ある消しゴムの話

 数年前にとある企画のために書いた「ある消しゴムの話」という小説が発掘されたので、数年を経た今、再びここに載せてみます。ご興味のある方は読んでみてください。最近小説書いてないな。また書かないとな。


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 俺は何の変哲も無い昔ながらの黒鉛筆だが、今回ここに記そうと思うのは俺の話じゃない。かつて俺と同じようにこの場所にいた、俺のちょっとした友達の話だ。
 昔、この場所には俺と共にここにやってきた文房具がいた。奴の名は消しゴム。奴は俺に、奴がこの世を去った後の、鉛筆生の送り方も含めて様々なものを残してくれた。
 俺はもう老い先短い。そう、鉛筆だけに短いのだ。それがどういうことかわかるだろ? 要するに後二、三回あの痛い鉛筆削で削られれば、俺はこの世とはおさらばだ。その前にどうしても奴と俺のことを後世に残したいと思った。だからその話を、これから少しの間だけさせてくれ。

 奴と俺がこの場所に来たのは今から1年ほど前の夏のことだ。ここはとある高校三年生の女子の部屋。俺たちを購入したのは他ならぬその女子自身なのである。シャープペンシルが絶大な支持を得ている昨今において、今時昔ながらの鉛筆と消しゴムを愛用しているとは全く古典的なやつだと、店から運び出されながら傲慢にも俺は思ったものだ。そして後で聞くと、消しゴムも同じことを思っていたようなのだ。
 「ずっと同じ場所にいたのに、お店の中じゃあ、あまり話したことがなかったよね」
 晴れて持ち主となった女子の机の上で開封された後、俺たちはお互い初めての挨拶を交わした。ここで念のため断っておくが、無論俺たち文房具の声は女子には聞こえない。消しゴムのその声は俺が思うに、人間界で言うところの「イケメン草食系男子」のそれだった。
 「そうだな。改めてよろしく。俺は見ての通り、何の変哲も無い黒鉛筆だよ」
 一方俺の声ときたらガキ大将のようなダミ声なのだから、こいつに笑われても仕方がないと思った。しかし奴は笑わなかった。真面目くさった顔でうなずき、言った。
 「僕は消しゴムだよ。君らが描いたものを、跡形もなく消すのが仕事だ」
 真正面からこのようなことを言ってくる消しゴムに、むしろ俺は好感を持った。俺たちが鉛筆と消しゴムという存在である限り逃れることのできない事実に、こいつは向き合っているのだとその時感じた。なるほど強い奴だった。
 初仕事の時は間も無くやってきた。俺たちの持ち主である高校生の女子は、その清楚な見た目から想像のつく通り俺たちのことをごく丁寧に扱った。彼女は小説を書くのが日課で、俺たちのことをどうやら小説執筆専用の道具として認めたようだった。文学的なものに疎い俺は、彼女が書くものの内容、その作品に込められた意図や思い、目的などはてんで理解できなかったが、一方の消しゴムはよく理解し、その考えに共感を覚えていた。
 「彼女はすごいね。この年で、一生懸命前を向こうと頑張っている。そんな彼女の道具になれてよかったと心から思うよ」
 消しゴムがそう言って笑うのを見て、俺もつられて笑顔になった。奴にはその頃から俺を含めた周りの文房具を笑顔にする能力が備わっているようだった。

 満ち足りた時間はその後もしばらく続いたが、どんな時期にも終わりは来る。終わりと始まりを繰り返しながら移ろいゆく一生を過ごしていくのは、人間も文房具も同じだ。こういうのを人間界では、諸行無常っていうのかい?
 彼女はある日を境に小説を書くのをぱったりとやめてしまった。どころか毎日、俺たちがいる二階にまで届くほどの声で争う両親との口論が絶えなくなり、やがてこの部屋に戻ってくる時間もめっきり減ってしまった。なんでもそれまで付き合っていた男に裏切られ、ほかならぬその男に学校で笑い者にされたそうだ。彼女の進路が決まらないことと合わせて、彼女がいない間に両親が泣きながら話しているのを、俺たちは聞いていた。
 そしてついに、彼女自身にも大きな変化が現れた。悪い方の変化だ。まず髪が金色に染まった。耳には幾つものピアスがつき、部屋でタバコを吸うようにもなった。その煙のせいで目の前がかすんだ。
 たまりかねた消しゴムが彼女に言った。
 「やめたほうがいい。そんなことするなんて君らしくないよ。さあ、僕らを手にとって。またあの時のように小説を書いてよ。僕らはいつだって、君の味方なんだから」
 その思いが伝わったのかそうでないのか、彼女は消しゴムの望み通り俺たちを手にとった。そして、叫びながら思い切り壁に叩きつけた。あれは痛かっただろうな。今でも胸が苦しくなる。
 日を追うごとに彼女は荒れていった。両親が彼女の名前を呼んで泣き叫ぶ中、物が割れたり壊れたりする音が響いてくるようにもなったし、俺以外の何本かの鉛筆は、既にストレス発散の道具として彼女に折られていた。俺はなんとか助かったが、これは単に運が良かっただけに過ぎない。
 あれほど清楚で可愛らしかった女の子がなぜこんな風に気性が荒くなれるんだ。俺は大いに惑った。混乱し、彼女の所業に怒り狂った。しかし消しゴムは冷静だった。奴は既に彼女が自ら行った、彼女の小説を消す作業にその体の大半を使われていたというのに、だ。
 あいつが半分欠けてしまった顔で、いつものような笑顔を浮かべて俺に言った言葉は未だに忘れられない。
 「人間は弱いんだよ、黒鉛筆くん。君だってわかってるだろう? この子だって本当はちっとも強くなんかないんだ。でも、きっと大丈夫だよ。時が経てばきっと前を向いてくれる。そういうものなんだよ、そうやって生きていくんだよ、僕らは」
 彼女が気まぐれにたった一つの短編を残して、自分が書いた小説をあらかた乱暴に消し終わった後、消しゴムはこの世を去って行った。気がつけば、季節はすっかり冬になっていた。
 一連の行動で暴れる気力さえなくした彼女は、やがて一転して部屋にずっと引きこもるようになった。俺たちは来る日も来る日も彼女の虚ろな顔を見ながら過ごした。俺は彼女に向かって届くことのない思いを吐き散らしていた。その内容は消しゴムのことが大半だった。なぜあいつをあんなに酷く使い切ったのか。あいつはもう二度とここには戻ってこない。それが悲しくて、悔しくて、それからやっぱり悲しかった。
 彼女はある日の寒い夜、自分の部屋から飛び降り自殺を図った。
 救急車の音が鳴り響き、その後、世界の終わりのような静寂が訪れた。冬が過ぎ、春が来ても彼女は一向に戻ってこなかった。俺たちはなすすべもなくただ待つしかなかった。
 やがて、彼女は突然戻ってきた。事故の後遺症で下半身が動かなくなり、悲しそうな顔をした両親に押されて車椅子で戻ってきた。でも、彼女自身の顔は以前のように虚ろではなく、髪も元の黒に戻っていた。どこか吹っ切れたような顔をしていて、雰囲気もまた、穏やかなものになっていた。
 やがて、彼女はただ一つ残していた自分の短編を手に取り、それを隅から隅までくまなく読んだ。途中から涙を流しながら読んだ。そしてついに俺を手に取り、ゆっくりと短編の手直しを始めた。彼女の手はとても温かかった。
 その短編は、彼女が俺たちを手に入れた頃に書いた、俺たち文房具の物語だった。
 彼女がその短編で文学賞を取り、小説家として新たな出発を切った時には、すでに俺の体は半分以上減っていた。俺の心は満足だった。その満足感がどこからくるものなのか、はっきりとはわからない。ひょっとしたら、あの時の消しゴムの思いが届いたことに喜んでいたのかもしれないな。
 
 俺の周りにはもう、誰もいない。かつての消しゴムもいなければ、同胞の鉛筆たちも皆この世にはいない。そして、俺ももう直ぐ同じ場所に行くだろう。
 彼女は文学賞をとった後もしばらく俺のことを使い続けてくれた。その過程で俺もまた、彼女のことを大切に思うようになった。彼女は執筆中や打ち合わせの時にも俺を同行させ、時々愛おしそうに俺を見やってくれたのだ。
 やがて相応に短くなった俺を、彼女は親交の深い街の図書館に寄付した。涙を浮かべて俺のことを見送ってくれた。現在はそこのおばさんたちに、使いやすいようにキャップをはめられて使われている。その場所では俺が最年長の文房具なのだ。こんなこと、1年前には全く想像できなかった。
 なあ、お前もそうだろ、消しゴム?
 その図書館には幾つか他の消しゴムの姿も見られたが、あいつのようなかっこいいやつはいなかった。やはりあいつは潔く、ある意味では鉛筆よりも鋭い奴だったのだ。最大級の賛辞と共に、最後にあいつが言った言葉を紹介して、俺の話を締めくくりたい。

 「僕は消しゴムで、もちろん消すのが仕事だ。でも、僕が消したもののことはちゃんと自分で覚えているよ。だって、僕が消した幾つもの言葉は、僕に何通りもの笑い方や生き方を、しっかりと教えてくれたのだから」

ある消しゴムの話 了

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