本を食って生きている

 これまで読んだ最高の短編小説は何かと訊ねられたら、迷うことなくジーン・ウルフの「デス博士の島その他の物語」という短編を挙げる(国書刊行会より刊行の同題短編集に収録)。それはとある浜辺に住む少年の話である。母親に顧みられない少年はいつも一人で本を読んでいる。孤独な少年の友達はその本の登場人物だけなのだ。物語の終わり、少年は悪漢のデス博士に語りかける。「この本、もうあと読みたくないよ。博士はきっと最後に死んでしまうんだもん」
 デス博士は答える。
「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ」
 この言葉ほど読書の喜びと哀しみを鮮やかに示したものはない。この小説は二人称で書かれている。タッキー少年はぼくである。ぼくはかつて孤独な少年だった。あのころ、ぼくの友達は本の中にいた。りゅうのボリスとネズミのリーピチープが遊び相手だった。図書館に通って借りてきた本に読みふけった。読む本がなくなってしまうのが怖かったのでいつも多めに本を借りてきて、読み終わってしまうのが惜しくて最後の方はゆっくり読んだ。そして好きな友達の出てくる本は、何度も何度もくりかえし読み、そのたびに友達は戻ってきてくれた。
 長い年月が過ぎ、さすがに本の外にも何人かは友達ができた。でも、相変わらずいちばん幸せなのは家に座って本を読んでいるときである。最高の友達は本の中にいる。いちばん大切なことを教えてくれたのは本の中の人たちだ。
 今、ぼくは翻訳を仕事にしている。英語の本を読んで、日本語の本を書く仕事だ。まあ仕事と言っているのだが、それよりは生理現象のような気がしている。本を食って本を排出している。読む材料はもちろん英語の小説だけでなく、日本人の小説もあればノンフィクションもある。素晴らしいノンフィクションに天の配剤ともいうべきドラマを教えられ、巧みな小説に世界の真実を見せつけられる。そのすべてが自分の書くものの糧となっている。それは単に言葉の綾ではない。読書は楽しみでも暇つぶしでもない。空気や食事のように生きていく上では必要なものなのだ。すべての人がそうだというつもりはない。でも、まちがいなく本を食って生きているのはぼくだけではないだろう。
 よく、なんでそんなに本を買うんだと言われる。家には本が山積みになっていて、一生かかっても読み切れないくらいだというのに、なぜ買いつづけるのか。すでに本棚からは本があふれだし、床に山積みになった本のあいだをおそるおそる縫って歩かなければならないような状態だというのに(一日一回、山に足を引っかけて雪崩が起こり、溜息をつきながら本を積み直す。まことシジフォスの本積みである)。なぜか? それは本を読んでいないと死んでしまうからだ。履歴書に書く「読書、映画鑑賞、音楽鑑賞」という「趣味」欄がしらじらしいのもそれが理由だ。読書は趣味なんかではない。もっと切実で、はるかに重要なものなのだ。
 今、書籍はネットや電子化についての話がかまびすしい。黒船が上陸し、維新が起こって旧体制が一新され、書籍が滅ぶとか書店が消えるとか、いずれにせよ景気のいい話は聞こえてこない。本を食って生きている人間にとっても他人事ではない。食べ物がなくなったら飢え死にしてしまうではないか。
 でも、ぼくは実はあまり心配していない。本が将来どんな形態になるのかはわからないけれど、読書という行為自体がなくなるとは思えないからだ。本の川の中で泳ぐ魚、本を食って本を排泄する紙魚たちがいるかぎりは、読む本の種がなくなるとは思えないからだ。そしてページを開ければ、いつでも昔の友達と再会できるのだ。本のページを開けば、みんな帰ってくる。ホールデンが、ウサギが、ハワード・キャンベル・ジュニアがそこにいる。

(白水社ウェブサイト向けのエッセイ、2010)

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