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4月某日 体調がよろしくない私vs言語化したい私

 すこぶる調子が悪いときは詩がよく効く。歌詞も良い。感情がのせられていない言葉の羅列が脳の隙間に入り込み、じくじくとした痛みが楽になる。

 夢からなかなか離れられずに、思考からも抜け出せず、頭痛とだるさに悩まされる日々が続いた週だった。
 きっと、月のものと低気圧と日頃の不摂生が重なった結果だ。こういうときは寝ているに限るのだが、寝過ぎると眠れず頭ばかりが重くなる。
 少し調子に乗って語学の勉強をすれば、集中しすぎて目がくらむ。お腹が減ったことにも気づかないまま、顔の火照りと手の震えでようやく何かしらを摂取する。
 脳はショートするまで回り続け、ひどい痛みによって思考はゼロになる。思考するのが当たり前になっている私にとって、この瞬間が一番つらい。何がしたいかもわからずに暗闇の中でただ頭の痛みだけを感じている。
 涙が出るのは良い方だ。感情の発露によって多少は頭が軽くなる。泣けそうなときは存分に泣く。澱は出しておくに限る。

 考えてしまう人もいるということが最近わかったよ、と夫が言った。そう、私にとって思考は勝手に回り始めるもので、がんばってひねりだすようなものではない。それが言葉となって顕れるのも、ごく自然なことだ。むしろそれしかできない、といっていい。
 発語することはまた違う問題で、私はそれがとても苦手だ。書くことと話すことは、別の言語と同じように能力を区別してほしい。
 声による意思疎通のしにくさは、人によるのだろうか。私は声を音として聞き取ることはできるのだが、意味を読み取ることがちょっと苦手だ。残す残さないに関わらず、発された言葉を書き取る行為をしないと耳を素通りしていってしまう。特に初めて聞く事柄については、そうだ。文字にしてからでないと理解できない。文字化したときに言外のニュアンスを度外視することが多くて、よく失敗してしまう。
 逆に、文字による文章の行間を読むのは得意だ。読みすぎて失敗することもある。言葉を見るとつい、考えてしまうのだ。それが癖になっている。
 仕事で忙しいとき、考える前に体が動くという経験をしたことがある。効率的にいえばいいことだが、私はそのときまるで死んでいるような気分になった。とても長くは続けていられない、と思った。
 考えないことは可能だ。しかし、その状態が続くと不調を起こす。
 生活に影響するほど考えすぎず、生活できないほど考えなさすぎず。ほどほどが理想なのに、なかなかうまくいかない今現在なのであった。

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