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個人が本能に従うほど社会全体の幸福度は低下する

ぼーっとスマホを眺めていると、Xで興味深いポストを見つけた。

要約すると、
(1)学生時代、運動部に入っていなかった男はモテないからヤバい
(2)女は競争に打ち勝った男が好き
とのことである。

実際にそうあるべきかは別として、言っていることは完全に事実である。
(1)に関して、男社会は競争社会である。
筆者の周りでは、小学校の頃は足の速さ、中学校の頃は頭の良さ、高校では顔の良さで男子がランク付けされた。
社会に出てからは金や権力でランク付けされるのだろう。
つまるところ、男社会は競争社会なのである。
そして、(2)に関して、男がモテようとするならば、周りの男を凌駕して競争を勝ち抜かねばならないのである。

男社会が競争社会ならば、女社会は封建社会だろう。
モテる女性は必然的に容姿が優れている。
女社会には男社会のような熾烈な競争こそ存在しないものの、生まれ持った容姿で、モテるかどうかの大部分が決定されてしまうのである。
一般に、男は容姿の優れた女を好み、女は権力を持つ男を好むことが証左である。

資本主義において人々は実力次第で地位を勝ち取るができる一方で、封建社会において実力がいくらあったとしても生まれ持った身分で地位が固定される。
逆に、封建社会においてヒエラルキーは身分で固定されているから競争が存在しない一方で、資本主義においては必然的に競争を強いられて、競争に負ければ負け犬の烙印を押される。
ここに男女の生きづらさの違いがあるのだ。

男社会を競争社会、女社会を封建社会たらしめるのは、男女の本能である。
男性の闘争本能と女性の母性本能とは、相互補完的な関係にある。
男が戦ってそれを後方で女が支えるという構図である。
つまり、家父長制というのは男女の「本能」に従った結果、必然であったというわけである。
たとえば、スポーツで活躍する男子を見て女子がキャーキャー言うとか、表で活躍する男子選手を裏で女子マネージャーが支えるとか、そういうよく見られた光景はまさに男女の本能に基づくものであったのだ。

我々の本能に基づいた生産様式が資本主義である。
資本主義によって我々の生存本能が完全に満たされたかのように思えた。
資本主義の恩恵を受ける先進国の我々は、腹が減ればファストフード店に出向いて簡単に腹を満たせるし、ムラムラすれば簡単にポルノにアクセスできるからだ。
しかし、資本主義は、少なくとも人間の「生殖」という根本的な部分においては、我々の本能を満たさなかったのである。
もっとモテたい、より良い結婚相手(≒生殖相手)を見つけたいという人間の底知れぬ本能によって人間が不幸になっていき、持つ者と持たざる者との格差は徐々に拡大していく。
我々をより不幸にさせるのが資本主義であったのだ。

「本能」を「理性」に置き換えて、こうした男女の生きづらさを解決しようとした試みが社会主義であった。
「理性」で男の闘争本能と女の母性本能を否定し、男女が平等で生きやすい社会を作ろうとしたのである。
ソ連で始まったこの試みは失敗に終わったが、リベラルの主張するところの「ジェンダー平等」というカタチで、今もなおその思想は残っている。
格差が拡大し続けるこの世の中において、これ以上、我々が不幸にならないためには「理性」を獲得するほかないのだろう。

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