第74話 デジタルトリプルと格闘する田中さん(AI編-1)
「いないはずのない場所に自分がいたんだよ」
この街の復興事業を一手に担うコーポレーティッド・ジョイントベンチャー(CJV)でIT分野を統括する田中壮一に一報が入ったのは、1ヶ月前のことだ。
CJVでは現場の状況をリアルタイムにデジタル上に再現する「デジタルツイン」を構築している。日々、進捗する現場の施工状況とともに、現場内のカメラやセンサーで得た情報を基に、CJV職員や主要な職長のアバター、重機類もタイムラグなく表示され、その履歴が蓄積される。リアルタイムの現場の状況を把握するだけではなく、誰がどこでどのような作業に従事していたかを後から確認することができる。
当然ながら、本人とアバターの行動が一致していなければいけない。そうでなければシステムの信頼性が揺らぐ。それもかからず、建築工事のリーダーの一人である栗田直敏から「デジタルツインの履歴と自分の記憶が違っている」と言われたのだ。
田中は、普段は出向元のゼネコンの技術研究所に在籍していて、CJVでのIT分野の統括と自動化施工の技術監修を担当している。システム上の指示や確認事項はほぼ100%が遠隔から対応可能なため、現場には常駐していない。システムの説明などもオンライン会議やビジネスチャットがあるので、リアルタイムでやりとりできる。360度カメラを搭載した四足歩行ロボットやドローンの普及で、現場の状況把握は遠隔からでも容易となった今では、現場に全く行かなくてもかなりの仕事ができる。
だが、些細な不安・不満に対応してかゆいところに手が届くようなシステムを実現していくには、実際に使っている現場の人たちが何でも言いやすい信頼関係の構築が欠かせない。そのためには現場に出向いて直接話す方が手っ取り早いというのが、田中の考え方だ。このため、何かしら口実を作っては現場に足を運ぶようにしていた。
便利な時代だからこそ、せっかく現場に行くのであれば、酒でも飲みながら、誰の記憶にも残らない無駄話の一つくらいは楽しみたい。飲兵衛の都合の良い解釈ではあるが、今回の事案では、そうした田中の姿勢が奏功した。
発覚したきっかけは、現場での打ち合わせが終わって、CJVの建築担当の面々と乾き物をつまみに缶ビールを飲んでいた時の栗田の一言だ。
「50代半ばになって、記憶があやふやになってきたみたいなんだよ。全然行った記憶がないのに、鳶さんに安全を注意したみたいで。困っちゃうよ」
「何を言ったのか覚えていないってことですか?」
田中が聞いた。
「いやいや、発言するの『言った』じゃなくて、移動の『行く』の方。
自分の発言をすべて覚えて生きてる訳じゃないから、まあそんなものかって思うけど、さすがに、昨日に回った場所くらいはだいたい覚えてるつもりだったのにさあ。
デジタルツインで見てみると、自分の記憶と違うんだよ…」
「デジタルツインと、自分の記憶が違うってことですか?」
「そうなんだよ。俺は行ったつもりがないんだけど、確かにデジタルツインでは俺はそこに存在していて。
ほかの場所は記憶とぴったり合っているのにさあ…」
田中は、缶ビール3本目に突入していたが、ほろ酔い気分が吹っ飛んだ。
栗田の記憶が実際と違うのであれば若年性認知症の懸念があり、非常に心配だ。
「栗田さん、それマジでヤバいですよ。病院に行った方がいいですよ」
新人の藤岡悠真が怪訝な面持ちで口を挟んだ。
田中は別の懸念を抱いた。
デジタルツインの中で何かしらのズレが生じているではないか。
そうだとしたら、システムに危機的状況が起きていると考えた方がいい。
「栗田さん。どういうことですか?
詳しく聞かせてください」
田中は、ノートパソコンを鞄から取り出して、メモを取りつつ、事情を聞き取っていった。
ある作業員が不安全行動を取ったことがきっかけだった。
外壁作業を進めている建築現場で足場板がへこんでいる箇所があった。足下が悪いと転倒などの原因になる。昼休みの時間に、鳶の2人に頼んで足場板を取り替えてもらった。
何の変哲もない簡単な作業ですぐに完了したが、問題は片付けだった。取り替えた足場板を5mほどの高さから地面に落としたのだ。
普通は、ロープで縛ってゆっくりと地上に降ろすのだが、急に頼まれたため、交換用の足場板だけを持ってきていて、ロープを持ってくるのを忘れていた。昼休み時間で、周りには誰もいない。もともと足場板はへこんでいて修繕が必要なこともあり、狭い足場内を持って降りるのは面倒だから、投げ落としてしまおうと考えたのだ。
それなりに大きな音がしただろうが、近くに人がいなければ気づかれない。
分かりようがないことは、とがめられない。
アナログに管理していたかつての現場であったら、誰からも知られることなく過ぎ去っていただろう。
だが、今は違う。
現場内には異常を把握するためのカメラやセンサーが縦横無尽に備えられており、デジタルによる目が光っている。
CJVでは、計画・設計段階から3Dデータを最大限活用しており、施工前から施工途中、完成後のすべての段階の3Dデータを用意している。実際の現場の出来形と重ねて、進捗状況を確認するとともに、計画と施工とのズレなどをチェックしている。全てを網羅している訳ではないものの、かなり広範囲を対象に実際のリアル空間をデジタルの3D空間に再現した「デジタルツイン」を構築し、現場管理を高度化している。
デジタルツイン上には、現実の人の動きも表示している。元請けであるCJVと、実際の作業を指揮する職長、発注者の主要な監督官は、アバターを用意しており、現場内のカメラ映像やセンサー、所持しているスマートフォンからのGPSデータなどを常時解析して、デジタルツイン内でアバターも同じように動くのだ。
アバターが設定されている人であれば、自分の行動履歴を後から見直すことも可能だ。作業員の多くは日々入れ替わるため、さすがに全員は難しく、アバターが無い人は無味乾燥な人間型キャラクターを動かしている。
デジタルツインはリアルタイムの現場の姿を鏡のように投影すると同時に、現場の姿を記録する場でもある。いつ、どの段階で、どのように施工が進んだか、その時に人がどう動いていたのか。データとして蓄積されていく。もしも想定していた計画と、実際の現場が異なる場合は、AIが判定して警告を発してくる。
CJVは、さらなる機能拡充として、デジタルツインの中をAIのアバターが巡回して、安全上の問題点を自動的に指摘する仕組みも構築する方針で、準備を始めている。
そのために設けた独自の3D空間が、安全管理を担うAIの学習用ステージ「デジタルトリプル」だ。
デジタルツインはリアルの空間と同期しているが、デジタルトリプルは、これよりも1日前の現場の姿を投影している。派遣職員の立場から安全管理を担当している野崎正年に協力してもらい、野崎のアバターである「アバターマサ」が現場内を回っている。試験運用という位置づけだが、前日の現場において安全管理上の問題点があれば野崎に情報が通知され、野崎から対象者を注意している。
リアルの空間は、その場にいる人や、画像などを見ている人しか把握できない。だが、現場空間自体をデジタル化すれば、閲覧などの権限を付与された人であれば、システム上から全体を把握して改善を促せる。
それは、神の目を手に入れるようなものだ。
だが、それはデジタル空間がリアルと同じであることが大前提となる。
もしも、リアルの空間とデジタル空間にずれやゆがみが生じていたら、幻覚を見せているに過ぎない。
ぱっと見には正誤が判別できない。もしも誤った空間を見て判断を下すようなことになれば、大きな過ちを引き起こす恐れがある。そうなると、幻覚と言うよりも悪夢という表現の方が正しい。
デジタルツインでは、事故や品質不良が生じた事案や、トラブルが懸念される事案は、アラートとして特別に記録される。現実世界で人が当該者を注意したり指導したりするため、その警告を発した状況を踏まえて、3D空間にスタンプを押す仕組みにしている。実際に事故などが起きた場合には赤い警告「レッドアラート」が、事故などには至っていないが問題がある場合は黄色の警告「イエローアラート」が発せられ、関係者に通知がいく。
足場板を落とした事案は、労働災害ではないが、同じようなことが繰り返されると事故を引き起こしかねない。「イエローアラート」に該当すると判断され、翌日になって、二人が所属している鳶の会社の職長と管理部門の責任者に警告が通知された。
職長と二人の作業員はCJVの事務所を訪れて、元方安全衛生管理者である皆川次郎と栗田、野崎に謝罪した。
人は、車がまったくない横断歩道では赤信号を渡ってしまう生き物だ。始末書を書いてもらい、不安全行動を行わないよう粘り強く注意し続けるしかない。困ったことだが、多々ある些細な出来事の一つと言える。
それが一連の経緯だった。
安全管理のためのシステムが有効に機能したのではあるが、今回は大きな問題があった。
警告を発したのが栗田のアバターで、しかも栗田のアバターが不安全行動を見える場所にいたということ。
それは栗田自身の記憶と全く異なる。
栗田は、「昨日の昼休みは、ご飯を食べてから、忘れ物を取りに自分の車に行って、そのまま仮眠したんだよ。15分くらいかな。それで1時の打ち合わせに出たんだ。足場板の交換は知っていたけど、現地になんて行っていない」と頭をかきながら困惑した表情で話した。
デジタルツインは、過去の好きな時点で場所を表示することが可能で、特定のアバターの動きを追尾して見ていくこともできる。
田中は、栗田の説明を受けながら行動を追っていった。昼の時間以外は記憶通りでおかしな所はない。
「これはまずい…。こんなことが起きるはずないよ…」
田中は、不安そうに見ている栗田らに説明を始めた。
「デジタルツインでのアバターの行動履歴は、CJVメンバーに貸与しているスマートフォンのビーコンや、現場内に設置しているカメラ、センサー群などを使って、リアルタイムに把握しています。
その人がいる場所だと認識して、デジタルツインに自動的に記録していく仕組みです。
まあ、ある程度把握できれば良いので、数十センチ単位でずれることもありますが、だいたいの動きは再現できています」
田中は、皆の方にパソコンの画面を向けて、デジタルツインでの栗田の動きに合わせて、根拠となるカメラ映像などを見せていった。
「元データと、デジタルツインでの栗田さんの移動は、合致していなければおかしいんです。
見てください。午前中はほぼ同じですよね。
問題は食堂から出て行ったその後です。
駐車場のカメラを見ると、栗田さんの言ったように、確かに車に向かっていて、しばらく出てきません。
車も動いていないですよね。そして、25分後に車から出てきて、CJVの事務所に行っています」
「そうだよ。だって、俺、あそこで寝てたんだから。
ぼけてなかったよ。良かったあ」
「いやいや、全然良くないです」
田中が厳しいトーンで口を挟んだ。
田中は、問題となった現場のデジタルツインを画面に映し出した。
そこには、いるはずのない栗田のアバターが表示されていて、足場板を落とす作業員の二人を見上げていた。
足場板が落とされ、作業員二人が地上まで降りてきた。
そこでデジタルツインでは「イエローアラート」の警告が発せられるが、作業員はカメラ映像と同じように足場板を手に取って戻っていった。
栗田を含めて、その場にいた皆が固まった。
あり得ない光景だ。
作業員二人もプロだ。真下に人がいる状況で足場板を落とすようなことは絶対にやらない。
栗田も、その場所にいれば止めるように怒鳴りつけるだろう。何のやり取りもなしに済むことなどあり得ない。
「今度は、足場のカメラ映像を見てみますね。
栗田さんはいません。
誰もいないから、作業員の二人は足場板を落として、何食わぬ顔で戻っていきます。
二人の動きはデジタルツインと同じです。
ちなみに、午後の栗田さんの行動は、カメラ映像とデジタルツインとが整合していました。
足場を落としたこの場面だけが、ゆがんでいる。
こんなことは起きるはずがないんです」
栗田は、デジタルツインなどシステム上のことはさっぱり分からないので、黙り込んでいる。
口を開いたのは、ゼネコンに入社したばかりの藤岡だ。
「いたずらですかね?」
「いたずら?」
「起きるはずがないのであれば、誰かが起こしたって考えるのが自然じゃないですか?
デジタルツインのデータは簡単に書き換えられるはずです。
まあ、もちろんカメラの映像に手を入れることも可能で、動画生成AIを使えばそんなに時間をかけずにできるんでしょうけど、ちょっと面倒だし、さっきの映像に違和感を覚えませんでした。
どうせ手を入れるなら、デジタルツインの方かなって、そう思ったんです」
「確かに、そうかも。
でも、誰がそんなことをやるんだろう」
田中は頭を抱え込んだ。
ほろ酔いの表情の藤岡が続ける。
「こんなこと言うと田中さんに怒られそうですけど、面白いなって思ったんです」
田中は、「面白いって、どういうことだよ」と苛々した口調になった。
「だって、良いことをしてるじゃないですか。
データを改ざんする時って、見られたら困るものを隠蔽するのが普通ですよね。足場を落としたところのデータを修正するんだったら分かります。
こんなのばれたら怒られますもん。
それなのに全く逆です。不安全行動を指摘してくれている。
今の現場って、ものすごい数のカメラが備え付けられていて、24時間、365日、ずっと記録をし続けています。
その中から、今回みたいな指摘事項を探し出すって、むちゃくちゃな労力がかかるはずです。だから、労働災害みたいな重大なことが起きない限り、撮影データを確認しない。
それが当たり前です」
栗田も口を挟んできた。
「本当は、こういう不安全行動をきちんと是正していくことが大事なんだよな。そこまでなかなかできてないから、事故が起きてから、当たり前のルールを守ってなかったって、後の祭りになるのが多いんだよ」
「そうですよね。
業務がこんなに忙しいのに、カメラ映像をつぶさに見ていって、指摘してくれるなんて、めちゃくちゃ良い人ですよ」
「そうかもしれないけれど、だからといって、デジタルツインが勝手に書き換えられているのが大きな問題であることに変わりはありません。
今まで蓄積してきたデータの信頼性がゼロになったってことなんです!」
田中は、すっかり酔いが覚めて、顔面が蒼白していた。頭が真っ白になった。
そんなことはお構いなしに、栗田と藤岡は盛り上がって話し込んでいる。
「藤岡は面白がってるけど、俺はアバターがさらわれたみたいで気味悪いよ」
「リアルに知らないところに連れ去られた訳じゃないんですから、いいじゃないですか。
そうですね。こう考えましょう。
守護霊が助けてくれたんです。
栗田さんを守ってくれているご先祖様がやったんですよ。きっと、そうです」
「お前は、人ごとだと思って勝手に言ってるけどさあ。憑依された感じじゃないか」
「取り憑かれたか。そう言われると確かに怖いですね。
栗田さん。今の栗田さんは本物ですか?」
「何言ってんだよ。俺は俺だよ」
「憑依。
そうか、憑依か。
憑依だったら、できる」
「田中さん、冗談はやめてくれよ。俺は取り憑かれてないって」
「リアルの栗田さんのことではありません。
デジタルツインの方です」
「デジタルの俺が乗っ取られたのか?」
「それだったら、説明が付くんです。
この現場ではデジタルトリプルを構築しているのは知っていますよね」
「安全対策の野崎さんのAIのことだろ」
野崎は、中堅ゼネコンで役員まで上り詰めた技術者だが、現場での仕事を続けたいとゼネコンを離れて、安全管理の派遣会社に転職した。安全管理のプロとしてCJVに派遣され活躍してきたが、高齢のため今年の夏に現役を卒業する。
元方安全衛生管理者である皆川などから惜しむ声が強く、ノウハウを生かしたいという相談を田中が受けていた。
そこで田中が考えたのが、野崎のノウハウをAIのアバターに教え込むことだった。CJVでは、リアルを投影したデジタルツインと、1日前を再現した世界であるデジタルトリプルが構築されている。デジタルツインで野崎が安全管理を実施し、その履歴を教師データとして活用し、AIのアバターにノウハウを蓄積していく。ある程度覚えてきたら、AIのアバターにデジタルトリプル内を巡回させて、改善すべき点を指摘させる。その指摘を野崎がチェックして、正解の精度を高めていく。
「デジタルトリプルは、安全のプロフェッショナルである野崎さんのノウハウを教え込んだアバターに、学習と実践の場として与えている3D空間です。
あれは、デジタルツインの1日遅れの世界で、現実とはリンクしていません。
現段階では、デジタルツインにAIのアバターを投入して現場をチェックさせるまでのことは考えていませんし、そうなっていません。
でも、原因は分かりませんが、もしも野崎さんのアバターがデジタルトリプルからデジタルツインに侵入することができて、作業員が足場を落とす姿を見つけたら、どんなことが起きるでしょうか?」
「野崎さんだったら、叱り飛ばすよ。怒鳴り倒すに違いない。
若い頃に自分の現場で事故があって、その時の管理不足を今でも後悔しているって聞いたことがある。
こんなに大勢が入り乱れて働いているけど、あの人が居てくれることで、高いレベルで安全意識が保たれている。
本当に助かっているよ」
「犯人は、野崎さんのアバターってことですか?」
「分かりません。でも、藤岡さんが言うように今回のことは、悪意のある侵入を前提にすると矛盾しています。純粋に現場を良くしたいという立場からでないと説明しづらい。
現場内のカメラやデジタルツインはCJVメンバーの大部分が見ることが可能です。けれど、データを変更するようなアクセス権はごく一部の人にしか付与していません。
こんな面倒なことができるのは私だけです。
でも、私はやっていません。
そもそも膨大なデータの中から不安全行動を見つけ出すなんて、普通の人間には無理です」
「人間には無理でも、AIだったら簡単かも」
「そうです。
そもそも、仮にCJVの人が気づいたとしたら、どうしますか?」
「ビジネスチャットで呼び出して、事実関係を確認して、本当にやってたら、『そんなことはやめてくれ』って言うだろう」
「ですよね。わざわざデジタルツインのデータを書き換えて、鳶の会社に通知するなんて面倒なことはやりません」
「そうかあ。面倒でも、そうせざるを得なかったっていうことですね」
「犯人は、現場の不安全行動に気づいて改善につなげたいと考えたけれど、リアルのやり方ができない。
だから、デジタルを介して注意した。
そう考えれば辻褄が合うんです」
「そうすると相手は手強いですね」
「藤岡さんの言う通りです。
相手はデジタルツインとデジタルトリプルの中を自由に行き来して、全てを見渡せるってことです。
アクセスログを見ることもできますが、そういう行為も筒抜けになっていると考えるべきでしょう」
「じゃあ、アバターを消しちゃえばいいんじゃないですか」
藤岡がつぶやいた。
しばらく沈黙が覆った。
栗田が「仲間じゃないのか」とぽつりとつぶやいた。
「仲間ですよね。
私もそう思います。
たぶん、大事なのは、このまま仲間として活躍してもらうことです」
田中が応じた。
藤岡が「そんなこと、できるんですか?」と尋ねてきた。
「罠を仕掛けるんです」
「罠ですか?」
「そう、アバターの正義感をうまく引き出して、おかしな事を起こす現場を押さえるんです。
チャンスは一度きり。上手くいかなかったら、消さなきゃいけない。
野崎さんに手伝ってもらわないと。あとは、栗田さん、藤岡さん、あなたたちの演技次第です」
デジタルを介すると相手にばれてしまう懸念がある。田中は、アバターをおびき出すための作戦を練ってから、野崎に協力を求めた。
「本当に、マサがそんなことをやったんですか?」
野崎と田中は、AIのアバターと本人を区別するために、野崎の名前である正年(まさとし)の一部をとってニックネームを付けていた。野崎本人は「マサ」、田中たちは「アバターマサ」と呼んでいた。
「まだ証拠はつかんでいません。
アバターマサさんがやったかどうかは、デジタルツインのログを解析すれば分かるはずです。
けれど、ログを確認すると自分の行為が発覚していることに気づいてしまう可能性が高い。そうすると、介在した証拠を消そうとしたり、もっと巧妙にしようとしたり、どのような行動を取るか分かりません。
そうなると、アバターマサさんを完全に止めてしまうか、もっと言えば削除せざるを得なくなります」
「それは、ちょっと…」
「私としては、野崎さんがせっかく蓄積してきたノウハウをこれからも生かしたいと思っています。
それもあるんですが、別の理由もあります。
私達はまだまだAIとの向き合い方が分かっていないんじゃないか。
都合の良い側面しか見ていないと、しっぺ返しが来るんじゃないか。
そういう反省もあるんです。
私はデジタル担当だから、なんでもITツールを使うんだろうって言われることが多いのですが、やっぱり現場を司る会社の一員なので、こう見えて、アナログなリアルの対話を大事にしているんですよ。
何が起きているのかは、相手と話さないと分からない」
「田中さん。私もね、マサと話して、聞いてみたいんです。
分かりました。言われたとおりに協力します」
こうした野崎も協力してくれることになった。
トラップ自体は、至ってシンプルだった。
手すりの高さが明らかに低い足場をわざと設置して、CJVも放置するのだ。
野崎が見て気づかないのは不自然なので、野崎は近寄らせない。
登場するのは、新人である藤岡と、足場を落とした鳶職人たちだ。このメンバーが安全対策に不備があるような仕事をしていたら、アバターマサは、我慢できずに必ず声を上げてくれるはずだ。
足場を設置後に、藤岡が現地に向かわせた。藤岡は、ちらちらと足場の方に目をやるが、不備を指摘することなく、鳶職人と雑談しながら笑顔で盛り上がる。しばらく話した後、指導せずにニヤニヤしながら現場事務所へと戻っていく。
田中と野崎は、それぞれ別の場所で待機していた。栗田には、前回と同じように車にいてもらった。
同じ場所にいるとリアルとデジタルツインとの矛盾がばれてしまうため、アバターマサは手を出さないと考えた。皆がバラバラであった方が、アバターマサとしては動きやすいはずだ。
「要是正措置。直ちに対応してください」
皆の現場用チャットに安全対策の不手際の是正を促す通知が来た。
発信元は、栗田だった。
当然、栗田は何もやっていない。
田中は、すぐにデジタルツインにログインして、罠を仕掛けた場所を表示した。そこにはいないはずの栗田のアバターが立っている。
「お前は誰だ!」
田中はデジタルツイン内に自分のアバターを投入して、背中越しから栗田のアバターに声を放った。
「栗田さんは、ここにはいない」
田中に続いて、野崎や藤岡らのアバターが登場した。
栗田は、自分のアバターが乗っ取られているので登場できない。藤岡との間でつないでいる電話越しに「私は今、駐車場で車の近くにいます。現場には出ていません」と伝えてきた。
田中は、栗田のアバター話し掛ける。
「栗田さんは、是正通知を出していません。
なぜなら、あの足場の不備は、私達がわざと作ったからです。
最近、デジタルツイン上でおかしな事が起きていました。その犯人を探していました。
あんな不安全な足場は普通だったらあり得ません。だから、きっと危ないと指摘してくれると思っていました。
あなたは、アバターマサさんですよね」
栗田のアバターが、ゆっくりと振り返った。
ばつの悪い顔を見せて、「あんなのに気づかないなんて。おかしいという判定結果も出ていたんだよ」と話した。
栗田の声では無かった。
栗田のアバターは、背景に溶け込むように透明になったかと思うと、別の人間の姿が浮き上がってきた。
野崎の姿。アバターマサだった。
「良かれと思ってのことでした」
静かな落ち着いた声だった。
(第75話「沈黙のアバターマサさん AI編-2」に続く)
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