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【73歳父の小説】グランパドドゥ

73歳になる父親が小説を書いている。
仕事は飛行機の整備士だったのだけど、定年後も宅検に合格したり、旅行業務取扱管理者という資格も取った。
再就職に必要だからというわけではない。

ちょこちょこいろんな賞に応募したりしているようだが、なかなか多くの人に読まれていないようなので、せっかくなので私がnoteに置いてあげることにした。


「グランパドドウ」 ポール守谷(著)

三十年も連れ添ったの夫 仁科長束が突然なくなり

その夫の死を目の前にして母が受けたショックの大きさは「大変だったわねえ、分りますよ、その辛さ。」など他人の簡単なお悔やみの言葉程度で到底理解してもらえるようなものではないくらい深く深刻で。
小柄な母の体ですべてを受け止めるには大きすぎる出来事であった。
母は毎日ほとんど横になっていて、家事も自分の身の回りのことをするのもままならない状態で、ほとんど再起不能なほど衝撃を受けている。
今までに見たことの無い程やつれて、急に歳をとってしまった様に見える。
額のしわが深い。
もう連れ合いがこの世にいないのだから。
三十年も連れ添った夫だったが。
そう夫仁科長束は六十四歳で急性脳溢血で逝去。若い、若すぎる。
いろいろしたい事、自分でも、また夫婦でも有ったろうに。

 

嵯峨野線で京都から三十分も下ると

保津川沿いを中心に並岡市が広がり。
その西のはずれの奥まった所に亀河町はある。
人口の多い町だ。ここの阿北地区に父の親の実家があり、父はここの高校を出てすぐ農協に入り、一筋四十年勤務して、そのまじめさを買われて再雇用で是非と言われて、退職後もぶらぶらしてても仕方ないというので、少しでも役立つようにならと、その後も同じ職場に週三、四日ほどは出ていたのだが。
その勤務中での突然の出来事だった。
春浅い三月初め、まだまだ朝寒い。
雪も降ることもある時期だ。
その日の朝も前日も、特別頭が痛いとか、ふらふらするとかと言うことは無かった。
その日の朝は、普段通り、朝ご飯を普通に食べて元気よく、職場に車で出かけている。
母さんまだ寒いから、外出るときゃあえり巻きしてネッカチーフ被って行かんきゃあ、風邪ぶり返して大病になるで。
そうすりゃあ楽しみの婦人会集まりにもも出れなくなるぞ。
長も気を付けて、まだ道路凍ってるとこもあるからなあ。
ありがとう父ちゃん、父ちゃんこそ気を付けて。
普段の朝の出社風景で、強いて言えば父がいつもより母へも自分へも気を使ってくれて、優しい言葉をかけてもらえたくらいだが。
全く普段のそのままの風景の中に皆いてそのまま時間がゆっくりと静かに流れていた、いつものように。
そこまでは。
六十過ぎたら、脳ドックを受けましょう。心臓ドックもを受けましょう、と言われていることは知ってはいたのだが、一度も大きな病気はないのが自慢の父なので、予想だもしていない今回の突然の死。

 

車を駐車場に止める時、父の車が斜めに止まったままで

車庫に入り切れずにいたのが、後から車で出社してきた同僚の職員が、不審に思ってくれて。
車の運転席を覗くと父がハンドルに頭をつけて、両肩は垂れたまま動かないでいたそうだ。
すぐ救急車で隣の飯畑市の市立病院救急救命に運ばれて適切な処置は取られたというが、誠に残念の極みであるが間に合わなかった。
父が救急車で運ばれる時自分はまだ家で出社の準備をしていて、農協から電話が来て、母が慌てて飛んできて、今運ばれてると告下られたということで、自分と母は即車で飯畑市立病院に向かった。
が、間に合わなかった。
朝、元気で出かけたのに、その日の午前中に亡くなるという、急すぎる、予期せぬ不幸に見舞われた母にとり、耐えられ無い程のショックを受けたのは無理もない事だ。
子の自分も同じだ。
が、母の方が比べ物にならない程辛いだろう。最愛の連れ合いが亡くなりこの世の中から居なくなるのだから。

 

子は自分一人で、仁科長親 三十四歳男独身。

隣りの飯畑市にある県立飯畑一高を卒業後、今の並岡精機製作所に勤めて、十五年になる。
立地条件の良さでの精密工業の工場群が確実に伸びてきて、大手の家電メーカーにも近い事からその関連の優良企業が林立している。
並岡精機もその一つで、家電製品の部品を主に作っている。
親元から通勤して、車で三十分のところだ。
母は仁科甲斐子、井安生命保険会社の外交員をしていて、父の勤める農協の箕の根支所にも勧誘に来てたそうで、父とそこで知りあったとよく話していた。
母は、隣の上伊駒市の出身で地元の伊駒女子高を出て、すぐ井安生命保険会社に入ったのだ。

 

夫婦は仲睦まじく過ごし、その家庭は贅沢を知らないごく質素な生活を守る家庭だった。

もうどうやったって父ちゃんは戻ってこねえんだ、これから先は自分一人で生きてゆかねばならないんだという現実を良くも悪くも見つめて、それを今すぐは無理としてもやがては少しずつ受け入れて、それに適応する形で変わってゆかねばならないのであるが、それを考え始めるとすぐに
「悲しい自分は、一人になった、だあれもいない、だあれも助けてくれない、自分は孤独だ、どうしたらいいんだ、どうしようもない、やだやだ、こんなのやだ、わーっ。」
と大泣きになるのがいつもの事で
「お父さんどうして、私一人残して死んでしまったの。なんでどうして自分一人で早々と、妻の私を残して。お願い迎えに来て、今すぐ、お父さーん。」
と最後はないものねだりを延々と尽きることなく、仏壇の父の位牌に向かいお願いしている。
と言うよりはぶつぶつと言ッているという方が正しい表現かもしれない。
もう小一時間はそうしている。

 

父の急逝で

葬儀の手配、関係者への連絡、父名義の預金関係の凍結解除の手つずき、遺産相続手続きなど山ほどある仕事を喪主母の代理として、取り仕切ったのは自分だった。
母は見る影もないほどやつれ、目はうつろで、顔色に生気がなく土色をしていて、話しかけても反応が鈍く、動作は緩慢である。

 外には出ることを嫌がり、人に会うのも極端に嫌う。
そして母の気持ちは沈み、外に出られず、引きこもるようになる。
髪は艶がなくぼうぼうのまま。
食欲はなく唇には吹き出物の花が咲くほどで、内臓の働きの劣っている事を如実に示している。
口数もめっきり減り、自分から何か言ってくることがなくて。
聞いてもまともな返事が来ない。
あーっ、ウーっ、と意味の無い短音だけを発するだけだ。
一日中布団の中で寝たり起きたり、と思うと昼なのの急に雨戸閉めてみて、もう暗くなるからと言う。まだ昼前だ。そんな生活が毎日だ。
自分としては、他人様に迷惑にならない行動なら母のするがままにしといてあげようということにした。
カンカン照りの午前中に雨戸閉めてもどなた様も文句言われる方はいないのが幸いだが。

 

毎日父の墓前でお線香をあげる

すると、仏壇の前に座り、あくことなく位牌を見ている。それが一時間以上も続ずくのだ。父との対面出来て心が一番安らぐ大切な時間なのだろう。

 夫はもういない、亡くなってしまったのだ、この世にはもういない、と言う現実を、なかなか受け入れられないでいる。
それを完全に受け言えることは難しいとは思うのだが、また時間もかかるだろうことは容易に察しが付くので、奇妙に見える母の行動を今は暖かく見守ろうと頑張っては見るが、それも自分の精神が健全の時で、仕事でのトラブルでストレスのかかっているときは気持ちに余裕ができず、ついつい母のその手のふるまいは自分からしたら非日常的な行動と映り、イライラのもとになる。

もう父と話もできない、もちろんあのしわしわの笑顔も見れない。
毎日用意したお昼のお弁当も作って上げられない。
一緒に連れ立って買い物にも行けない。
「父と、---する。」という事が無くなるということだ、全ての、母と自分の生活に於いて。

早すぎる別れ

まだそんなことを想像もできないような、若さでの他界だ。
母は父とともに過ごす事に、自らの生きる価値、存在価値を見出してきた。
父の現役の時はもちろん、退職後も、自分が小さいときから見続けてきた、仲睦まじく静かで穏やかな二人の毎日、が昨日まで続いていたのだ。
父を立て自分は裏に回り、そっと支えるという典型的な古風の人だ。
だからその大黒柱を失って、頼るものを失い、これからの進路を失い、心には大きく修復不可能なような、巨大な空洞ができてしまい、母は抜け殻の様になってしまっている。
ややもすると、大切にして残しておいた父との膨大な量の思い出も、容易にその空洞から、流失させられてしまっているのか、すでに。
そして、それを必死に食い止め様と、もがいているのかもしれない。
ひどく骨が折れることであろうが。
母はまだ六十歳少し過ぎ。
あと少なくとも三十年は、一人で楽しく父の分まで過ごす時間がある。再婚という選択肢も幸せのためなら、大いに有力である。
自分も反対ではない、母が望めば。
過去の父とのいい時の事を思い出してみると、今その父のいないことを強く認識することになり。
あの時はよかった、あの頃は良かった、と思う一方で、今はその夫はいないんだ、もう居ない。悲しい、寂しい。あーあっ、だめ、もうダメダメ。何もできない。もうイヤイヤ。もう生きてるの、イヤ、という負のスパイラルに容易に陥るストーリー転回が待つ先の闇にはまり込む事は、意識して避けねばならない。

熟年の夫婦ずれを見ても自分もちょっと前まで夫がいた。
一緒に笑い、泣き、歩いた。
が、もう今はいない、悲しい、やだやだ、と言うロジックがすぐ構成されやすいので、それも避けよう。

 

忘れるなんてこと出来ない

し、なにも忘れてしまえるはずがないし、そうすべきことではない。
ずっと心の中で、いつまでも大事にしまっておくべきものだから、二人で一時代を共に生きた証なのだから。

 二人で歩んできた過去は、確かな真実が刻まれている。
幸いにして不好な事実は、自分で消し去ることも忘れることもできる。
自分で選択ができるのだ。

 良い事だけ残し思い出せばよい。過去の事実は何時でも安心して振り返えることができ、安心して浸かっていられる。
不安がない。
今の母には、やさしい過去にどっぷりと浸かり、心の疲れを癒す事が必要だろう。
柔らかく温かい真綿のお布団のような中で、心置きなく安らぎの時を過ごせばよい。

 慌てて現実を認識しようとして、早く未来に目を向けて、今の状態からはすぐに立ち直らなくてもいいんで。時間はいっぱいあるから。

立ち直るというが現実は一人,未来も一人、今後来る未来には過去ほど心ときめき輝くような出来事が起こる事はまあない。
予測できる終局は、無に帰すこと。
これは誰でも容易に理解できる事だろう。

 

ならば、夫との楽しい思い出の過去にいようよ。

そこにいても誰に迷惑かけるわけでもなく、明日の事をお思いあぐねなくてもじっとしてても、陽は上り、何もしないでも明日は来る。
少々蓄えがあれば米を買い、飯を炊いて食えば未来の希望の味はしないものの、腹は膨れ幸せな気分でいられる。
そこでまた過去に浸れる。
それでいいのではないか、当分の間は。 父の亡き後は、憔悴しきった母の姿を見るに忍びなく、自分のほとんどの時間、会社に行く以外の、を費やして母を慰め元気付けることに、専念せざるを得なかった。
母のたのしかった父との思い出。
母の青春時代や父と出会い結婚したころの事を意識して、聞いてみる。
子、長親ー自分だがーが誕生した時の喜び様子も。
母が容易に思い出しやすくするために、呼び水を注ぐ。
注意しなくてはならないことは、ひとつの思いでを深く思い出させないこと。
深くなると感情注入が異常に激しくなり、逆効果で楽しかったと思う感情よりも、それ以上にあの時楽しかったのに今はそうでない、今は悲しい、これからこの悲しみと生きてゆけるか、もうだめ生きられない、と感情の極みに到達する。
すると訪れるのは自暴自棄しか無い。泣き叫びわめくことも容易に想像される。
だからこのさじ加減に注意が必要だ。

 

父の退職祝いの旅行を母とプレゼントして、これが天橋立温泉。

父が温泉につかりながら「いい湯だなあ、いいとこだなあ。」としみじみ言ってたのを母と思い出す。「お疲れ様でした、父さん。」母の優しいねぎらいの言葉が、父の胸にしみこむ。「ありがとう。」目を細めて、父の顔がほころぶ。やがてくしゃくしゃになる。父もこれまでの共に歩んできてくれたことへの感謝と、大きな楽しみもないままの毎日なのに、母の明るい笑顔に励まされてたんだなあと、改めて気ずかされた感激のようなものがまざってのことだ。

 亀岡まで戻りそこから特急電車で乗り換えなしの便利さ、2時間ほどの快適な旅。日本三景。松島、宮島いずれも海に面している。

 府の北は海に面してても住む亀河は遠くて、豊かな水をたたえる保津川と深い山の中に住む三人ではあるが、今、目の当たりにしている宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる湾口砂州の美しい伸び。
成相寺からの眺めは絶好の眺望を誇り、その湯代で見たこともない景色に目を奪われてしまうのだ。
穏やかで、おおらかな海に松の並木が緩やかなカーブで伸びて。
もっとここに居て、ゆっくりしてゆきなよ、と言ってもらってる気がして。
全身が優しい真綿に包まれて行くような気がしていた。
この話は無口な父だが、事あるごとに繰り返し話していた。
本当に良かった、みんなで行けて。

 夏のお盆は、父の農協の売り出しが十五日のお昼過ぎまで続き、実質その日の夕方から我が家のお盆が始まる。
それまでの間に、母とでお墓の草刈りやお盆の花とり、カヤ狩りをする。
カヤは仏壇に飾る花や果物の敷物として編んで作る、よしずの小型版である。
実際編んでくれるのは父で十五日の午後、帰るとすぐにこれにとりかかりあっと言う間作ってしまう。
まずカヤの丈を60センチほどに揃えて切り、一本ずつ細い紐で編んで長さ90センチほどにまとめる。
これを仏壇の引き出しを伸ばしてこの上に敷く。
家の畑にたわわに実っているきゅうりとなす、ついでにトマトももいできて、井戸水をくみ上げて貯めたバケツに放り込んでおく。
きゅうりとなすは中くらので反った形のを選んで、更にトウモロコシのめしべを少し頂いて、そうめんのゆえたのと割りばしを用意して、お迎えの牛と馬をつくる。
めしべのひげはしっぽに、そうめんはたずな、箸は足だ。
父の手際が良く見るみるうちに出来上がる。
反ったきゅうりは馬が首をもたげた精悍さがあり、太めの丸いナスは力強い牛そのものだ。「父ちゃんいつもうまくできるんだねえ。」私は感心していつも父の出来栄えに満足して、「年季はいってもんねえ、父ちゃんは。」母も自分の事のように歓ぶ。ここでも和やかないい時が流れてゆく。
夕方5時で夕日と呼ぶには高すぎる太陽がぎらぎらと輝いている。
それにしてもこてえされねえほどの暑さだ。

  楽しい思い出、どこのうちでもあるような、特別なんということはない日常の一コマなんだけれど。しっかりと三人が主役で、各自の役をこなして名演技を披露しているように思えた。

 

町内の花火大会が農協の広場で15日の夜行われる。

その北側に小川が流れていて、丁度広場の端からその川に向けて花火を上げる。
中規模で30メートルも上がるかどうかの規模だけれど、楽しみだ。
父は例年その警護役に駆り出されていて、毎盆のこの日は夕飯後でかけるのだ。
冷えたビールも口にできず、帰りまでお預けだ。母手ずくりの盆のごちそうに、八百屋さんで求めた生きのいいお刺身が並んでいて。
先祖を迎えての夕げが始まる。が花火が7時半から始まるのでそそくさと駆け込んで食べて、もう6時半にはまだ夕方の明るい日があるうちに自転車で出かける。
阿北と背中に記された消防団のはっぴを着て。
自分と母もそのあと花火を見に行くのだが、もう大変な人出で広場の端のフエンスのあたりしか入れずだが打ち上げ花火はよく見えた。
が警備の父の姿は探せなかった。


 

目の前にはやがて保津川に合流する小川が流れている。

地域に恵を与えて流域の田畑を潤して。暖かくなるとこの川に出かけて水遊びをする。広くない川なで安心して遊んでいられる。うまく行けば川魚が取れたこともあった。また父はキノコ採りも上手で、本人も好きだった。五時終業で帰宅してもまだ明るい夏の頃。すぐ腰にびくをつけて山に向かう。勝手知ったるで。いつもの山であっという間に、シメジ、くりたけそれにマイナーだが食べれるというキノコを取り、僅か一時間足らずで引き揚げてくる。父の姿は山からの贈り物を届けてくれるサンタさんの気がした、季節的に少し早いが。 

秋の畑仕事も終わり収穫が終わると、楽しみはご苦労さんの慰労を名目に、隣の上伊駒市のデパートに出かける機会がくる。デパートなんて行く機会は普通はない。日用品は農協の鮮魚部生鮮品部の店で。あるいは町の商店街で間に合わせる。月賦制度があるので父の衣類も母のも大きなものはそれで購入できた。ただ普段の村では味わえない、見られない都会の雰囲気を味わい、慰労と憩いの一時を味わうために行くのが目的だ。普段見れない高級な衣類や買えないけれど、家具食器あらゆるもの、デパートに並んでいる高級高額商品は、見る者の大きな楽しみである。

 一階の高級化粧品売り場をゆっくりと見て通り、有名化粧品売り場のコーナーに何名もの美しいレデイたちがセールストークを上品に進めているのを楽しみ。奥は紳士レディーの洋服売り場。重厚で温かみのある内装の中に冬物の洋服が並ぶ。落ち着いた感じの女性係員が丁寧に対応している。目的は奥のエレベーターである、自分たちは。豪華な石造りのようなエレベータの乗り口。三基のエレベーターが稼働していて。エレベーターはここでしか乗ることのできない貴重な物。白い手袋で小さい帽子を髪につけたエレベーターガールの若い女性の案内で、最上階の食堂に向かう。この時が最高に楽しくエレベーターガールが超美人に見える瞬間だ。

 日曜日ということもあり食堂は大盛況で。特に見晴らしと日当たりの良い窓側は一杯になるのが早い。が、ラッキー、テーブル空きがあり。ここ、ここ。ここにしよう、良かった。外が見えるし温かいいや。暖房は十分効いていて。とんかつ、かつ丼、にぎり上、中。メニューの上から目を落として、大概下の方のカレーに至る。カツカレーでなくて。でも嬉しい。麺類だとシナそばか肉うどんとなる。これも好きなメニューだ。デザートは、ナシ。飲み物は冷たいお水。でもこれで充分ここに来た嬉しさは味わえいる。て三人とも幸せなひと時を存分に過ごせた。デパートに行き食堂でお昼食べたんだから。

 

冬を越して 春は山遠の桜。

小高い丘の城址公園を覆いつくす程の見事な桜。お花見弁当持って行くもよし、持たなくてもお店がたくさん出て居るので、そこであれこれ迷いながら選ぶも楽しい。

 寒い山里で暮らす人達は、春が待ち遠しくて、この山遠の桜を見て、この山郷にも確かに春が来てくれたことを素直に喜ぶのだ。近くで、こんな見事な桜の名所に恵まれて、先人達の守り続けてくれた努力の賜物と、ありがたく思っていた。

 子供のころも今も変わらず、お花見と言えばここが定番で。それほど近在では有名な桜の名所として、県内県外からそれこそおびただしい数の花見客が、観光バスで自家用車で、電車でと押し寄せてくるお花見の人気スポットだ。サクラの名所の山遠城址公園が。

 小さい頃地元の姫原山に伝わる夜叉姫の昔話を母がしてくれて良く聞かされた。止め蔵と言う小作の農家のうちに似ても似つかない可愛くて気立てのいい三津子姫と言うお嫁さんが来たことから、悲劇がはじまる。三津子姫は止めにはもちろん、しゅうとめにも村の人達にも優しくて、みんなに可愛がられて。何のとりえもない止めでさえ三津子姫のお陰で、今まで付き合いのない村の人とも話ができるようになり、毎日が楽しく送れるというおまけまでついた。ところが、しばらくしてしゅうとめがふとしたことから三津子姫に焼きもちを焼きはじめ。きっかけはしゅうとがが亡くなりその寂しさからと思われる。日に日にエスカレートする意地悪に、耐えきれず姫は姫原山―当時は原山とだけ呼ばれていたのだがーにこもりやがて夜叉となり、毎夜毎夜村に来ては人々を怖がらせていた。特に月の無い夜はその怖さが頂点に達し達した。 止めとしゅうとめは山に小さなほこらを立てて三津子姫の霊を祭り祈り続ずけたという。今でもほこらは守り続ずけられているし、その後原山はいつしか姫原山と呼ばれるように変わったそうだ。

 家族三人、決して豊かではなかったが、それで毎日の生活に著しく支障があったかというと、それは余り気にはならず感じなかった。というよりも、我が家は贅沢は出来ない家だぞという暗黙の決まりがあったので、また自分も母が毎月毎月やりくりする様子を見てその大変さを感じていたのでので、あそこに行きたいとか、あれが欲しい、あれかってとは決して言わないようにしていた。

 そういう点では、親子ともいい関係であったし母は明るく快活で、専業主婦プラス農作業でも中心的な存在だった。父も仕事の合間に畑仕事を手伝うのだが、主は母。日々食べる野菜は畑で賄えて、ナシやリンゴも家で食べる程度は取れた。家の裏手は畑で、農協から帰り、特に日の長い夏の夕方は必ず畑に向かう。たんぼは、無かった。母は米穀通帳を持ち、配給所でお米を買っていた。普通に当然にこのままのほんの小さな幸せが、父も母も子も長く続ずいて行くずーっとずっと続ずくと信じていたのだが、本当に先のことは解からないものだ。いろんな思い出が次々と巡り、過去と言う柔らかく温かい真綿にくるまれて、母の気持ちも緩やかになりつつはあり、元のようなほんわかとしたまあるい、穏やかで張りのある形に回復していっているようだ。

 思い出しては昔の幸せにしみじみと浸るのだが、母はこれから先の未来に興味が無い様だ。これから先と言っても、父の生前、そうこの前の元気な時までの思い出とともに生きるのだが、傍らには当然連れ合いはいない。毎日毎日確実に加齢してゆく。

 連れ合いのいないと言う、悲しく寂しい現実に戻ると、その落差が大きくて、母の回復中の心を、激しく揺さぶり、ずたずたにさせかねない不安定さも、十分残っているようだ。その激しさに自分でも驚き対応できず、ただおののいて耐えることができずに、打ちひしがれて余計悲しさ増すことがになる。だが、一周忌を迎えて、母もだいぶ今が見えるようになってきた。現実を受け入れ様とはしている、表面的にでも。過去はありがたいことに、経過する時間の作用で、少しずつ悲しみも喜びも、風化してくれるのでありがたい。特に悲しいことは風化が早く来てほしいと祈るのだが。過去の出来事で自分で嫌な事、都合悪いことは、誰に遠慮することなく、忘れ去る、無かったことにいとも簡単にすることが可能である。これが自分の、過去に対して持つ、嬉しい特権だ。イヤな事はどんどん忘れ、捨て去ること、これができる人のみこれからを生きることが容易になる。

 

少しずつ今の生活に、自分から進んでできるようになり始める。

朝起きて、できるだけ早く人通りの無い時間帯に、急いでその間に外を散歩する。すぐ近くで買い物をする、特にコンビニが良い、どちらも、近所の知り合いの人に会うのがまだ苦手のようで、どちらも知人に会う可能性が低いので、本人にとり良い。 できるだけ天気のいい休みの日は外に連れ出して、いい空気と優しいお日様の光を浴びるようにして。外では車が通り知らない人が街を歩き賑やかでいい。自分に直接hなしかけられたりすることがないのであんしんだし、賑やかな風景を見てると気持ちがなんだか高まり血が良くめぐるような気がする。気分が高まる、こんなことは久しぶりだ。しかし毎月命日が来るたびに、また父の死、葬儀が鮮やかに蘇えり、悲しみの底に容易に転落し這いあがれなくなる、しばらく。半月はかかる。

 また、お盆がやって来ると、父が戻るということで、母は安心してその間過ごしていて、元気を取り戻して。過ぎると先祖とともに父も戻り、母はやはり寂しそうだ。季節が秋に向かい朝夕、日が短くなり、ヒヤッとするほどの涼風がたつのも一因かもしれないが。

一年たち新盆も済み、今から先を見て暮らすよう、一歩踏み出そう、母さん。自分も母とともに、母の未来と「大切な自分の未来を考えて。」行きたい。自分も会社に入りもう十五年になり、十分中堅社員として働いていて。そろそろ身を固める意味でも、嫁さんでも欲しいなあと思う頃になる。周囲の同僚先輩たちは、まちまちで独り者もたくさんいる、女性も。嫁さんの事も大事だが、たまには自分の休みに自分の車でどこか出かけたり、旅行もしたい、同年代の子たちと同じように。嫁さん候補として自分なりに思っている娘も、居ないわけではなく。その時は母にも会ってもらわねばならず、是非先の見れる、かつての快活で明るい母に戻っていてほしい。

  母には、出来る限り外で、ほかの人と交わるような時間を取ってもらうように考えて相談した。箕ヶ根市の主催の各種サークル活動参加で。スポーツあり、お料理コースは実用的だぞ。縫物のコースも、家から近い阿北地区センターでやっている。ピンポンもいいなあ、だれでも手軽にできるし、コーラスも思いっきり歌っても見たい。まだ、人に会いたくない気持ちは依然としてある。父の事が話題に上がるとき、自分は「当事者、本人。」としての対応になり、それはあの時のことを、鮮明に思い出すことになり、とても悲しくて避けたい。 そのうちに、第三者的態度で対応できるように成れる日まで、まだ駄目だ。

 まあ、それでも家でも趣味を広げられる、通信養育のパンフ見てもらう。いろんなのあるよ、ネイルアート、アロマセラピー、実用ボールペン講座なんか。 いっその事、猫を飼おうか。最初にしつけをきちんとすれば、猫は家の中にいるし、近くにいて癒し効果抜群だし、生き物だから新しい仲間が来てくれた気持ちにもなれる。ただ13,4年の、どう長くよく目で見ても、天命で尽きる命なので、先のことで無用な心配かもしれないが、ペットロス状態に陥るときが、その時来ることを考えなくてはならぬ。

 犬や猫が家にいることは、精神的に安定し穏やかな気持ちになれやすいと言われてる。だんだん慣れてくれば、世話好きの母の力を生かせる町内会活動や地域婦人会活動なども、適してるかもしれない。もともと、前からいろんなボランテイアに積極的な彼女だったので、向いているかもしれない。

 それに会う人を選べば、みんな傷つけることを話す人ではなく、やさしく受け止めて包んでくれる人もいるはずだ、母の年齢になれば、いろんな経験をしてる、頼りになる人物もいるはずだ。

自分は未来のことを考えたい、母にも未来のこと考えてほしい。

自分の思い描く未来には、母を基本的に面倒見る計画は織り込み済みである。同居するとか、しないとかの具体的なことは、その場にいたり最良の方法で対処するつもりだが、基本は面倒見るつもりだ。今の家には母が住み、近くにアパートなりマンションなりを探して住むのもある。そんな条件でもオーケーしてくれる、彼女はいてくれると信じてるし、そんな彼女を探す。誰にも親入るものだから。

 母の設計図中の未来は、今までは「父とともに。」であったが、ここからは考えの変更が必要だ。

父ない現実から迎える未来は、まだ考えられず。未来は考えたくない、未来はない、来ないという、母の深層の気持ちは理解に値するも、父がいなくては私の未来は考えられないというのは、百パーセント不可能だから、現実は。

 自分一人と、子または子夫婦という形。これが未来の基本の形だ。まだ、考えがそこに至らないようだが、それは変えられないことで。現在の認識をしっかりして、その上に未来が乗るから。 基礎を固める意味でも早く現実認識に基き、新しい輝く未来を、子も交えて想像したほうが良い。過去は過去で、行く手定める大きな参考にはなるが、先のことは、今しっかりと見通して、決めて進んでゆくのだ。

自分も未来のことを思いっ切り考えるぞう。

母は過去の思い出だけを栄養として生き延びてるだけでは、未来の栄養、ビタミン剤は取りこめない。そこから、ドッと脱し様と努力をしてるのが分かる。残念ながら、都合が悪くなると、旗色悪くなると、容易に過去に潜り込み、そこでぬくぬくすることを選んでしまうことだ。まあ、それのが一番番居心地が良く、楽でもあることなのだが。これから先の事を、少しずつ考えるようにしよう、と働きかけて。母は、言うと、うんうんとうなずいて聞いてはくれるが。

父がいないことは少しずつ、消化しようとしている。頭で。実際居ない、実在しないことの自分への大きな影響について、その場その場での理解になり、理解までに時間がかかったり、戸惑いもあるがのだが。そのときもなく、わめく事無く、自己を取り乱し、自己喪失になる状態ではない。そこからは脱していた。 父の思い出をしっかり胸に秘め、それをこれからの力にして、それを糧にして、父が守っていてくれると信じてると、過去にかなりサヨナラが言えるようになる。その信じるものを胸に、これから先をしっかり見て、知り、理解して、対応をすることが求められてゆくことになる。父の居ないこと前提で。父の役目をも母が負うことになり、勿論子の自分も手伝うし、むしろこのケースのが多いかな。しかし母自身での判断も必要になる。 父といつもいると信じ、形見の品を身につけとくと、信じる拠り所ができて、心強いぞ。頼りになり、いつしかそれがなくても平気になる。すると過去から出られる。

 過去を忘れるのでなく、今と未来に進むうえで、そのバランスの問題で、前に進むときは過去は少なめに、進んで壁に当たったときは、止まり、過去を振り返り父からアドバイスと激励をもらい、進む力としたい。その時は過去の比重は多くて良い。すべてバランス。

 未来を見る、先を見るぞ。母も、子を含めた自分の未来を明るく迎えよう。


近くのコンビニで、二十年以上前離婚した、田貫恵子さんに会う。

母の生命保険時代の同僚で二つ上。

これから、地区センターにピンポン練習に行くとのこと。子供さんは男の子二人共、もうとっくに結婚して孫3人いるとか。一人は隣町役場に勤務、もう一人は東京にいるそうで、みんな元気な様子。

詳しいこと聞いてないが、よかった。 会社の同僚はどんどん結婚する。しないのもいるけど。

自分もしたい、いい子いるわけではないが、これからのこと考えると。 自分も未来見よう、母も。

 会社の部活にも参加できる時間が持てて、野球部で、外野だが久々に体を動かせた。夏場は日も長いし、七時頃まで飛んだり跳ねたりできる。自分も気持ちも体もスッキリして、なんだかこの先に光が見えた気がした。仕事でのストレスもあまり感じ無くなり。同僚や仲間とも、飲み会にゆけるゆとりもうまれ、あらかじめ母には連絡するのだが。夜の9時過ぎには帰宅するようにしている。 近くの知人のおばさんから、こんな子どう、おせっかいだけど、と見合い写真を持ってこられたこともあった。

自分はやる気がさらに出て、社会と前より緻密に繋ながれたと感じていた。

「長親も、そろそろ身を固めないとね。」母が久々に自分のことを心配したくれたのか、そんな言葉が出た。子の事も考えてくれる余裕が出てきたのかな。ちょっとうれしくなった、嫁さんの話題だからだけでなくて、ほかに目ガ行けるようになってきたのかもしれない。「今度、折り紙のサークルで、下呂温泉に一泊で行くからね。」本当に、母さん。すごい、よかった、皆と行けて。

「母さん、手話やりたくてね。サークル入ろうと思うの。手話の人の役に立ちたいな。」

すごい、進展ぶりだ。未来を見てるな、母も。ところで、母はこのまま一人でいるのだろうか?再婚はどうなんだろう、母の婚活はあるのか。

 

森カオルという女性が総務にいて、全体の文体活動のとりまとめも担当している。

長親が野球部の部活費の申請に行った時、五時過ぎでないと行けなかったので、もう森の仕事時間は終わっていたのだが、どうぞ、今お仕事終わりですか?と思いもよらぬ優しい言葉が来て。更に記載不足と誤記が重なり、一時間もかかってやっと一枚の野球部活動費申請書完成して、受け付けてもらえた。

 長親は遅くまでつきあってくれたことに感謝し、恐縮もして、カオルを自宅迄送くって行った。その後もこの野球部の活動に関する提出書類のことでカオルに助けてもらい、そのうち顔合わせるとカオルが、例の野球部の?というのが挨拶代わりとなる。

 そんな縁で、始まった長親とカオルのお付き合いは、急激な進展もなく、停滞もなく二年は続ずいている。カオルが言うには、父を早くに工事現場の土砂崩れで亡くし、丁度カオルが中一の時。それからカオルは母と妹のみどりを助けて、新聞配達、牛乳配達をこなした。中三の夏前まで。担任は心配してバイトをやめて勉強するようにとアドバイスしたが、カオルははーい、と言いながらも、やめられない事情を言えなかった。が、見事隣の飯畑市の進学校、トップクラスの県立飯畑第一女子高に受かった。日本育英会の特別奨学金の支給を受けられることになっていて、月10000円の交付はありがたいことで、返還はその半額のみ。良かった、ありがたい制度だ。部活は卓球部。準備するのはラケット、短パン半そでに靴くらいで済む。

 母のみどりはカオルや三つ下の妹、由木の学費や生活費のための、道路工事人夫として土方仕事や工事現場の仕事をこなして働き、夜出掛けて行く時もあった。みどりは化粧無し、髪に油っ気無し、古い着物を着て、手拭いを被り、手は豆が目立ち、ささくれ立ちしていた。が、落ち込んでたことはなかったという。父が亡くなって、何日かは沈みへこみ、泣きしてたが、その後みどりの、今日から男になる、宣言以降、涙はなくなり、彼女の悲壮な決意が伺える。道路工事の仕事、ビルの建設現場での仕事など力仕事もいとわず、がんばったそうだ。帰りにその日の日当を日払いしてくれるので、受取り夕飯に必要なものを買い、、また学用品や衣服の購入に充てる。大切なお金だ。

 幸いこの町の特産のフルーツの種類は多くて、母は畑の草取り消毒枝の選定受粉と通年を通して仕事をもらえた。その為、みどりも屋外で雨風にさらされるきつい仕事だが、外で働く事は嫌いでは無いので出来た。それこそ猫の手も借りたい収穫の時期は10日も連続勤務も、そう苦にならない。これで何とか生計を立てる見通しがつけられたそうだ。 カオルはご飯の支度、妹のお風呂や着替え、添い寝など母の仕事を、やってのけ、勉強もした。高校へは育英会からの貸与された奨学金で十分行けた。

高校の進学指導の先生は、大学に行くことを熱心に進めてくれた。

十分いいとこ、国立の、へ行ける力はある。勿論費用の事も、奨学金のことも。カオルは丁寧にお礼を言い、進学の意志がないことをわかってもらい、今のこの会社に入社して現在に至っているのだ。その後由木の学費の面倒や母の家計の援助にと、給与の多くを入れていたという。若い盛りの娘が、実によくできた子だと、長親は心から思った。明るい、元気なカオルである。どこにそんな強い力が秘められているのだろうか。外からは普通のお嬢さんに見えるのだが。自分の母と、カオルの家族、みどりや由木達とついつい比べてしまう。が、人のことは言えまい。自分は年上だが、カオルの方が自分より比べ物にならないくらい、人が出来ている、と言うか、自分以外の人のことも考えてあげられる、大きな心を持っているということだ。

 どの位苦労したかより、その中から何を学んで、今生かしているかが本当に大切になる。多くの困難、苦労の連続の時、単につらい、疲れた、もう嫌だ、と言うマイナス思考は最初は仕方ないとして、それは自分を納得させる手段でもあるのである程度はいいのだが、いつまでもそのままでは、ぶつくさいうだけの人で終わる。せっかくしなくてはならない苦労なら、進んでやり何か得るものはないか。カオルはそう思いながら、はたから見ると「苦労されてる。」自分を通して、何か大きなものを得ているのだと思えた。ひるがえり、我が甲斐家の現状は どうかと言うと、軽々には比べられないが 母は少し自己中すぎるのかなと、よく目で見てもそう思われる。

 「総務の森さんとこね、小さいときからお父さんいなくて、みんなで頑張って来たらしいよ。」軽く話題にした。ここから森のうちの様子を、母に自分なりに想像してほしかった。あえて父が亡くなったということだけ言い、それに付随して発生するカオルの母、みどりの一家を背負い大黒柱として奮闘するさまを、是非。カオルにも当然負担がかかることも、自分の想像で、これもぜひ。

 そう思い、話すのだが聞いていない。ああ、そう、とは答えるのだが、右から左の耳にに抜けている。

「みんなそれぞれ違うから、環境が。いろんな人いるからね。」母の意見も一理あるようにも見えるが、テレビのコメンテーターの意見程度の重みしかない。同性で若いカオルの事には関心がないようだ。「家と、先方さんは違うからね。」カオルの事はあまり好かないらしい。カオルのところは苦労してりっぱに頑張ってきてるわね。でもねえ、私ところもの自分が苦労して、ここまで来たんだから、と言いたげなのかと勘ぐるほどだ。自分はカオルと付き合い始めてかなりたち、好意はとても大きく膨らみつつあるのだ。まだ母には付き合ってることは言わず、会社にそういう森カオルなる人がいると、第三者的には伝えてはいた。

 カオルは今まで大変な苦労をしてるというのに、一切言わないし、素振りにもしぐさにも出さない。そんな苦労の影は微塵も見られない。 明るく快活な様子は見てて気持ちよい。素直に、いい子だな、と思える。若いお嬢さんそのものだ。何かスポーツ、やってんの、と聞くと、ピンポンだそうだ。

「そうなんだ、ピンポン。」また自分の軽薄さを、のちに自分で確認する羽目になる。「はい、なにかスポーツと言うか、体動かしたいとは思ってもなかなか、何がいいかいろいろあって。」

「そうだねえ、野球とかサッカーのような集団のものと、テニスとかピンポンのように個人でできるもの、様々だけど。」「私の場合は、一番お金のかからないもので選んだんです。」さらっと、言う。

高校で陸上部でフイルドで長距離を走るのが夢だった、が出来なかったが、それはもういい。今楽しめるのはピンポンがいい。「ピンポン玉とラケットと、楽しみでやるならそれで全部揃うから。」なるほどと思うのと、何でそんなことまで彼女の口から言わせたか、と、後悔もした。カオルも随分あきれたことだろう、こんな質問を軽々にする自分に。軽薄さを露呈したことも認識して、動揺し取り繕い修復する言葉を探すが、そんなに都合よく出てくる訳ない。

 慌てて、こちらも軽く聞いた風に、流した。「ふーん。そうなんだ。」言葉は何の意味も持たず、音として出たのみだった。 デートは野球やピンポンの部活の後のご飯が主だ。良くゆく国道沿いのフアミレス。はらへったーっ。何する、何々。そうね、私00。ながさんは。おれ00。長親はそう遠くない先に、こんな風にしてカオルと来たい、その後のもずーっと、と思っていた。

 あのさあ、イオニア海、行って見たいよねえ。クルーズ船で。急にどうしたの?京都海あるのにここは山の真ん中でさ。今日の折り込みのチラシに、ツアーの広告があって、ヨーロッパの船旅特集。ふーん凄いねえ。行きたいねえ。で一番行きたいなっっていうとこが、そのイオニア海クルーズ。地かは別にこの地中海方面に詳しくも何でもなく、チラシに書いてあった地名を覚えていただけだ。がカオルは「あそう、ギリシャとイタリアの、えーえとう、長靴の靴底の間が確かイオニア海。」

 その通りである。が親は正確な位置は知らない。遠回しに新婚旅行に行くなら、クルーズ船で行きたいな、行けるといいね、行こうね、という話題ずくりに出したに過ぎない。アテネからローマに6泊7日でクルーズ船が運航されている。もちろんここは観光の宝庫なので地中海(ヨーロッパとアフリカ大陸間)アドリア海(イタリア東と東ヨーロッパ)エーゲ海(トルコとギリシャの間)に多くのクルーズが用意されていた。親はたまたまイオニアと言葉の響きが良く聞こえたので、イオニア海のクルーズを口に出したまでだ。

カオルはよく知っていたなあと、内心感心した。たまたま知っていたのか、いや豊富な知識の一端で、さっと出てきたんだろう良い方に解釈した。正直親は高校中学で地理は好きでなく、まず海外に行くこともないだろうと、国名や首都海山の名前はしっかり覚えなかった。この場合自分が行くかどうかは加味されないのだが。イオニア海、イオニア海のクルーズ是非カオルと一緒に行くぞ、と根拠の薄い見通せない妄想に酔いしれそうになる。

 

またある時、家庭に関することを聞いてみた。

森さんのかあさんは?50歳は過ぎてるけど、まだ元気で。まだ人生半分だよ。今もお仕事?元気に働いてます、働くの好きみたいで。夫が若くして亡くなっているので、年金は期待できないし、やはり働かねばならないのかなと、想像した。カオルも、母の事が気になり、かあさんはなになさってるの? と、聞いてくれる。 将来は自分たちは母と別住まいで。アパートに住むか、融資でマンションも。 妹さんは一緒に住んでるの。はい、三人で。妹の由木は農協に勤務していて、独身です。母みどりは外に元気で働きに出ているという。

 カオルにはまだハッキリと意志は伝えてないが、自分がカオルを大事に思うことは伝わり、大いに好意を抱いていることも伝わり、カオルからの拒絶はない。ただ、カオルの母のことが心配としてはある。カオルがもしお嫁に来てくれれば、みどりの基本的面倒は見よう。勿論自分の母もいるのだから、面倒は最低当然見るが、みどりもほっとけない。由木もどうするかどうなるか今は不明だし。

 カオルは森家の長女だもん、女性と言えど。そこはハッキリしとかないと、みどりの心をいつも動揺させてしまっているのだ。精神的に悪い。母にも基本的態度はそう伝えておかなくてはならない。

  母の毎日は至って順調で少しだけ気が休まった。自分の好きなサークル活動に参加するのに忙しい毎日だ。結構な事である。カオルちゃんどうしてると聞いてくれるようになった。これもまたまた結構な事。母の行動はなかなかエネルギッシュに変貌しつつあるようだ。外で友達との時間が長く持てるようになり、夕飯を食べて帰ることもあるんだ。いいことだ、自分の世界を作り広げて、そこで十分楽しんでもらえれば、それでいい。趣味の手芸をしたり、お料理作ったりのサークルも。経済的には父の年金と多少の蓄え、それにわずかな保険金が暮らしを支えている。ひとりで暮らすには、そう不自由なものではないと思われる。やはりサークルの仲間と、各シーズンには二泊程度の旅行もできるようになった。海外にも香港と台北にグループでのツアーで楽しんできた。

自分の事だがこの春職位が一職級上がって、今の主任から役職名課長補佐で、隣りの飯畑市にある関連会社に出向の話がきた。通勤は車で家から可能なので、 母と相談して、受けさせてもらうことにした。そこでまた頑張りまた本社に帰ろうと応援してくれた。

 

母にカオルとの付き合いを正式に報告した。

母から明確な意思表示はない。

自分の気持ちは母よりカオルに。これは当たり前で、自分が独立したことを意味している。

カオルを生涯の伴侶とするつもりなら、肉親の母に対する感情とは別に、カオルに別な大いなる愛を注いで、お互いがおたがいを大切に思い、二人で進む道を歩き出したい。

 カオルの考え方の広さに触れると、その広さが優しさを育み、それを彼女は広くあまねく与えているように見えて、素晴らしいことだ、そんなことが簡単にできる人は、なかなかいない。自分はいい人に巡り合えた、と思うのだ。自分の中にしまい入れて、簡単に外に出して、与える事などはあり得ないと、自分では思っていたからだ。 好きな子がいるから、という自分にとり最良の時の中での、自分の感情なので、大きくカオルびいきとはなることは仕方ないとして、カオルとずっといたいと思い、それは本当に確かか、と自問して。そう、そうだよ、確かだよ。と、思いたいのだが、今のこのカオル、カオル、カオルと、心がカオルにだけ向いてるところでは、カオルとの良い場面しか思い描けずにいる。

 不確かな場面を想像できない。例え喧嘩しても、すぐ仲直りできるし、大丈夫。自分がカオルの事が好きだから、何があっても乗り越えられる。と、教科書通リの回答を自分なりに出し、かなり安易な気持ちでいたのでした。

 カオルの家も母一人娘二人で、カオルの母の事も面倒見るつもりでいる。母は急に、自分の面倒を見てくれることが条件だぞ、と言い出して。自分の主張ばかりして。なあ、ちか、自分の面倒見て、長男だから。母は言いようのない不安に駆られている。カオルに息子を取られる、奪われる、と。鳥越苦労に他ならないのだが。 母は、息子に面倒見てもらうことばかり言う。息子とカオルの幸せについて、考えの中に無い様だ。 自分もなんだか母が嫌になりそうで。もっと広い心がないのかなあ。次にカオルに会った時、カオルのことを心配するより先に、また自分は親だから子は面倒見るのが当然という口ぶりで、そのことしか母はカオルに言わない。親だから相当の対応するが、あまり決められ、そればかり言われるといやになる。 カオルはそのうち嫌気がさして逃げ出すかもしれない。自分はどこまでも追ってゆくぞ、カオルの事。母はあんな子やめろ、と言う。自分はカオルが好きだ、そんなことはできない。母はあからさまに反対する。第一生意気だよ、あの子。私の事なんか何とも思ってくれて無いもの。何をもってそういうのか、心当たりがないのだが。自分は何とかしてカオルをつなぎ止めておきたい。

 長親は自分の意見を通した。母は泣きわめくまでして、その意見に抵抗した。ひるむことなく、同じ意見を母は、また自分に言う。自分の面倒はお前たちが見てくれよ。それだけ。子共達の幸せ祈る気持ちは皆目無しのようだ。カオルへも彼女の母への気使いも全然ない。自分はカオルが好きで、交際は二人の間では結婚が前提としている。あくまで母は我を張る様子で、強気で反対している。

 母とカオルどちら選ぶ、と無意味な質問を繰り返しする。

無意味な老人の独りよがりな感情で、連れ合いをなくした寂しさと息子をカオルに取られるという幻想が誇張して伝わり、小さな胸を支配している。カオルにカオルにあんな女に大事な息子を取られてしまう。

お前は甲斐の子、産んだのは母ちゃんで、母ちゃんの子だから。自分と母のきずなを何よりも尊び、嫁さんを押しのけてより近くにいようとする。おまえは私の子なので、私の面倒を見るのが一番、カオルの事は二の次にしろと言う意味である。子に必要以上に頼りすぎて、甘えすぎている。息子、息子と、息子コンプレックス。 母親と、息子それにそのお嫁さんとの関係は、昔からいろいろ大変なことは聞いているが。息子が嫁より母を大切にするとかしないとかの話で。そこの母や息子の精神的な成長度合いに大いに関係して。

 成長が幼いと、必要以上に母は大切。高いと母も勿論高いが、嫁さんとは別の高次元で、母の手の届くところでない、別の崇高な位置で、しっかり最高に高く、だれの追随も許さず、結ばれていて、当たり前に母でも誰でも、入れない。特別な事でなく、これがいままでの結婚したニューカップルの家庭内での地位だ。 冷静になり、カオルは妻、母は母、と言い聞かせ、両者は自ずから違う立場であることを母が良く理解してもらわないと、カオルに取り返しのつかない誤解を生む。

 

母は昔帰りがひどくなり、昔がいい、父さんと居た頃がいいとばかり言っている。

父さん生きてたら、カオルの事だって強く言えた。前が良かった。父さんなんで死んだの。お前の小さい頃はよかった。母さんは女だから馬鹿にされて、カオルの言うまま、お前は。昔はお前は、やさしくて、こんなじゃなかった。昔に帰りたい。前はよかった。

 現実をよく見て、母さん。妄想ばかりにとりつかれていても仕方ない。誰に言ってもどうにもならないことを、言い続けてても無駄でしょう。それをまだいうことは、聞き分けの無い駄々っ子とおんなじだ。

 もう昔のように,過去に導いて、母を、精神の回復の手助けはしない。もう回復しているのだ。

もし行くなら自分で回帰のためにはゆくのはいいが、あくまで大切なのはこれから先の事。

 急にカオルの話が出て、母はその避難・逃避の場所として、過去の柔らかい真綿に飛び込もうとしてるが、そこはパラダイスではない、そこに入らず自分とカオルとで進む新たな道を共に、先に希望を各自見出して、母は今までの事をしてそのまま進めばよいので継続して進もう。その進む船は大きいのでまだ、みどりも乗せられるので様子見ながら行こう。親戚になるので助けあって。

 母は別にカオルでなくても、自分の恋人や嫁さんに成る人には、そういう目で見るのだろう。ライバルと思うのか。溺愛の息子は、百パーセント第一に母の味方と思い、百パーセント母の言うことを、嫁の言うことより先に、聞いてくれるのだという、偏見があるようで、それが正しいと思っているし、そう信じ込んでいる。嫁より母の方が血が濃いからね、長にとって。自分は血がつながっていて、カオルは他人だという意識だ。 それは困る、訂正してくれなくては。カオルはこれから苦楽を共にする伴侶となるべき人。 自分は母の子であるが、もう十分大人、いつまでも自分の飼い犬のような気持ちでいなくて。自分が育てた良い子だから、カオルさん、カオルさんも苦労されて立派になられた若い人だから、長とこれから二人で力合わせて是非ともよい楽しい明るい家庭を築いてください。応援してますね。と言う気持ちが今の母に欲しいなあ、と思うのだが。そう内心はいろいろ、戸惑い、競争心、少し困るけど、若さへのうらやましさ、同性の若い人への羨望、まあ上げればいろいろあるだろうが、それは自分の内なるもので、自分の心にとどめおくべきものだ。 子供を自分の手元で、自分のペットのように、自分の意のままに操れれば、自分は満足かもしれないが、それで息子は本当に幸せか。自分が鳴き後も息子は長く生きる予定だ。その時息子は社会の中できちんと、主体性を持ち、生きてゆけるだろうか。元々母親が気に入る嫁は少ないだろう、母親をそれほど気に入る嫁も現実いない。

 係で大量に不良品を出してしまい、その対策に忙しくて徹夜が続く。主な原因調査、再発防止の対策、部長の決済裁。係員への対策の周知。生産開始しての、品質管理状態確認。その報告など。徹夜は二日でおわったが、生産再開まで全係員へ今回のミスを知らせて、再発防止策を知らせ、それを順守させる必要がある。最後に不具合ないか調べるまでは終わらない。緊張の日々がもう一週間つずく。あと2,3日様子を見てオーケーなら、良しとできる。

 疲れて帰ると、カオルからのメールでお疲れ様。母は、この先会社大丈夫かとか、カオルとどうするかばかり聞く。 カオルとは外で会っている。みどりも由木も元気だそうだ。久しぶりにカオルに会い、彼女の明るい笑顔に触れて、生きた心地がしている。一瞬間でも、そんなときが持てると、気分が晴れる。

 みどりの誕生祝に、何歳のかは家庭内秘密なので知る由もないが、三人で江の島鎌倉に行くそうだ。

湘南江の島、江ノ電、八幡様、露座の大仏様。いいなあー、いいな。

 カオルの中学の時の修学旅行先でもあるそうだ。 残念ではあったが、カオルはこの時の旅行には参加できずの幻の旅行であり、今回それが行われるのだ。カオルの旅行のための積み立てが、母のやりくりでどうしても工面できずに、母は手をついて誤ったそうだ。中学二年の五月に行くのだが、新学期からその旅行の話でホームルームの時間を使い、班編成やスケジュールの書かれたしおりを使い、事前学習が始まっていて。カオルの名前も、班編成の中にあり誰もが、普通に全員行くものと思い準備していた。

 当日、午前七時駅に集合して。「森カオルさんのお母さんから電話があり、カオルさんが急に熱を出して旅行に行けない。」という連絡ありましたと、全員集合した後の先生が講話で話した。

学校の配慮と先生たちの優しい気持に、みどりは緑の公衆電話の受話器を置いてしばらく泣いてしまったと言う。勿論、我が子を行かせられない自分の力の無さをいやというほど自分の身に染みて、それを自分で攻めていたに違いない。カオルごめん、何回言っても、許されるものではないこともわかっていた。が、カオルはその時、自分が行けないことよりもみどりが自分の事で悲しんでることの方がつらかったそうだ。

 ぜひ三人でよい旅をしてきていただきたいと、祈るばかりだ。ちなみに、由木はそういうことなく、普通に修学旅行に行っている。こんな話を聞くたび、カオルのうちがうらやましくなる。

修学旅行に行けない事は辛かったと周りでは思うのだが、だからと言って家庭内で騒動が起きることなく、カオルの言葉に代表されるように、自分は行けなくて寂しいがそうさせられない母が悲しんでるとき、母を慰めるカオルの姿、この家の三人の温かい気持ちで硬く結ばれている様を如実に示していて、自分はそのことに感動した。単なるお涙ちょうだい的場面ではない。素晴らしいことだ。

 児童生徒の頃、そんな経験をしているとは、今のカオルがしっかりした女性に育っているからこそ、余計に彼女のその時のへこまない精神力の強靭さを讃えてあげたくて、真っすぐ育った事も苦労しているみどりの背中を見ながらだけど。

 カオルを母に、お嫁さんとして考えてる人だと紹介してから、とうちゃんといる時がよかった。三人の頃がよかった亀河にいた時が良かった。昔はよかった。あのころがよかった。旅行で天橋立に行ったのが、よかった、としきりに不可能なことを言い始め、無いものねだり状態がつずきエスカレートし過ぎていて手に負えなくなってきた。自分は過去帰りしないように、警戒しながら、慎重に言葉を選んで母に対応した。カオルに息子を取られる。

加えて だんだん母が認知症の症状を見せ、人が変わり始めた。母が愛する子、愛される親の関係は同じなのに、母は子を愛してるのに、子はカオルと言うしょうもない女の方を向いて、親をないがしろにしている。絶望感が心を支配して、望みは無し、将来の希望は無し、と言う妄想に容易に落ち込んでゆく。外に出るのが少なくなる。すぐ帰る。部屋にいる。父の墓前に座る。口数が減る。お父ちゃんと大声で叫んだりする。

母は認知進めば、自分の未来暗い。  

  母に丁寧に丁寧に何でも説明してるのに、理解されずに、愕然とする。外見は昔からの母の姿で。内面は、心は病んでいて夜叉が支配しているようだ。 自分は子扱いでなくて、モノとして扱われている。

市の社会福祉に相談して、デイサービスを受けられるようになり、自分も少し安心している。ヘルパーさんも来てくれて、身の回りの世話等をこなしていただき、大変助かっている。

自分は自分の未来に大いなる焦理を覚えた。もう未来はないかもしれない。こんなじゃあ、嫁さん無理だなあ。自分は好きだが、親が反対していて、その母が症状が進んでいて。

 結婚できないかも、できない、できない、来てくれる人いないよ。

 母はだんだん自分のことが分らなくなり、息子の自分のことも分らなくなる。父のことも同様。

 嫁さんの事はもう無理.無理。母は更にわからなくなる。

 母は自分の事も、身の回りの事もするのが難しくなる。子の将来の幸せを考えることなど無理だ。  

自分は母も心配だが、自分のことを、自分の将来の事を考えたい。自分とカオルとのことも、絶対。母の事より、当たり前だが、カオルの方が大切なんだ様。

 母は自分が解らないので、ドンドン言われるのに対応できず、ただわめいているだけの時がある。

施設はいるように進める。家にいて一人で話し相手もいないが、施設は同じような年齢の人たくさんいるので寂しくないかな。ところが、知らない人と仲良くなるのが苦手で。気まずくなればそこに居られなくなる。 あまり動かなくなり、外に出なくて中で、することもなくしゃべることもなく、テレビはつけたまま 自分の興味がない趣味をしない。こんな状態では安心して働きに行けない。介護サービスの回数を増やして、ウイークデイは毎日お願いしている。母がだんだん、正直なとこ、生きている物になりつつある。過去の母だった人は、今の自分にとり単なる物体でしか映らない。  

 スーパーで買い物の手伝いには歯と行く。急に後ろの人に、危ない、何すんですか、と突っかかる。

たたかれるかと思ったそうだ。母は、急に後ろの人が、自分に殴り掛かってきたので注意したまでだといった。妄想そのものだ。みんなの迷惑だ。電車で前に立つ人を指さして、「きゃーっ、助けて。」と、大声で急に叫ぶ。自分に覆いかぶさってくるように見えたらしい。駅長室でそのお客様に平謝りして、何とか理解していただいた。

 子から親を見た時一つの物、動くもの、感情の通じない個になってしまう気が、どうしてもする。

毎日が母の後始末に追われて、自分のこの先の未来など考えられないで悶々としている。抜け穴の先がまるで見えない。予想もつかない始末で。ここにいるのはモノだ、物。時間の経過とともに改善改良されてより良い結果を出せる予定の物ではない。すでに現在自身で考えていい方向一歩でも先に進もうなどという、ごく普通の人の考えることは出来ずに、過去に固く固まり、今現在を生きてはいる。が敢えて呼吸をただ繰り返ししてるだけの生き永らえで。こう生きる、こういうために生きる、こうだから生きて行くというこだわり信念が感じられずにいる。だから感情を表せず、コントロールも出来ない、感情自体もないかも知れないと勘繰りたくなるような、ただの物という言い方が必ずしも外れてはいない。

 自分に未来ない、だって日常生活に大いに支障のある母にかかりどうしだもん。自分は会社から帰ると母のそばを離れられない。目が離せない。イライラやストレスがたまる。土日遊びに行けない。職場の女性達同僚は、理解し共鳴してくれて、自分に好意は持っていてくれてても、自分の家庭環境を見ると、彼女たちはさらに先に踏み込めないのは、逆の立場で考えれば分かる気がする。母の元気の為にその歩んだ過去に大いに付き合い、逆に自分の明るいバラ色の未来は考える時間が取れない。母のため彼女の良かったねえあの頃はという過去のその時期にまで戻って一緒にそれを共有してみる。お前の生まれた時はなあ、父さん本当に喜んでなあ、あの笑顔が忘れられないよ。お母さんもうれしくてなあ、お前が生まれてくれたのとお父さんの喜ぶ顔が見れたからなあ。中学の運動会じゃあ、騎馬戦がなかなか強かったなあ。勇ましくてな、長はいつも前の馬だったけど、あそこが中心だから。棒倒しもみんな元気良くてなあ。自分は棒倒しの何人かで支える役目で、相手が飛びついたり無理に倒そうとしたりで、散々踏んだり飛びつかれたり排除されそうにナッツたりで、最高に敬遠したい種目だったが。父も母も棒倒しも騎馬戦も男らしくていいぞう、とベタ褒めするものだからのだから、ついつい親の期待を損ねないようにと頑張ってはいたものの心は逆を向いていた。

カオルからの楽しみなメールが来ない。隙間時間を見つけてこれでもかこれでもかと送っているのだが、返事がない。ここしばらくそう10日ほどは合ってもいない、というかなんとか繰り合わせているつもりだが、本当に時間が取れない。本当に好きなら、本当に必要なら、時間を作って、みつけだしてゆくもんのだぞ、というのはその通りで、何の異論も唱えませんが、でも時間がない、取れない。

 

夜、会社が終り家に帰る。

大概残業で8時近くだ。玄関ドア―を開けて、もう足許から奥の方まで物が散乱している。ストーブの上のロープにつるして干していた洗濯物はからからで落ちないことが、せめてもの幸いだ。本人はテレビをつけたままで、うたたねしている。ちゃぶ台の上はコンビニの食べ物の袋が散乱していて、急須のふたは転がり、足元には脱ぎ捨てた寝間着が無造作に落ち、大切なはずのメガネも一緒に中に落ちている。畳の上にスパゲッテー2,3本と赤いケチャップがこってり着いて。毎日の事だが、ほとほと疲れる。

 それでもカオルからやっとメールが来て、今までのたまっていたストレスが少しは発散されたかな。だが短すぎて物足りない。「お疲れさまでした。」というだけだ。定番のフレーズを流してきたのかよう、自分で文章作って送ってくれると嬉しいんだが。無いよりは全然良いのだが、それにしても短かすぎて。季節の挨拶の言葉数にも満たない。メールが来たという事では嬉しいんだけれど欲を言えば、もっと長いのが欲しいなあ。

 自分はカオルに今すぐにでも結婚したい、自分はそう決心している、と告げた。母の事もあるが、今までカオルに会えない寂しさ、自分とカオルの未来はどうなるのだろう、自分は焦っていた。カオルには前の俺と変わらないとこを見てもらい、気持ちは前より高いとこ見てもらい、今後いつ合えるかわからないこともあり、プロポーズした。場所はファストフードのロクドマルド阿北店内だ。が、カオルからは逆に、突然ではあるが別れを告げられた。ぐあーんと頭をぶん殴られた感がして、なんで、何で、どうして、この機会に、いったいどうなってんだ、どうしてまた、急に。 カオルらしい、気の使いよう。彼女のやさしさか。

「私の一方的なわがままです。長さんには何も責任ありません。私が悪いのです。ご面なさい。お許しください。ご迷惑かけますが、長さんのご好意には報いられません。なお会社は今日寿退社しました。」といっ気に、しゃべるときびすを返して足早に駅に向かう、カオル。

長親は足許がゆらいでめのまえが暗くなる経験を初めてこの時した。同時に無味乾燥した孤独感が心を支配して、寂しさのどん底にいる気がした。口の中が異常に乾き、つばが出ない。

追いかけるも、無言で、振り返りもしてくれない。何が起こったの、これ本当のこと、えーっ急になんでまた、カオルさん、どうして。 目の前の現実をまだ、理解できないでいて、理解でるような状態ではない。自分の気持ちの中では、まだというより始めからカオル一人だけだし、カオルは自分の胸の中に、しっかりと恋人として居るのだから。目の前でいなくなったカオルの事は見てはいても、到底正しく今は理解できない。嘘だよ、なんかの間違いだよ。自分に都合の良いように思わなければ、倒れて崩れて自分を失しなってしまい、どうしたらいいかわからず、ここから消えてしまいたくなるだろうに。それを無理に、自分の都合のいいように解釈して体面を辛うじて保ったのだ。

寂しいというか悲しいというかやるせないというか、ともかく自分の希望は立ち直りのポイントは前の通りに戻れることだ,そうすれば元気が出て元どうりに回復できるのだ。カオルと元どうりになれれば。

あるいは諦めてけつまくって、失恋1回目と記録して、次の相手を探そう。と言うようにはなかなか割り切れんよう、カオルの笑顔爽やかな、あの明るさ。第一可愛い美人だ。そう簡単に諦められない、ゲームのように行けば楽だが。誰でも女ならいいのではないあ、カオルだからよかったのだ。

 それでも何とかやっとのことで、家に着く。相も変わらずこの家は何時ものように部屋中、くまなく物が散乱し放題の状態。

 そこに夜叉を見た気がした。

 ごろ寝している母の姿だ。髪は乱れて、衣服もだらしなくほつれて、およそ女性が休んでいる姿を想像できない。風邪ひくから、起きて布団でちゃんと寝て、と起こすと、怖い顔して後ずさりして。

 挙句に息子の姿を見て「泥棒、どろぼう。」と大声上げて叫ぶ始末。急に起こした自分も悪いのだが、情けない、母親に泥棒呼ばわりされるのは。「俺、ながだよ、かあさん。」母は寝ぼけてるのか、わからないのか、抵抗する構えで、近くの物を投げる。本気でテーブルの上の物を投げつける。更に屋内に物が散乱する。本人は恐怖を感じていて、止めようとする自分が母に近ずくのが余計恐怖を増幅させるらしい。自分が母と距離を置いて座り、安心させた。 子の自分を何で叩くんだろう、分らん、自分の母なのに。 いつもかばって来たのに。自分の子を泥棒呼ばわりする。

 が、今の自分はカオルの別れ言葉が胸に広がっていて、

そのショックが、現実のものとして自分全部を覆いつくしている。カオルはさりげなく「寿退社した。」と、言っていた。母のことなど正直かまっていられないのだ。全身を覆いつくす絶望感は、自分の新たな前向き思考を完全にストップさせている。カオルとの別れのシーンが頭一杯にフラッシュバックされている。名を呼ぶ自分い振り返りもせずに、駅の中に消えてゆくカオル。映画のラストシーンを見ているのではない。自分が当事者で、恋人のカオルが去って行くという、大変悲しいシーンなのだ。しかも、プロポーズした直後に。即断られ、しかも寿退社してきたと言う、その帰りのこと。寿の相手は、もちろん自分ではない。立てないほど力が抜けてふらふらして、気は落ちて、自分でない気がする。こんな時超忙しくて、やるべき仕事でもあれば、これを忘れて、シャキッとして仕事頑張れば、カオルの事は少し考えなくてすみ、そのショックも時間の経過で薄まることもあろうが。母が励ましてくれて、また良い子みつけてやるからなどと、その場しのぎでも、そうでも言ってくれれば、少しは気がまぎれて慰めになろうに。「物」と化した母が、自由気ままに散らかした部屋にごろ寝していて。そこに、傷心でへこみきった自分が帰ると、泥棒よばわりで、来るなでて行け、だれだおまえわ、帰れ、と手当たり次第に近くに有る物を投げつけてくる。引っ掻き回してごちゃぐちゃにして、そのままだ。

 そこに、自分は夜叉をまた見た。

 大騒ぎしてを聞きつけて、隣近所、雨戸開ける音、玄関引き戸引く音が聞こえる。父さんと長親と母さん、三人の時がよかったなあ。三人で父の退職祝いの旅行で来た「天橋立温泉。」楽しかったなあ。

母の過去の事はよう覚えている。特に自分が楽しい思い出として残しているものは、よく覚えているようだ。川の流れの音と木々の緑のすがすがしいなかなか、ややきつい勾配を登ると広い万葉公園に出た。うっそうとした林の中に、形の整った不動滝は見えてくる。不動明王が畔にまつられていた。母だけについていえば、過去のいい時のことを思い出して、一緒にああだ、こうだと言ってあげると、落ち着きを取り戻してくる。自分の未来を白いキャンパスに全く描けないでいる。何も書かれていない真白なはずのが思いっきり黒く塗りつぶされてる状態だ。

 何とか母に少しでも症状が回復してもらうようにと、母の 過去のいい思い出しの付き合いで休みをもらい、今度は母と二人でかつて父と来た天橋立を旅する。母とのごたごたの毎日に疲れ果て、またカオルとの突然の一方的別れに、我を失うほど狼狽して、その両方を癒すための、いわば病気治療の為の旅行である。が、天橋立は好きな所で楽しみなのだが本当にそこまで癒せるのかは疑問符が大いにつく。が、好きないい思い出の地だ。

 逃避だ、問題の先送りだ、解決能力に欠ける。確かにおっしゃる通りで、言い訳になりましょう。でも、しかし、自分は行くのだ。母と湯河原に二人で。母は過去のあの宝物のような良い思い出を求めて、それで同じく心の治療をする、治療の旅で二人の目的は同じだ。気持ちがすっきりして、ここで元気をチャージ出来た気がした。母は半世紀以上前初めて父と来たことを思い出せたかな。

 母の口ぐせの、父とどこそこ行ったと言う、上位にランクされてる天橋立。この至る所で、父と過ごしたこと思い出しながら更に父の面影をも見つけられて。父はいないが母の新しい思い出になってもらえるように願わずにはいられなかった。来て本当によかった。 帰ってから、しばらくは自分も母も元気にやって行かれそうかな。

 夜叉の影が見え隠れする。

朝早く目が覚めてまだ五時半、やっと日の出を迎えたくらいで。母はもう起きてごそごそしてテレビをつている。京都北部は今朝も冷え込んでいますが日中は暖かくなるでしょう。天気予報のお姉さんの解説が聞こえてくる。散歩に行くかい寒いから温泉でも浸かってるかい。そうだねえどうしようかね。こういう時はそれほど行きたいと思わない時で、じゃあ俺一人で行ってくね。甲斐子は座椅子に座り朝のテレビを見ながらお茶を飲んでいる。時刻はまだ六時少し過ぎ。朝飯は七時半からだからまだまだだ。「長が帰って来たらお風呂行ってこようかしら。ご飯後でもいいけれどね。」

 夜叉はにこりとしたようだ。

急に パトカーのサイレンの音が聞こえてくる。ホテルの近くで止んだ。つずいて救急車のピーポー音も止まる。「何かしら、なんかあったのか知らねえ。そう寒いからお風呂頂こう、先に。」 二十四時間営業の広い温泉風呂にはまだ誰も入っていなかった。「あら、皆さんまだお休みかしら。」 低めの温度のサウナと水風呂も完備で。「キャーッ。冷たい、オオ冷たい、寒むーい。」甲斐子は最初小さめの鵜舟の温泉で温まるつもりで、間違えて水風呂に足を入れた。幸い湯船のはいり口の一段目迄だったんで、被害は足首までで済んだ。改めて暖かい温泉に浸かる。足許から体が温まるのが解る。窓の外はもうとっくに日ノ出の時間が過ぎて、明るい日の光が周囲の緑の木々の葉を照らしている。

 体は温まり周囲は穏やかな風景が広がり、心豊かにさせてくれる一時である。半時もこうして豊かな幸せな空間と時間の中に身を置いて。身も心もほんわりポカポカになる。「もう、長、戻ったかな。そろそろ上がろう。」

 あら、まだだねえ、長。ほてる体をさまそうと窓をあけて外の冷気に触れる。おお気持ちいい。部屋の電話のベルが鳴る。何かしら、もうご飯かな。「おはようございます、こちらフロントでございます。」「はい。」「朝早くからお騒がせいたして申し訳ございません。実は先ほど前の川の滝つぼにどなたか男性の方が滑り落ちられ増して。普通の格好で。当館の浴衣お召しでございまして。救急隊の方から心当たりを訪ねられてまして。年齢三十代の男の方で。それで当館での未確認が、お客様の所だけでございまして。ご確認が取れずに、今お電話差し上げたところです。ちなみに心肺停止状態で運ばれています。搬送先は‐‐、もしもし、搬送、もし聞こえてますか。はんそ、もしもーし。」

 

    完


73歳父の小説シリーズはこちらにまとめてあります。


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