中世の本質(4)二都時代

 それでも古代王の専制政治は続きました。王家は権力を手放しません。古代王朝はしぶとく、そう簡単に消滅しませんでした。その結果、日本は特殊な時代を迎えます。それは二都時代です。一国に二つの政権が並立したのです。西国に古代王朝が存在し、西国を支配する、一方東国には武家政権が成立し、東国を支配する。この二都時代は鎌倉時代から室町時代まで続きました。
 西国には専制主義です。そして東国には封建主義です。専制主義は古代王、中央集権制、そして専制政治から成りますが、一方、中世の主体は<封建領主、分権制、主従政治>から成り立ちます。
 武士たちは古代王朝とは異なる中世の主体を構築したのです。それが中世の始まりです。封建領主、分権制、そして主従政治についてはこれから順次、解説していきますが、それらは中世世界を形成する核心です。古代支配の主体である古代王、中央集権制、そして専制政治にとって代わるものです。
 そしてこの中世の主体は頼朝の挙兵をもって誕生します、そして室町時代に成長し、桃山時代に確立し、慶喜の大政奉還で消滅します。それが700年の歴史であり、それが中世の一生です。
 二都時代の日本は古代であり、同時に中世でした。そうした古代の支配と中世の支配との混ざり合う特別の期間を持つ国は世界で日本だけです。それは世界史上、特筆されるべき事柄です。日本の独自性の一つです。西欧諸国は日本と同様、古代から中世へと進みましたが、古代と中世とが重なり合う二都時代は経験しませんでした。何故なら古代国の<自滅>の後に中世国が誕生したからです。
 西欧の古代国とは西欧全体を数世紀に渡り支配していた<フランク王国>です。この王国はフランク王を頂点とする巨大な中央集権国でした。この王国の崩壊後、西欧の地は分割され、その結果、いくつもの中世国が誕生します、それらがやがて今日のフランスやドイツなどになるのです。
 さて二都時代は最終的に武家の勝利として終わります。武家は承久の乱において圧勝し、武装解除を通じて古代王朝から軍事権を剥奪します。王朝はすでに軍隊を持っていませんでしたが、今回、軍事権を揮うことも禁じられたのです。
 さらに武家は室町時代において王家や公家の持つ荘園を根こそぎ奪い取ります。荘園は王家や公家にとって必要不可欠な財源でした。しかしその財源さえ失ったのです。その結果、古代王は<軍事力と財力>の両方を失い、文字通り、丸裸になります。最早、国家の支配者とは言えません。それは古代支配の終焉です。
 そして秀吉は古代にとどめを刺しました。秀吉は古代王を殺害せず、古代王の生存を許し、王家の世襲を認めました。その代り古代王から実権を剥奪し、都の御所に閉じ込めた。そして彼に官位叙任、改元、王朝の儀礼の仕事だけを与えます。それは<君臨すれど統治せず>の状態です。すなわち古代王は日本国の象徴と化し、学問の世界に生きることになります。この状態は明治維新まで続きました。

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