中世の本質(10)中央政府と主従政府

 分権制は中世の不動の国家体制です。この分権制を廃止したものが明治維新でした。維新の革命家たちは藩籍奉還と廃藩置県を断行し、日本の国家体制を分権制から中央集権制へと変える歴史的な偉業を成し遂げたのです。
 版籍奉還において大名たちの領国、領民は(形式的に)古代王に返却されます、そして廃藩置県において大名たちの領主権は東京の中央政府に集約されます。江戸時代の260の藩が一瞬にして集中化された。
 その結果、領地の集合体は日本国土となり、領民の集合体は日本国民となり、そして領主権の集合体は国家権力へと転じます。それは国民国家の誕生でした。中世王を支配者とする分権体制は全面的に淘汰され、その代り新しい国家体制、すなわち憲法を支配者とする現代の中央集権制が出現したのです。現代日本の始まりでした。
 江戸時代の日本は明らかに分権国でした。江戸時代の日本が分権国であったからこそ分権制を中央集権化するという革命が成立したのです。従って江戸時代の日本を中央集権国と主張することは致命的な誤りです。それでは明治維新は成立しません、そして日本史は歪められてしまいます。
 すなわち徳川は専制君主でもなければ、国土を占有していたのでもない。徳川は関東の地といくつかの直轄地を所有してだけです。徳川は支配者であっても大名たちの領主権を尊重し、その自立を明確に認めていたのです。徳川はあくまでも大名たちの仲間であり、そしてその代表です。しかし絶対君主ではないのです。
 ですから大名たちは徳川の地方長官ではありません、しかし自立した存在であり、独自の領国を所有し、彼らの領民を支配する一国一城の主でした。江戸時代の大名たちを徳川の地方長官と指摘することも過ちです。
 革命とは歴史を画すことです。革命において支配主体は一斉に、劇的に交替する、それは国家が根底から変わることです。明治維新は支配者を封建領主から国民(憲法)へと変え、国家体制を分権制から中央集権制へと変え、そして政治を主従政治から民主政治へと変えました。
 ですから国家体制の段階的変遷は<古代の中央集権制――中世の分権制――現代の中央集権制>となります。それは日本史が三つの歴史、古代史、中世史、そして現代史から成ることを明らかにします。そしてそんな大変革だからこそ革命には常に流血の大惨事がついて回るのです。
 西郷や大久保は中世の支配主体を根絶した革命家です、彼らは大名たちの領主権を剥奪した、つまり廃藩置県を行った。そして大名たちの領国、領民を剥奪した。それは藩籍奉還です。廃藩置県と版籍奉還こそ革命の核心であり、中世の支配主体の廃絶です。
 一方、秀吉や家康は革命家ではありません。二人は頼朝以来の分権制を忠実に引き継ぐ中世王でありました。日本を中央集権化することなど夢にも思いませんでした。彼らは既存の支配体制を排除したのではない、しかしそれを忠実に支え、さらに高度化したのです。
 秀吉と家康は確かに中世社会を大きく成長させました。日本統一を成し遂げ、石高制を制度化した、あるいは大名統制を完成させ、長い平和な世を築き上げた。それは偉大なことです。しかしそれらは国家体制を変革する行為、歴史を画する革命行為ではありません。日本国が根底からひっくり返ったことではない。それはあくまでも中世史の一コマであり、中世国のたくましい成長過程です。中世は室町時代で終わりを迎えたのではなく、桃山時代へ、江戸時代へと連続していたのです。
 頼朝から秀吉まで武家たちは400年をかけて古代の専制主義を粉砕しました、それが中世化革命です。しかし明治維新において武家は敗北し、今度は彼らの分割主義が根絶されたのです。従って日本の支配形態は<専制主義―分割主義――民主主義>という興味ある推移で表されます。
 西郷や大久保は東京に臨時政府を開きます。それは現代日本の<中央政府>となるものです。中央政府とは文字通り、日本国の中心を示し、日本の国土、国民、国家権力(軍事、立法、行政、司法、課税、徴税など)を集中し、掌握し、日本を一元的に支配する政府です。
 一方、中世の幕府は中央政府とは言いません。それはいわば<主従政府>と称される存在です。何故なら鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も国土、国民、国家権力を一手に握る政府ではないからです。日本のすべては中世王と大名たちに分割、分与されています。従って幕府は中央政府とは言いません。幕府は将軍と大名たちとが合同で政治を執行する場です。つまり主従の政府です。
 これは単に言葉の問題ではありません、しかし中世の根幹についてのお話です。江戸幕府を中央政府と呼ぶことは大きな間違いです。それを中央政府と呼ぶことは国家体制というものを真に理解していないことを暴露する。歴史教科書や多くの歴史書は江戸幕府を中央政府と記述していますが、それは速やかに訂正されるべきです。
 主従政府は筆者の造語です。何故なら、今までそれを指し示す言葉は存在しなかったからです。それはこれまで中世という歴史があいまいな形で把握されていたこと、特に桃山時代や江戸時代の支配体制が曲解されていたことを示しています。この曲解については後で詳述します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?