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認識主体の範囲拡大

認識主体の範囲拡大という言葉がGCにとって大切な指針になっています。

コロナの事を考えるときに、今一度深く考えるべき内容だと思いますので、この指針について、じっくりと論じてみようというのが、この文章の趣旨です。

まず、再度「認識」という言葉を辞書で調べてみました。

認識は基本的には哲学の概念で、主体あるいは主観が対象を明確に把握することを言う。

さて、

「認識主体とは」

自ら分けると書いて
「自分」です。

認識主体としての「自分」は、何を自ら分けるのでしょうか?

おなかの中に赤子を抱えている場合の認識主体とは?
コロナと戦う私たちの認識主体は?
チームの一員として試合に勝とうとしている時の認識主体は?
家族の一員として生活を守ろうという時の認識主体は?
日本人としての認識主体は?

人は、置かれた状況やその人の在り方によって、認識主体の範囲を変える事の出来る存在だと思っています。

そして、その範囲拡大をできるようになる事が、人間としての成熟だと考えています。

範囲の広さと、人生におけるテーマ
(範囲の拡大は正しさではない)


よく考えてみると、私たち人間は数多くの細胞の集合体です。
そして人が集まったものが、組織と呼ばれ
様々な組織が集まってが国になり
国が集まって人類です。

そして、生物全体、宇宙、3次元の世界と範囲は広がります。

集合体としての私たちは、より大きな集合の1要素として存在しています。

その前提を理解した上で世界を見渡してみると、
認識主体を
「個人」に設定して生きている人
「家族」に設定して生きている人
「集団」に設定して生きている人
「時間を超えて未来」に設定して生きている人

様々な多様な人が同居している事に気付きます。

認識主体を「人類」に設定して考えてみると、その多様性は個人の細胞、臓器が役割を持つように、人類全体にとっての役割分担のように思います。

個人の豊かさ、国の豊かさを考え、経済を発展する役割の人
家族や仲間を認識主体にして、人のつながりを確認しようとする人
未来に意志を引き継ぐことで時代を超えたサスティナビリティを考える人

全ての人に人生の意味と役割があると考えるなら、その人の今の人生のテーマともいうべき事象は、その人の認識主体の範囲によって定義されていると思っています。


発達段階と認識主体の範囲の関係
~GCの挑戦~


株式会社という「経済行動」を中心にした組織における、リーダーという役割はどんな存在でしょうか?
リーダーとは最も認識主体の範囲が広い人間ではないかというのがGCの仮説です。
自分の損得だけを考える人間よりも、チーム全体の事を考える人間
チームだけの事を考える人間よりも、会社全体の事を考える人間
会社だけの事を考える人間よりも、顧客や取引先の事を考える人間
人類全体や未来の事を認識主体として持てる人間が、認識の範囲が広い人間がリーダーとしての役割に相応しいのではないかと考えています。

この考え方をロバートキーガン博士の成人発達理論を参考に、認識の段階を測定できるアセスメントの仕組みを社内で運用しています。

GCの評価システムの基本的な考え方は、認識主体の範囲が広い(成人発達段階が高い)人間が高い評価を得る仕組みになっています。


現在の日本の教育システムは、「個人」として勉強や、運動の相対評価のレッテルを張られます。
GCの新入社員も、入社当初は認識が「個人」としての意識で入社してくる事がほとんどです。

GCでは、哲学的な教育プログラム、認識を意識してもらうプログラムを提供する事で、「個人」に置いている認識を少しずつ変容させていってもらいます。

メンバー全員が、チーム全体の認識主体になった時、相互に尊敬と信頼と助け合いが起きる事になります。

全員が会社全体の認識主体になれば、こんなに強い会社はないのではないでしょうか?
実は全員が会社と認識主体を合わせた時、相互の信頼、助け合いによって全体の成果が高まるだけでなく、1人1人の幸福度も同時に実現できると考えています。


社外 さらに認識主体を広げるためにつながる


認識主体を広げる事で、助け合い、一人一人の幸福を実現できるようになったという実感を持ったGCでは、さらに人の集合である「GCという会社」というという閉じた認識主体をさらに広げる事ができないか?と考えています。

「組織の境界を溶かす」

家族や、組織という存在の求心力を高める事で部分最適、全体としては不適というのは人の集まりで常に起きる事だと思います。

GCという範囲に認識主体を閉じてしまう事で、社会にとっては
「部分最適」になってしまいかねません。

一定の、認識主体の拡大が進んだ今、GCという枠組みをさらに広げるために何ができるのか?どうしたら良いのか?が、私の一番の興味関心事になっています。

認識主体範囲の違いによる、理解の分断

長年、認識主体の範囲を拡大しようとの取り組みをしてきた我々にとって、重要な発見があります。それは、その人の経験した事のない認識主体の範囲について、人は理解ができないという事です。

自分個人に認識主体を置き、まわりはライバルだと教えられてきた人間にとって、ライバルだと思っていたクラスメイトが成功する事が自分の幸福だと感じる事は困難です。

哲学的にあるいは体験的に、認識主体の拡大が意味のある事だと理解し、日常の小さな出来事の中で、自らの心を顧み、トレーニングする事が必要です。

個人<チーム<仲間<社会<未来
と範囲が異なる事によって、同様に理解不能が発生します。

すなわち、認識主体には違いがあり、自らの認識主体の常識で人を評価する事はできないはずです。

認識主体を評価基準にしている弊社では、その範囲の広い人間がどうしても「正義」として、違う認識主体の「正解」になってしまいがちです。

認識主体が狭い段階では、広い人間が発する思想の大前提が異なる事で、全く理解ができないという事もしばしばおきます。

人類全体の未来という認識主体を持っている人間の発想は、会社の利益という認識主体では理解できないのです。

しかし、広い範囲を理解しているものは、狭い範囲に寄り添うことはできます。


コロナでハラリ氏が伝えようとしている事。

コロナに対して『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ氏が、FINANCIAL TIMESに寄稿した。


国という認識主体を超えて、人類という認識主体にならないとコロナに負けてしまいますよ。という内容だと理解しています。
残念ながら、いまだにWHOも含めた「国益」の戦いの様相を感じてしまうのは私だけではないと思います。

国の経済発展という認識から、コロナも含めた生態系、地球全般の一部としての認識主体に人類がバージョンアップを求められているような気がしてなりません。

そして、実はその意識変容は私たち自身に問われているのだと思います。
買い占めに走るのか?
みんなで協力をするのか?

その積み重ねが新しい時代の方向を決めるのだと思います。

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