#2. 第一子出産回顧録(2/3)【退院から里帰り期間】

母乳育児

結局母乳をよく飲んでくれるようになってミルクがいらなくなったのが生後4ヶ月経ったころだったが、今回は退院から里帰り中の2ヶ月間について。

里帰り出産中の2ヶ月間は助産師さんに家にきてもらって、
最初は一日おき程度、軌道にのってきたら週一くらいでおっぱいマッサージをしてもらった。
余分な乳を絞り出してもらったり、正しい姿勢での授乳を教えてもらったりした。
「桶谷式」といって、痛くないおっぱいマッサージだった。
産後、この助産師さんに助けられてなかったら、もっと地獄だったと思う。

3時間かもっと早い周期で目が覚めて泣き始める赤ちゃん。
一回の授乳+ミルクで1時間くらいかかる。
つまり2時間も寝る時間はない。
朝も昼も夜も関係なく泣き続ける。
いままでせいぜい下着としかご対面することのなかった乳首が、
授乳のたびに引っ張り出される。
吸い付いて傷をえぐるくせに全く飲めている気配がない。
張る痛み。擦られる痛み。
本当に耐えられず、乳房ごと取っ替えてしまいたかった。
なんなら全部持って行ってくれ。

悪露

出産後から、悪露(おろ)といって子宮内の残骸が血の塊となって数週間に渡って出続ける。
赤ちゃんのオムツを替えながら自分のオムツも替えるのだ。
これがまた滑稽に思えて、
「悪露でおろおろ」
と毎回トイレの中で唱えていた。
出産後の変なテンションになっていた私はこの念仏で落ち着こうとしていたのかもしれない。
4年越しにここで初めて人前に晒した。

会陰切開

会陰の縫った跡は入院中に抜糸する。
友達は溶ける糸だったから抜糸がなかったよ、と言っていたので医者によって違うんだろう。
糸があるうちは傷口が引っ張られるような感覚があって、出産後初めてのトイレは怖すぎて何も出せなかったくらいだ。
抜糸は想像していたのと全く違って、また切ってるんじゃないの!?って叫びたくなるくらい痛い。

パチン。パチン。パチン。

出産中の会陰切開は感覚がどうにかなっているけど、
抜糸は完全に冷静な状態で診察台に上がっていて、
もちろん麻酔もないから痛さを100%受信する脳。
しかし抜糸したら、痛みは残るものの引っ張られてまた千切れそうになる感覚はなくなり、ややマシに。
1ヶ月くらいはドーナツクッションが手放せなかった。

奪われた人権、地獄、拷問

つまり、だ。
睡眠・食事・排泄という人間の生理的欲求もほどほどにしか満たされない。
(むしろ満たされていない。)
乳首を3時間置きに30分間、洗濯バサミで挟まれている。
つい数日前に性器をちょん切られている。
流れ続ける血。
寝れない。
泣き声で起こされる。
どんなに体がボロボロでも拒否権はない。

よかれと思って家族からかけられる言葉も呪いにしか聞こえない。
「飲めてないのかなー」
「最初はこんなものよ、おっぱい出るようになるよ」
「泣いても泣かせておけばいいのよ」
「いまが一番大変な時期よ」
「かわいいなあ」
全て悪魔の声に聞こえた。

想像にかたくないが、ほぼ実母からの言葉である。
母は自分が経験している分、とても同情しやすい。
娘をなんとか楽にしてあげたいと望む。
だからこそ、悪魔の一言になってしまうのだ。
しかし母が出産を経験したのは30年以上も昔 、時代も違うし、環境も違う。
なんなら記憶も曖昧だからこうなってしまうのも無理ない。
母は何も悪くない。
(フォローするが、むしろ物理的な支援、食事とか、洗濯とかは実家でしか得られないので、これがなければ産後1ヶ月は生きられなかった。)

妊産婦には人権がないと思った。
この拷問はなんなのか。
私が何をしたというのだ。
誰も代わってくれない。
休ませてくれない。
母親を辞めさせてはくれない。
諸悪の根源は何か。

泣き続けるこの未知の生物である。

赤ちゃんのことを「かわいい」と思えなかった。
でもそれを口に出すことはできなかった。
最後までできなかった。
「辞めたい」
「かわいくない」
「きらい」
それらをどれだけ頭の中で繰り返し繰り返し叫んでも、
どうしても口に出せなかった。
出してしまったら最後、何もかも崩れ落ちてしまう気がしたからだ。
口に出さない限りは、私の心の内は誰にも知られない。
心の中だけは自由だった。
未知の生物に対する嫌悪の言葉で埋め尽くされた。

口には出てこない代わりに、目からは涙がぽろぽろと溢れてくる。
「産後うつ」である。
あー、知ってるこれこれ。
雑誌でも母子手帳でも、どこかしらでもらってくるパンフレットとかにも書いてあるやつ。

そう思って涙を流しながら冷静だった。

次回へ続く。

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