武士論を検証する (12):武士の誕生   1180年 

 武士の最大の功績は双務契約の開発です。双務契約は本来、武士たちが無法の地で安全を必死に求める中で開発した安全保障ですが、それは彼らの思惑を超えて、中世世界を創造し、豊かに彩っていったのです。武士と双務契約は表裏一体の関係です。武士が双務契約を開発し、そして開発された双務契約が武士を動かす。
 双務契約は歴史教科書や歴史書において<御恩と奉公>と説明されています。あるいは<保護と忠誠>の説明です。それは決して間違ったものではありません。双務契約の姿は正しくつかめます。
 しかしもっと説明することも可能です。双務契約は中世武士を生んだ、中世の主従関係を形成した、<他者を認める>という中世思想をもたらした、分割主義を導入し、専制主義を粉砕し、分権国を建ち上げた。そして中世王権に二重性を付与し、領主権を確立し、さらに村自治を可能とし、中世人に中世の精神を叩き込んだことなどです。
 双務契約を通り一遍のお話で済ましてしまいますと、本来の武士像だけではなく、それがもたらしたたくさんの貴重な歴史産物を見失ってしまいます。双務契約は確かに武士の契約ですがそれだけの説明では物足りない。それでは洗練された武士像も豊かな中世像も見えてきません。そして何よりも日本史が精確に理解されない。
 武士は単に武家政権を樹立しただけではありません。武士は古代世界を日本史から抹消し、新たに中世世界を築いた、そして現代という新世界の誕生を準備したのです、それはまさに歴史的な偉業です。日本史を古代、中世、現代と段階的に発展させた人たちです。今日の日本は彼らの遺産の上に成立しているのです。
 歴史教科書や歴史書は主従関係には二種あることを解説しているでしょうか。というのは主従関係の解説は古代武士と中世武士との本質的な違いを明らかにするからです。古代の主従関係と中世の主従関係の二つあること、そしてその根本的な違いについて解説していますか。双務契約が中世の主従関係を編み上げたことを指摘しているでしょうか。双務契約を開発した頼朝や関東の在地領主たちの歴史的な功績を余すところなく精確に評価しているでしょうか。残念ながらそうした解説や指摘は見当たりません。
 古代と中世との区別は歴史区分をもって行われています。歴史区分は歴史を理解するうえで大切なものです。それは歴史理解の指標となる、そして歴史事実の解釈を左右します。そのために歴史区分の設定は慎重に行わなければいけません。
 一つの歴史とは国家が国家成立のための固有の基本要素(固有の国家体制、固有の政治形態、固有の王権、固有の人的関係、固有の思想、固有の地方支配など)を備え、それが数世紀に渡り継続する長い、長い時間です。
古代は古代の基本要素を持ち、古代史を形成し、そして中世は中世の基本要素を持ち、中世史を形成する。
 次の事柄は中世を構成する基本要素であり、中世国を成立させる核心です。―――双務契約、武士の<成り立ち>、<中世の主従関係>、<分権制>、<他者を認める>中世思想、中世王の<二重性王権>、<領地、領民、領主権>、<様々な国家分割>などです。
 これらの中世要素は中世世界の基盤です。それは鎌倉時代から江戸時代末期までの700年間、(武家の盟主が誰であろうと、そして社会がどれほど大きく変化しようと)日本を貫いて明確に存続しています。それ故その期間は一つの完結した歴史です。そしてその歴史は中世と呼ばれます。
 従って中世の始まりは中世固有の基本要素が揃い始めた時を指します。それは鎌倉時代の黎明期です。1180年です。筆者は中世の始まりを1180年と考えます。頼朝が関東武士と共に挙兵した年です。というのはその合戦の中で、頼朝と関東の在地領主が双務契約を実践したからです。そして新しい主従関係が結ばれ、本領安堵が行われ、領主たちの領地、領主権が認められた。中世武士の誕生です、武士が<成り立った>年です。関東の地に素朴な分権制が布かれた年、そして中世の分割主義が始まった年です。
 一方、中世の終わりは1868年です。明治維新です。中世要素が一斉に消滅した年です。革命家たちは武士という身分も、領主権も、大名領国制もそして中世の双務契約も主従関係もすべてを消し去りました。彼らは分権制を廃止し、代わりに中央集権制を布く、そして東京に中央政府を開府しました。中世封建世界の終焉です。そして日本を現代の基本要素――法治主義、民主政治、自由主義、資本主義など――で固め、<万民の成り立ち>を実現し、日本の現代化を推し進めていったのです。
 従って日本の歴史は古代―中世―現代という三つの歴史から構成されています。それが日本史の区分です。しかし歴史教科書は四つの区分を教えています。三つではありません。それは近世という歴史の加わったものです。古代―中世―近世―現代という日本史です。中世と現代の間に挟まって近世が存在する。
 桃山時代と江戸時代は近世と称されていますが、この二つの時代は中世の基本要素から構成されていて、それ故、中世に属しています。秀吉も家康も彼らの従者と主従関係を結び、全国に分権制を布き、王権の二重性を認め、領主権を尊重し、大名たちの領国経営を認めています。そして中世の分割主義が徹底され、領民は身分によって細分化され、仕事や住まいが決められ、その結果、農民たちの村自治も出現しました。武士も農民も成り立ったのです。桃山時代は中世の頂点でした。
 つまり桃山時代や江戸時代は中世の確立期であり、そして中世の円熟期です。桃山時代の日本は正真正銘の分権国です。頼朝が関東の地に築いたささやかな分権国が多くの試練を乗り超えて成長し、見事に成熟した。桃山時代には国民のほぼすべてが双務契約に加入し、中世人の成り立ちが実現され、鎌倉初期の素朴な領主権も戦国時代を通じて強固な領主権へと発展し、小規模な分権統治も国家規模の、緻密な分権統治へと拡大し、そして中世の分割主義は細分化を究めていきました。
 従って近世という代物は日本史のどこにも位置することはできません。居場所が無いのです。それは歴史のまがい物です。その中身は空っぽです。近世は近世固有の国家体制、政治形態、固有の王権、人的関係、思想、地方支配などを全く持っていない。桃山時代も江戸時代も中世固有の基盤の上に存在しているからです。つまり近世とは中世の一部、中世の後半部でしかありません。
 近世は歴史区分に参加する資格がありません。それにもかかわらず、歴史教科書は近世という歴史をでっちあげています。中世を室町時代で頓死させて、中世の後半部を黒塗りし、その代り、桃山時代や江戸時代を近世という<歴史にあらざる代物>で覆い隠してしまった。
 何故、このような重大な過ちが引き起こされてしまったのか、何故、歴史教科書はこんな嘘の歴史区分を掲げてしまったのか。(この原因については別稿で詳細に説明していますが)一言で言えば歴史の本質への無理解、無関心です。古代とは何か、中世とは何か、が論じられず、古代や中世の明確な規定がないからです。そしてそれ故、古代と中世の分岐や中世と現代との分岐もあいまいなままなのです。
 中世は定義されていません。従って中世の本来の終わりがいつなのかわからない。中世の終わりは明治維新においてなのですが、それがわからない。その結果、無責任にも土地制度や税制度の一大変化の起こった時、そしてそれ故日本社会が大きく変わった時、すなわち桃山時代を歴史の節目として捉え、その前を中世、その後を近世と処理した。その結果、中世は室町時代できれいにかき消されてしまったのです。
 困ったことです。社会の変化が歴史の移行期と勘違いされています。一つの歴史、例えば古代において日本社会は幾度も大きく変わっています。それは中世においても同じです。社会の変化と歴史の変化は全く次元の違うお話です。言わば社会の変化は小さなお話、そして歴史の変化は大きなお話です。
 にもかかわらず、桃山時代に起こった一大社会変化をもって日本史を操作し、室町時代を中世の終わり、そして桃山時代を近世の始まりと決めてしまった。歴史が精確に、本質の観点から理解されていれば、桃山時代の社会がいかに室町時代の社会と変わっていても両者の国家成立の基盤は何も変わっていないことに気付くはずです。それ等は共に中世の基盤の上に成立しているのですから。
 しかしそれは行われなかった。すなわち秀吉の日本統一や家康の強固な全国統治に目が奪われ、そして桃山時代に起こった土地制度や税制度の大きな変化に驚き、秀吉や家康を専制君主と見誤り、その時代の日本を専制国、すなわち古代国と曲解したのです。
 社会を大きく変えた秀吉や家康の揮う強権に惑わされ、中世王の王権と古代の王権とを混同してしまった。その結果、二人を絶対君主、すなわち古代王と見間違える。そして二つの時代の日本を中央集権制の国と錯覚する。
 目の前の目立つ現象に酔ったのです。そして歴史区分に必須な歴史の本質――基本要素――を見逃したのです。国家成立の基本など目に入らない。ですから古代王と中世王との区別ができていません、そして古代国と中世国との区別ができていないのです。両者はごっちゃ混ぜに混同されている。歴史の区分など無いに等しい。その結果、中世は誤解され、その途中でポキンと折られてしまった。そして日本史は四つに区切られたのです。
 江戸時代も誤って解釈されています。多くの歴史書は江戸幕府を<中央政府>と記し、徳川の制定した<武家諸法度>や<国替え>などをもって徳川の政治を<専制政治>と錯覚し、そして大名を徳川の<地方長官>と曲解しています。
 ここでも徳川は新しい古代王として、そして江戸時代は新しい古代国として表現されている。残念ながら中世の定義など見向きもされない。中央政府とは中央集権国にのみ存在するものであり、しかし分権国には存在しないものです。それは歴史学の基本です。江戸幕府は中央政府ではありません。
 さらに徳川が<日本全土を掌握>していたとさえ主張します。徳川は分権制を布いていたと認めながらも、同時に徳川は<中央集権的な統治>を行っていたという矛盾に満ちた指摘をする。大名たちは徳川の手先であり、地方長官と変わらないというわけです。
 それも暴論です。それは国家体制というものに無理解であること、そして<強権と集権>とを混同しているからです。そんな政治もそんな国家体制もありえない。徳川は確かに強権を揮って大名を厳しく統制していました、しかし大名たちの領主権を尊重し、彼らの領国経営には決して介入していません。それは頼朝以来の健全な分権制です。
 もしも徳川が錯乱し、<集権>を目指し、大名たちの領主権を侵し、強奪するようなことをすれば疑いもなく大名たちは一斉に反乱を起こしたことでしょう。中世王による領主権の侵害はフランス革命の発火点でした。
 18世紀後半、ルイ16世は財政難に苦しみ、国民のすべてから税を集めようと画策し、それまで認めていた領主たちの免税権を廃止しようとした。免税権は過去数世紀に渡り領主たちの特権、すなわち領主権として認められてきたものです。フランスは紛れもなく分権国であり、徴税権や司法権や行政権などの国家権力は領主たちの領主権として分割されていたのです。つまりルイ16世の政策は課税の中央集権化であり、すなわち分権制への挑戦であった。当然、領主たちは自分たちの領主権を死守しようとルイ16世と対立するようになります。フランス革命の口火が切られたのです。
 しかし徳川はブルボン王家とは違った、徳川は大名たちの領主権をもぎ取ることもなく、中央集権の世を造ろうとはしませんでした。頼朝以来の分権制を堅持していたのです。当時、徳川も財政難に苦しんでいましたが、それはブルボン家の財政難に比べると耐えうるものでした。フランスは過去一世紀、近隣の国々と戦争を繰り返し、戦費は膨大なものとなっていたのです。平和な江戸時代と比べることはできません。
 すなわち強権と集権とは全く違うものです。強権は文字通り、強い権力であり、しかし集権は国家権力を集中、一元化することです。ですから強権を揮うからそれは中央集権であるとする考えは決定的に間違っています。強権と集権とを混同するという単純な過ちは江戸時代を大きく傷つけているのです。これもまた歴史の表層だけを眺めた結果です。日本史の教科書は抜本的に改められるべきです。(これらの曲解や錯覚についてはその理由を別稿で詳述します。)
 さて筆者は中世の始まりを1180年と考えましたが、今日、中世の始まりは1192年、あるいは1185年と言われています。1192年は頼朝の征夷大将軍職への就任(鎌倉幕府の開府)です。そして1185年は守護、地頭による地方統治の始まりです。この二つは一見、いかにも中世の黎明を告げる事柄にみえます。
 しかし二つとも中世の始まりとはいいがたい。鎌倉幕府の開府は鎌倉時代の誕生です、しかし中世の誕生ではありません。鎌倉幕府の開府は頼朝たちの挙兵の結果でしかない、しかも開府が中世固有の基本要素を発揮しているとは言えません。中世の誕生とは先ず頼朝たちの挙兵であり、関東国の立ち上げ、そして双務契約や主従関係、本領安堵などの施行です。それこそ何よりも真っ先に中世の出現を表すものです。
 守護、地頭の設置も問題です。守護、地頭の設置は古代王朝の地方支配への挑戦であり、そして代わりに武家による地方統治を推し進め、武家による東国支配を完全なものとするための政策といえます。
 しかし守護、地頭の設置だけでは中世の始まりを示すものとはいいがたい。武家による新しい地方統治が始まった、だからそれは中世の始まりであるとするにはあまりにも現象的であり、短絡的であるといえます。というのは中世というものが地方支配だけではなく、双務契約、中世の王権、中世の人的関係、中世の国家体制、中世の政治、中世の思想などいくつもの中世の基本要素から構成されるものだからです。すべて、あるいはそのほとんどが出揃わなければ中世の始まりとは言えない。一点突破というわけにはいきません。
 しかも守護、地頭の設置は古代王朝の地方統治の二番煎じです。すなわち下級貴族の代わりに御家人が地方に派遣されただけのことです。地方統治の基本構図は古代と何も変わっていません。例えば清盛は不完全ながらも同様なことを推し進めていた。彼は身内や平家方の武士を全国に派遣し、平家の世を築いていたのです。従って守護、地頭の設置だけでは中世誕生を示すものとは言えません。
 歴史を本質的に把握するならば領主権の誕生をこそ問題にしなければいけない。守護、地頭の設置よりも武士が領地を所有し、領主権を揮うという点にこそ注目すべきです。本質論です。すなわち1180年の頼朝たちの挙兵です。主従関係を結び、武士が史上、初めて成り立った時です。武士の誕生、領地の認定、領主権の出現、そして分権制の始まりです。それは下級貴族が決してできないこと、清盛などの古代武士との決定的な違いであり、古代と中世とを決定的に分かつことだからです。
 1192年説も1185年説も共に鎌倉時代の始まりを示すものでしょう、しかし中世の始まりを示すものとは言えません。歴史と時代は違います。歴史の移行と時代の始まりとは違う、それは歴史の移行と社会の変化が違うように、です。中世の始まりは中世の本質を見極めること、そしてそれが初めて歴史上に現れる時を見出すことによって得られます。1180年です。
 さてこの武士論を終えるにあたり、武士の功績としてもう一つ付け加えておきます。それは武士が<政教分離>を果たしたことです。これも武士の行った偉大な功績です。武士が古代から続く巨大な宗教勢力を打倒し、政治を宗教から切り離し、<政治の自立>を確保したことです。政教分離は日本と西欧諸国だけで断行されました、彼らの中世においてです。
 それは特に戦国大名たちの手柄でした。武士の恐ろしい武力によって多くの有力寺院は攻撃、破壊され、炎上し、現世勢力を大きく削がれ、その結果、聖職者やその信者たちの政治介入は完全に阻止されたのです。信者を扇動するプロパガンダからの撤退です、そして刀や弓を手放すことです。そして寺僧は本来の信仰の世界に戻っていきました。その点、政教分離は中世の確立を示す一つの指標です。
 政教分離は宗教改革とは違います。宗教改革は日本、西欧、中東、インドなど世界の多くのところで行われた、いわば宗教界では普通のことです。それは信仰に篤い聖職者が現れて新しい宗派を作り出し、宗教を改良し、磨き上げることです。それは政治と宗教とを切り離すことではありません。
 但し、政治の真の自立は現代を待たねばなりませんでした。中世の政教分離からだけではなかったのです。つまり政治は宗教勢力だけではなく、特権階級からも分離されなければいけなかったからです。宗教の現世勢力と特権階級とこの二つが共に消滅した時こそ政治は真に自立したといえるのです。勿論、それは現代化革命において成し遂げられました。その時、政治は誰からも介入されず、自立し、ただ法によってのみ拘束されることになりました。すなわち法治です、法治国の成立です。
 政教分離を果たした武士たち(と騎士たち)の目覚ましい働きは別稿で紹介します。
 以上で筆者の武士論を終わります。
(この論文は別稿<中世化革命> からの引用です。アマゾンから出版中です。)

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