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大根供養のままごと

コンディションのよい野菜がお手頃価格で売られてるのを見るとパラダイスだと思ってしまう。でも、その状況は産地廃棄と隣り合わせだったりする。

こんなことなら、巨人に生まれてくるべきだった。そしたら一気に100本くらい軽く食べられたのに。でも、普通サイズの私には1日1本も食べ尽くせない。いま、美味しいのに。美味しさの盛りが、どこにも行けずに過ぎてゆく。もどかしい。

だからどうするべきなのか、私は分からない。策を持たない私は、いつもより多めに食べるだけだ。

美味しく調理されることの無かった大根、出会えなかった大根を思いながら、いま手もとにある大根を調理していく。調理する供養、食べる供養。虚しさの中にあって、粛々と手を動かす時間。供養の手順なんて知らないから、ままごとのようなことだけど。

おとといウチに大根が3本届いた。50センチくらいの青首が1本、聖護院みたいな丸いのが2本。

それで昨日の仕事帰りに、長いの丸々と、丸いのを半分まで使った。

丸いのは半玉を90度でスライスして、搾りたてのレモンと調味酢のしばらく残ってたのとで漬ける。ジップロックで。赤味が欲しくなったので唐辛子も入れる。これは割とすぐに食べられたけど、1日置いた今日の夜のほうが良いかもしれない。

長いほうも包丁が柔らかく入った。大きいから、スが入ったり芯のほうが青アザみたいになってないだろうか? していない、白がキレイな大根だ。これは、半分は皮をむいて厚めの半月に、半分は皮付きのまま乱切りにした。

半月のほうは、たしか辰巳芳子さんがなさってたのを何かで読んで憧れて、数粒の米を入れて下茹でする。婆さんたちは食品廃棄率にピリピリしない鷹揚なひとなので、私が大根の皮を使って1品余計に作るとイヤな顔をして棄ててしまうが、この転用のしようのない米粒のもったいなさなど微塵も気にしない様子には感動したものだ。そうした大根を昆布と竹輪と一緒におでんのようにした。

皮付きの乱切りは、おなじく皮付きのにんにくと冷凍庫に残ってた青唐辛子の刻みとでスパイシーさを添えた、甘辛い肉大根になった。これはこれで、ホクホクとした美味しさがある。

美味しさになれなかった大根を思いながら、調理して食べる。どこにも進めない気持ちがただ半径5メートルで循環を始める。

私の見る月には、野菜の塚がある。


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