生きるとは何か」といったことについて検討しています(正解かどうかはわかりません)。修士号まではもってるらしく、たまに東洋哲学などを用います。大体酔っぱらって書いている駄文ですので、気にしないでください。

最近の記事

仏教と街づくりへの投資―リート投信を中心に―

近年、メタバースという仮想電子空間が話題になっている。コロナ禍ということもあり、僧侶の中には、こういった技術を使って、仏教を広めていこうという試みもあるようである。 芸術の分野ではNFTの技術などに興味を持つアーティストも多い。インターネット社会において、権利を守るためには必要だ―という考えである。 個人的に言えば、寺院の活動をメタバースに移すという取り組みは、いまいち信仰にどのような結果をもたらすのか明示されておらず、投入費用などを含めると、今のところあまり魅力には思わ

    • 「如是我聞」と寄せ集めの経典たち

      大乗仏典には必ず定型句として「如是我聞」(このように私、阿難は聞きました)から始まっている。意味としては、対告者を示す「仏告阿難」(仏は阿難に告げました)と同様なのであるが、この違いは一体なんなのだろうか。 「如是我聞」にこだわったことは何回かあります。まず大学1年のときには「如是我聞」と「仏告阿難」は何が違うんだと言い、周りの大人から失笑気味に「やべえやつ」と思われました。この時に答えを教えてもらっていたら、その4文字に含まれる重要性に気付いていなかったかもしれません。

      • 間違いだらけの仏教知識(お盆編)

        仏教批判をしたいためか、何なのか、とりわけ生死にまつわる仕事をなされている人の中に、間違いだらけの仏教知識を披露している人がいる。例えば、某業者のサイトには次のような文章が見られる。 盂蘭盆は仏教が生まれた地インドの古代語であるサンスクリット語の「ウランバナ」の音訳ともいわれていますが、この語の意味は「逆さ吊り」であるため、餓鬼道で苦しむ母を意味すると考えられてきました。 しかし、「盂蘭盆」という言葉は「お盆にのせた(僧へ施す)食事」を意味することから、現在では盂蘭盆経そ

        • SPIは本当にウソを見破れるのだろうか。

          日本語には「諦念」という言葉がある。 デジタル大辞泉によれば、(1)道理をさとる心。真理を諦観する心。(2)あきらめの気持ち。とある。 …例えば、人間は…とりわけ日本人の性質として、乗り越えられるものについては意思の力が働く一方、それと同時に、人智を超えた事象には、諦めに達することがある(東日本大震災の恐ろしさはみんなが実感したことだろう)。 換言するならば、「楽観的」でありつつ、究極の「悲観性」の両立構造という状況であろうか。 SPIではこれらのことが矛盾とされるよ

        仏教と街づくりへの投資―リート投信を中心に―

          仏教はローグライクRPG

          仏教には十地思想というものがある。 これは、悟りまでの段階を十段階に分けたもの(その内容は経典によって異なるし、さらに細分化してもよいと認めている)で、分類方法に十地や菩薩五十二位といった思想がある。 これをどう説明すればわかりやすいか考えたとき、ローグライクRPGと同じであると気付いた。 我々は生まれた段階でLv1である。素手ではラスボスはおろか、スライムやおおがらすにさえ苦戦するのである。もちろん、強いモンスターを倒したほうが経験値はたまる。しかし、自力では倒せない

          仏教はローグライクRPG

          『カーマ・スートラ』から学ぶ、人から好かれる技法・嫌われる技法

          古代インドの人生観で大切なのは、「利」(稼ぐこと)と「愛」と「法」(解脱を目指すこと)だそうで、アーシュラマ(年齢区分)によって、それぞれ目指すべきことは異なるそうである。 このうち「愛」というのは、人生の一大事にされてきたテーマで、たとえば釈尊が五支縁起の中で、渇愛(カーマ)から生老病死へと繋がっていることを示した一方、『カーマ・スートラ』と呼ばれるヒンドゥの恋愛指南書では、渇愛(カーマ)をテーマに人間の心理を細かく分析している。 『カーマ・スートラ』では、全体的に、愛

          『カーマ・スートラ』から学ぶ、人から好かれる技法・嫌われる技法