エレキテルの構造図

平賀源内とエレキテル

エレキテル、なんともインパクトのある名前ですね。
平賀源内の代名詞と言っても過言ではないでしょう。
教科書に載っている写真とともに覚えている方も多いと思います。
エレキテルは日本の電気学の始まりを示す重要なものです。
でも、平賀源内とは何者なのでしょうか?
植物学、地質学など様々な学問に精通し、
油絵や陶芸、浄瑠璃の脚本もやっています。
しかも、その何れもが後世の学問や芸術に影響を与えています。
マルチタレントですね。

  平賀源内(源内の没後に描かれたもの。Wikipedia)

平賀源内は1728年、高松藩士の三男として生まれます。
好奇心旺盛で頭の良かった源内は11才のとき、からくり掛軸「おみき天神」を作ります。
お酒の入った徳利(とっくり)を掛け軸の前に置くと、掛け軸の天神様の頬が赤くなるというものでした。
それが評判となり、13才のときに藩医の元で本草学(医薬に関する学問)や儒学を学びます。
そして21才の時に父が亡くなると家督を継ぎ、平賀性を名乗ります。
その後、長崎に行く機会が有り、そこでオランダ語や輸入品に触れ、その好奇心に火が付きます。このとき、源内24才。
もっと自由に行動して色んな物や芸術品に触れ、自身も創作したい。
そのためには家から出なければ......

なんと、妹に婿養子を取らせて平賀家の後を継がせてしまいます。
そして、仕えていた高松藩も辞めます(高松藩は源内に残って欲しくて、何度か引き留めようとしたそうです。)。

自由になった源内は、鉱山開発や精錬技術を学んだり、陶芸(源内焼)や俳諧、油絵、人形浄瑠璃の脚本作成、燃えない布「火浣布(石綿を使用)」の作製など、大活躍します。現在のコピーライターのようなこともやって報酬を受け取っており、源内の多才さには驚かされます。

源内焼(神戸市立博物館HP : http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/326.html)

火浣布(江戸ガイド:https://edo-g.com/blog/2016/08/gennai_hiraga.html/gennai_hiraga6_m)

西洋婦人図(油絵、神戸市立博物館HP:http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/702.html)

源内は二度目の長崎遊学の際、オランダから輸入されたエレキテルを見つけます。
しかし、そのエレキテルは壊れていました。
説明書も何も無い。
源内はエレキテルを持ち帰り、見よう見まねで復元を試みます。
そして、約7年の歳月をかけ、当時の日本で入手可能な材料で復元に成功します。

   エレキテル(複製、国立科学博物館、Wikipedia)

源内の復元したエレキテルは下の絵のような構造でした。

木製の回転車を回すと、回転瓶が回転して枕(綿などを詰めた革)と摩擦し、静電気が発生します。プラスの電荷が集電用の鎖と櫛(銅製)を伝って蓄電瓶(いわゆるライデン瓶)に集められます。瓶の中には鉄くずが入っています。一方、マイナスの電荷は枕を支えている鉄板を伝って地面に逃げていきます。ここで、銅線の先の方に指を近づけると「バチ」と音がして火花放電が起こります。人は地面にアースしている状態なので、銅線に近づくと放電が起こるわけです。源内は、大人数が手をつないだ状態でエレキテルに触れさせ、多くの人を驚かせました。

源内は電気学の知識を持っていたのでしょうか?
実は、エレキテルの原理について、陰陽論や仏教の一元論で説明しています。
つまり、科学的な知識無しに復元した可能性が高いと考えられます。

海外の情報を得難い状況だった当時の日本。
しかも、今と違って情報媒体も限られています。
必要な材料を探して集めるのも大変です。
そんな中で、説明書も何も無いのにエレキテルを復元したのですから、驚きです。

エレキテルは静電気を発生させ、電荷を集めて放電させる装置です。
でも、静電気を意のままに操作するのは今でも簡単ではありません。
7年の歳月を要したのも無理もありません。

様々な事に興味を持ち、見るだけでなく自ら手を動かして創作した平賀源内。
専門知識無しにエレキテルを復元できたのは、幅広い知見と旺盛な好奇心を持った彼だから出来た事だと思います。

現存するエレキテルは、
「東京都墨田区の郵政博物館」
「香川県さぬき市の平賀源内先生遺品館(蓄電瓶が無い)」

複製されたものが
「東京上野の国立科学博物館」
にあるので、興味がある方は見に行ってみて下さい。

源内は常にお金に困っていて、エレキテルも起死回生を狙ったものでした。
しかし、江戸で一時的に話題になるものの、長続きしませんでした。

エレキテルの復元に成功した3年後、
源内はふとした勘違いから人を殺傷してしまい、投獄されます。
その年の暮れに獄中で病死し、51年の生涯を閉じました。

「解体新書」を翻訳した親友の杉田玄白は、源内の死を惜しみ、墓碑に以下のように記しています。

「ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常なり、何ぞ非常に死するや」
訳:あなたは常識から外れた人、常識から外れたものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは普通に死んで欲しかった。

源内は十数台のエレキテルを職人に作らせており、それが日本の電気学をスタートさせるきっかけになります。
源内が亡くなって8年後、エレキテルの構造が初めて詳細に解説されました。しかし、具体的に何が起きているかは分かっていませんでした。
蘭学者の大槻玄沢(前野良沢、杉田玄白から蘭学を学び、名前はこの二人から一字ずつもらっている)は「怪しい物」として単なる見世物となっていたエレキテルを「怪しいものではない」と説きました

                    大槻玄沢(Wikipedia)

この玄沢の元に、後に日本の電気学研究の祖と呼ばれる橋本宗吉が訪れます。
並外れた記憶力であっという間にオランダ語をマスターした宗吉は
蘭学書から医学、天文学、西洋科学を学びます。
自らが設立した蘭学塾が軌道に乗ると、子供の頃から興味のあったエレキテルの研究に取り組みます。
エレキテルで行った実験や、電気の原理に触れた蘭学書をまとめた「阿蘭陀始制(おらんだしせい)エレキテル究理原」を記します。

                 橋本宗吉(Wikipedia)

その本には宗吉の行った様々な実験が図解されており、エレキテルも源内のものより発電し易いように改良が施されています。
まだ静電気についてよく分かっていないものの、なんとか論理的に説明しようと試行錯誤を繰り返したことが著書から分かります。

寺子屋で行った百人おどしの絵(沢山の人が手を繋ぎ、静電気で感電させる実験 Wikipedia)

幕末になると、電池やコイルを使用した電気治療器が電気学の主役になり、僅かな電力を発生するだけのエレキテルは見向きもされなくなります。
しかし、個人研究で試行錯誤されたエレキテルが多くの人の興味を引き、日本の電気学が始まるきっかけを作ったのは疑いようがないと思います。

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