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本の登場人物・時代背景に関する補足説明(17)

『「スマッシング・サクセス」(大成功)の海外評価を得た』
  → 「ドンダン、ランソン、ハジャン等の攻略戦のほか、日本軍各部隊は、ダップコウ、セッパコード、トンキン湾を臨む地区の各堡塁、さらにドウソン砲台その他で、すべて戦禍を挙げたが、重要なことは、度の戦いでも、安南兵の捕虜を「君達は安南独立のために働かねばならぬ、安南の自立と成功を祈る」と訓示して、解放したことである。安南兵達は、「カム・オン・ジャイ・フォング(解放ありがとう」)と感謝の言葉を残して帰路に就いている。」            
                      伊藤桂一氏『鎮南関をめざして 北部仏印進駐戦』

『陸軍特殊工作部隊安(やす)部隊の投降・帰順の勧誘など事前切り崩し』  
  → 「夜半頃になって、第21師団の特務機関員と、日本軍に協力していた安南独立の党員が、竹籠に米の握り飯を入れ、バケツに塩と油で炒めた漬物などを運んで来てくれた。中隊は、かれらの挺身援助に深く感動し、勇気を新たにした。」 ハコイ陣地激戦地 長友家雄(当時第三分隊長・兵長)
            『鎮南関をめざして 北部仏印進駐戦』

『土橋司令官の回想録』
  → 土橋弘道氏編『軍服生活四十年の想出』(1985)

『呉廷琰は、以前大臣としてバオダイ帝の下で執務をしていた』
  → 「1930年と1931年、州知事だった頃と1933年、内務大臣のとき、フランスの人民戦線政府成立に呼応して、コミュニズムが勢力を持ったとき、バオダイの無能に愛想をつかして辞任したといわれる。」
                『ベトナム1945』

『揚伯卓(ズェン・バ・チャック)』
  → 『明号作戦』終了後、日本軍の庇護下のシンガポールから、陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏と共にサイゴンに戻ったと、神谷美保子氏の『ベトナム1945』にありましたので、色々調べてしましたら、『安南民族運動史概説』にお名前を見つけました。。。探していた人を発見した時は、やはり嬉しいです。。。
 「総督府の手は越南人のあらゆる社会層に伸びた。越南文人の言を借りれば、「越南史上未曾有の惨虐な取締が行われた。(中略)広南生まれの陳季合(チャン・クイ・カップ)、乂静(ゲティン)の陳恪立(チャン・カック・ラップ)。揚伯卓(ズオン・バ・チャック)、潘周禎(ファン・チュ・チン)など著名の文人80名も極刑に処せられ、崑崙島(=コンダオ島)に流刑となった。」         『安南民族運動史概説』

 流刑後どうしたのか経過は判りませんが、明号作戦の直前には、同じ文人仲間のチャン・チョン・キム氏と共に、日本軍の庇護でシンガポールに避難していた、。。ということかと思います。

『クオンデ候帰国と新政権樹立を頑固に阻んだのも、また「日本」』  
  → 各方面の関連資料を読んでいくと、この時の日本は、決して一枚岩ではなかったことが判ります。それは、明号作戦後に突如現れたものではなく、仏印進駐以前から存在していたように思えます。
 北部仏印進駐が決定した1940年9月7日、鎮南関で「森本中佐鎮南関付近越境事件」という奇妙な事件が発生して外交問題にされたり、その事件に対する大本営の不可解な処分のことは、第五師団の中村師団長は、当時の陸軍次官に一文書を寄せています。
 「動機、原因極めて単純なりしも、老獪なる仏印外交に乗ぜられ波及する所大なりしは、小官等の恐懼する所なり」
 この頃の北部仏印進駐戦では、命令がないからという理由を以て、友軍への協力を拒否したりなど、色々あったようです。。。このように、戦場に於いても、派閥争いや嫉妬が依然として存在しているのですから、平和な平時の私達の身の回り、特に会社組織などでは本当に不条理なことが日常的に起こる筈ですよね。。。

『北京でソビエト駐華大使と面会』
  → 日本からの援助に早々と見切りをつけたファン・ボイ・チャウでしたが、主な活動を杭州に置き、休むことなく各地を回って祖国解放運動を続けました。その頃、俄かに頭角を現して来ていた共産主義についても、探りを入れるべく行動していたことを自身の自伝『自判』に書いています。
 「1920年11月に東京滞在中に、彼は「赤色ロシアの社会共産党は、多くの党員を中国に送り込み、北京は赤化の大本営、北京大学はその中心である」ということを聞いた。そこで、日本人布施辰治の『ロシアの真相調査』という著書を買って精読、これを漢訳して上下二巻に纏めた。(中略)北京に着いた彼は、まず北京大学に校長の蔡元培を訪ね、彼の紹介によってロシア労農政府中国派遣団長某、赤露(ソビエト社会主義政権)の駐華大使カラハン(中略)を知った。これが潘とソビエトとの直接交渉の初めであった。」   
                       『潘佩球伝』

『満鉄関係の会社』
  → 『大川周明 アジア独立の夢』の著者の玉居子精広氏は、戦中サイゴンにあった『南洋学院』のOBから、大川塾一期生で元大南公司副社長の西川寛生(本名:捨三郎)のことを聞いて、西川氏が亡くなる少し前(2005年頃)にインタビューをして資料を受け取ったそうです。このOBが、大川塾のことを『満鉄関係の会社』と表現する箇所があります。
 南洋学院とは、
 「戦時中昭和17~20年の三年半の間、仏領インドシナのサイゴンにあった学校。文部省・外務省共管、公費の旧高専校」です。
                 『南洋学院』より

『陸軍省の岩畔豪雄大佐』
  → 「当時は陸軍省軍務局局長。『陸軍中野学校』の創設にも関わった人物」でした。        『大川周明 アジア独立の夢』

『外務省の白鳥敏夫』
 当時の外務省『革新派』と呼ばれた若手外交官でした。在イタリア大使も務めた、親イタリアの人物として知られていました。
 「枢軸派の領袖であった白鳥敏夫は、道義と精神性を追求する「皇道外交」を唱えた。」        『大川周明 アジア独立の夢』

 極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯指名を受けます。外務省の刷新・変革を唱えた当時の気鋭若手外交官の集まり『外務省革新派』のリーダーは『皇道主義』を標榜していたんですね。。。

『語学講師は皆当代随一の専門家』
  →「例えばフランス語は『コンサイス仏和辞典』の編者として知られる丸山順太郎。ペルシャ語では東京外国語専門学校教授の蒲生禮一。後年コーランの翻訳でイスラム研究者として名を成す井筒俊彦など。」
          『大川周明 アジア独立の夢』

 1938年5月開講の大川塾第一期生は、たったの20名でした。入学したのは、地方中学出身者ばかり。それなのに、語学講師陣の豪華なこと。。ビックリです。。。

『山本政義少尉』
  →大川塾の講師の一人だった山本少尉ですが、大川塾では、「仏印事情」という講義を担当していたそうです。「対ビルマ諜略工作を担った「南機関」メンバー。中野学校出身」だそうです。         
 山本少尉以外にも、「当時タイ駐在の陸軍武官。ハワイ生まれの日系二世で、陸士・陸大を出たエリートで、若いころはフィリピンに滞在、現地調査にあたるなどしていた」田村浩大佐や、当時陸軍内随一の中国通で知られた田中隆吉大佐が大川塾で諜報活動に関する講義を担当したそうです。
             『大川周明 アジア独立の夢』

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(18)|何祐子|note
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note







 
 









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