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どっち? 解説編

昨日、投稿した記事がこちら。

https://note.com/gashin_syoutan/n/n350470a68fb9

統一教会って安倍元首相が暗殺されてから注目されるようになったのですが、なぜ、増すゴミが騒ぐのかわかりません。
オイラの記事より

実のところ、オイラ、そう思っている訳ではないのです。

結論が知りたい方は、最後までお付き合いください(笑)。

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まずは、高市早苗さんに問い合わせた毎日新聞の記者=Aさんの心の中に分け入ってみます。

「高市さんに問い合わせしましたけど、それで社会に何かを伝えたいとか、問題の発見者になろうとしたわけでもないんです」。

「自分の会社にブーメランとなって返って来るかも、なんて、考えもしませんでした」。

「以前、毎日新聞社にいた記者と私とは何の関係もないんですし」。


「旧統一教会系イベント『ピースロード』を毎日新聞と中日新聞が「世界平和願う団体」として好意的に複数回紹介したからって、何が問題になるんですか?」

「いいじゃないですか、資本主義社会なんですから」。

「私は、他者に危害を与えない限りにおいて誰にも束縛されることのない個人であり、表現の自由権利として持つ『自由な主体』なのですから、どんな記事を書こうと私の勝手です」。

「そもそも、報道しなきゃ、情報弱者は気付きませんって」。

「それに、私には報道しない自由だってあるんですからね」。
オイラが勝手に創作


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自由な主体=負荷なき自己



自由な主体です」の意味は、普段は白紙の状態なのですが、自分で選択した途端、何者かになれるってこと。
まるで、仮面ライダーの「へ~んしぃ~ん」ですね(笑)。

何者かになった途端、何かができる人になれちゃいます。

上述のAさんは、自分で記者という職業を選択して、使命感とか、報道する意味を考えることなく、ただ、何でもかんでも書ける人= 表現の自由になったんですね(笑)。

ただし、目的論的な生き方には興味がないのですから。記者になって、世の中を良くしてやろうというロマンもなければ、気迫希薄(笑)。
「宗教と新聞広告のあり方」に一石を投じようという気概など1ミリもなく、社会に危害を与える暗殺者・テロリストを守ることに気後れすることもありません。

このサンデルが言うところの「負荷なき自己」は普遍的な責任か、自分が合意したことへの責任だけしか考えません。

負荷なき自己」は「社会人として」だけでなく、「会社人として」の責任にも考えが及ばないのです。

https://note.com/gashin_syoutan/n/n47210ce4adc4

この記事の中でミルネールの言葉をご紹介しましたね。

未熟な共産党に入党する人は本物ではない
なぜなら「それは、『真の神偶像を取り違えるようなものだ』から」と。

ちゃんとした左翼の共産主義者・知識人が(未熟な)共産党に入党しないのは、革命の日など、絶対に来ないから。
ジャン=クロード・ミルネール


我々= 負荷なき自己= 自由な主体」は、「無限に普遍化されている」ってな具合に、端から真の神偶像を取り違えていますから、常識やら社会通念などは目に入りません。

当然、記者として果たすべき責任なんて知ったこっちゃない(笑)。

https://note.com/gashin_syoutan/n/n47b4f6467a72


事実を歪めて伝えて、愉快犯のように大衆が右往左往するのを楽しんでいるだけなのに、「俺が社会を、そして、世論を動かしている」って思って悦に入っている(笑)。


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安倍晋三元首相暗殺事件


自己矛盾に気づかない自由な主体は、他者が書いていないことを書こうと、重箱の隅をつつくだけ。
それが、高市早苗さんの20年前の対談の話題。



手製の銃を発砲した山上徹也(41)が、母親の入信していた旧統一教会への多額の献金で一家が「破綻」したと供述。

「暗殺・テロ事件」を「政治家と統一教会」という問題にすり替えての報道に勤(いそ)しむ増すゴミの目指しているのは、結局のところ、暗殺やテロに優しい国家です。

よく考えると、憲法9条を改正せず、国家の安全保障をないがしろにしたいってことと根は一緒じゃないですか(笑)。

困ったことに、第4の権力と呼ばれるほどペンの力って大きいです。

真の神偶像を取り違えている人にペン」と「山上容疑者にピストル」って、どっちもどっちってオチでした(笑)。

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