急ぐ人、急がない人

 生き急ぐという言葉がある。インターネット上で検索をかけると「限りある命を、急いで終えようとする人」のことを生き急ぐ人の意だと出てくる。この言葉を知った当初、僕はこの言葉を真逆の意味に捉えていた。要するに、生きることに必死になって様々なことを急いでいる人のことだと思っていた。このように、世に普及している言葉の捉え方を独自に解釈して、盛大な勘違いをかましていることがこれまで何度もあるのだが、なぜかこの言葉に関しては、勘違いを未だに趣深い捉え方として自分の中に残している節がある。

 自惚れと捉えられても仕方がない書き方をあえてするけれど、言葉について考えている時間を、おそらく他の人よりほんの少しばかり長いこと好きでいるのではないかと思う。だからなのか、普段過ごしている上で何気なく使った言葉の使い方や言い回しを見られて驚かれたり、好意的か否かに関わらず奇妙がられたり笑われたりすることがこれまでの日常の中で何度かあったし、今もある。
 特に10代〜20代半ばまでは顕著に表れていたように思うが、誰かと話すとき、どちらかというと会話と呼ぶにはやや格式ばった話の仕方をする傾向にあり、無駄に書き言葉のような伝え方で話す癖があることもあって、変な人と捉えられることも珍しくない。もっと言うと、自分は元々学が無く、かなり頭が弱い方であるのに、この話し方のせいで分不相応に賢く見られたりする。しかし、ある程度関係が構築されて、長く一緒に過ごすことになると結局自らの馬鹿さ加減は露呈するので、これが原因で相手を落胆させたり無駄にイラつかせたり、どこか期待外れな感覚を植え付けてしまったりするなど、何かと損をしている自覚はある。

 僕は今でも、適切な言葉の使い方は省略の技術の一種だと考えている。言葉を、より簡潔に、最小限の言葉数で適切に自らの意図を相手に伝えるためのツールとして見た時に、時には普段使いしないような言葉も必要になってくるのではないか、と思っている。しっかり簡潔に相手に用向きを伝え、迅速にことを済ませた方が自分も相手も楽ができるし、無駄な時間を過ごさなくて良いだろう。そんな考えを徐々に、確実に、極端に先鋭化していきながら二十歳そこそこまでは生きてきた。そんな風に生きていれば当然というか、ごく少数の身内を除いて必要最小限のやり取りしか行わなくなる。事実、その頃は気軽に話せる友人も本当に数えるほどしかなかった。そんな状況を、外面では強がって何でもないと言い張っていたし、あれこれ勝手に考えて自分の気持ちにどうにかこうにか折り合いをつけた気ではいたけれど、その実、かなり屈折した寂しい日々を過ごしていた。
 友好的かつ持続的なコミュニケーションを図る上では、省略よりむしろ無駄の方がよほど重要なのだと気づいたのは本当に最近のことだ。以来、縁があって仲良くなれそうな人とは積極的にダラダラと話をするように意識している。こんなことを20代も後半に差し掛かってから、意識して行う人間が一体どれくらいいるのだろうか❓ おまけに本来これらを学ぶべき場所であるはずの、学校であったりアルバイト先であったりといったモラトリアム環境下でのコミュニティの中において、それら一切を放棄して行ってこなかった代償として、最初のうちは誰と話すにもガチガチに緊張して全くうまくいかなかった。それこそ己が表情筋の動かし方、極度に震えずに唇を動かす方法から学び、実践する必要があり、文字通りコミュニケーションと呼ばれるものを1から学んでいくことになったし、それは今も続いていると思う。

 そんな風にして散々失敗と挫折を繰り返し、三十路も目前に迫った今、ようやく人並みの一歩、二歩手前くらいの会話力程度は身についた、気がしている。それなりに周りに友達も出来て、ある程度ダラダラと会話を楽しみ、省略と無駄の使い分けを行えるようになった、と思っている……(これを断定できないのは過去と比べてこういったことが向上したという実感が、自分自身にはさほどないからなのだが)。遅まきながら気づきを得て以来、自分なりにだが超絶に急いで一般的なコミュニケーションについて我流で学び、坂を転げ落ちるように進んできた結果、無駄の多い、ダラダラとした、全く急がない人になろうとしている。これはかなり面白いことだと個人的には思っている。
 人生に無駄なことは一つもない、とはよく言われるけれど、人生の中で他人を避け、ひたすら省略することに重きを置いてきた日々があるからこそ、無駄の大事さが身に沁みている現状がある。人によることを大前提に、あくまで僕は、ある程度生き急ぐ時期があることをことさら悪いことだとは思わない。
 ……え❓ 単に僕が不器用なだけ❓ その通り。。。。。。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?