第6話「猜疑の切先」『星霜輪廻〜ラストモーメント』第二章:月面編

一.
 ──事が動いたのは月面のスクリーンシフトが昼から夜へと切り替わった時分の頃だった。
 ……イターリア州の領域内において軍閥が蜂起。それは糸粒体戦争以来の欧州における騒乱の勃発でもあった。
「それで?」ヘアゴムを付けたまま、執行部会長:シルヴィアは重々しい口調で問いただす。
「詳細はまだ上がってきてませんが台下の叱責は必至ですね」
 起き抜けのシルヴィアに付き従いながら急ぎ足でキルクスへと登庁する監査部会長:リラ。手元には外部渉外用端末と部内連絡用端末を携えつつの慌ただしい出勤である。
「まさか例の件で?」
「それはまだ判断できませんが、IMMORTALS DEAD ENDイドの線が濃厚でしょう」
「ったく軍務庁スーツの連中まともに仕事しろよな」
 軍閥……軍務庁に登記簿を提出し活動実態を報告することで成り立っている公認の武装組織。本来であれば体制側──世界連合側の立場であるはずの軍閥の一組織が、イドに感化されて反旗を翻した。その予兆を掴めなかった軍務庁の責任でもあるとシルヴィアは訴えるが。
「イターリア駐在班からの評価表アセスメントを見て見ぬふりでいたのは殿下では?」
「は……私?」
 思わぬ指摘にキョトンとするシルヴィア。ようやく会長室に到着した二人は、座について役員たちの報告を矢継ぎ早に受けていく。

──イターリア駐在班からの情報では既に北部地域において侵食が進んでおり〝機関〟との伝達に支障が出ています……
──蜂起に関する第一報や次いで発出された被害情報を推察するに震源地はイヴレア近辺だと目されています……
──州政府の初動対応はどうやら失敗に終わった模様です……
──何やらリビヤ州でも不穏な動きが見られるとのこと、背後にはやはりフェザーンがいると思われます……
──不測の事態に備え、たった今入都管理局ニュートが月地間の往来を遮断しました。同様にリシャット基地も閉鎖済みです……

 報告の波が一旦は引き、シルヴィアは凝り固まった背筋を思い切り伸ばす。傍らではリラが空中に指を踊らせている。
「今上がってきた情報を纏めると、今般事案に関しては間違いなく特務課派遣事案ですね」
「とはいえホアンが許すか?」
 卓上に鏡を立て、長い髪をゴムでまとめるシルヴィア。視線だけリラの手元に向けながら、こなれた手付きでポニーテールを形作る。
「許すも許さないも今回は州を跨いでの大規模な反乱。あくまでも黄昏官は局所的対症療法の便宜に過ぎません」
「……まだイターリア州内で済んでるだろ?」
「在地とこちらの時間差、及びボルバ州知事の手腕、その他あらゆる情報を鑑みて、この反乱は州境を超えます」
 イターリア州知事、ネーロ・ボルバ。かつて州政府及びストール家の扱いを巡り政争を繰り広げその座を勝ち取った狡猾な政治家。
「まっ、あのヒゲジジイならやらかしかねんし。てか初動に失敗したんならその後の始末は推して知るべし、か」
「それより勘案すべきは反乱の原点では」
「イヴレア……ファクタ・マルグラーヴィオもう一人のジジイの生まれ故郷だな」
 トワイライト機関長:ファクタ。マルグラーヴィオとはイタリア語で「辺境伯」の意味を持ち、姓ではないがファクタはとうの昔にそれを捨てている。
 ボルバとの政争を経て月面へ逃れたファクタは、シルヴィア……そしてリラと共に連合職員として勤務。何かしらの縁によってシルヴィアが黄昏官を使役する立場となり、それに付随してファクタが機関長となった。その意図については、当時の桑茲司である弥神望月しか知り得ない。
「……まさかこの件は州政府の仕業だと思ってるのか?」
 不意に浮かぶシナリオに、しかしリラは首を横に振って応じる。
「それは恐らく……否、絶対にないでしょう。今騒ぎを起こして得る利益はボルバにとっては意味を為さないはずですから」
「てなるとやはりイドしかいないよな。文系派の軛から解き放たれて、今こそ国家分立の忌まわしき時代へ回帰しよう……と」
 連合創始の頃から反体制的活動を確認できる数少ない非公認軍事組織──通称:蛮族の一つ、「IMMORTALS DEAD ENDイド」。不死者、即ち延命施術を以て転生し半永劫の命を得る世界連合に対し死の終焉をもたらす──。
 蛮族・・とはいえ、イドの構成員に血統や文化的集団の要素は含まれておらず、謎に包まれた惣領のもと擬似的な国家を形成している。
「しかし本質は自己利益の追求。国家の分立を求めるのもその先に見据えるのは連合に成り代わり自らが人類社会に号令する未来でしかないでしょう」
「話をすり替えて正義を纏うのはどこも一緒だな」
「自戒ですか?」
「うるせえ、シッシッ」
 ズカズカと心の領域に踏み込もうとするリラを邪険にしつつ、シルヴィアは背伸びをして椅子により深く座り込む。
「では」
 そんなシルヴィアの対応に関心を示さず、ドアノブに手をかけるリラ。
「台下は? どうせおねんねの時間だろ」
「いえ、今日は確か喫茶店ありますのでまだ起きておられるでしょう」
「じゃあ話は早い。ファクタジジイは?」
「既に本庁舎ボイレへ」
「じきこっちにも話が来る。監査部会はすぐハンコ押せるように準備運動でもしてろ」
「殿下はごめんなさいSono costernatoの発音練習でもしててください」
「へいへい、さーせんさーせんMi Scusi!」
 足蹴にリラを追いやって、シルヴィアはまた一つ大きなため息をつく。
 リラの言っていた評価表アセスメントは、実のところシルヴィアも目を通していた。目を通した上で、看過できると判断したシルヴィアの観察眼については当然疑義が呈されるが。
「……にしてもイターリアにイドが?」
 シルヴィアが評価表にいまいち現実味を感じられなかった点、それは他ならぬイドの活動実態について。
 従前のイドとは明確な反延命反連合の蛮族であり、連合草創の頃から壊滅させるべき敵として認識されてきた言わば伝統的な敵である。そんなイドだったが地球各地に出没している訳ではなく、専ら糸粒体戦争以降は欧州の中でも三色ルーシ州~連帯フランク州の州境、かつて〝東欧〟と呼ばれていた地域に集中していた。広大な領域を引き継ぎ存在する二つの州に挟まれている同地域は如何せん両州行政の手の届かざる範囲と化しており、地球に跋扈する蛮族の内およそ三割ほどが州境で活動しているとされる。逆にいえば、東西南北――当然イターリア州も――強固な行政府が機能している州や地域には侵蝕できない、というのがシルヴィアはじめ連合側の共通認識、或いは固定観念だったという訳だ。
「想像以上にボルバ政権が弱っているのか?」
 それは至極自然な推測だった。今まで蛮族の騒乱が中欧に波及しなかった理由は、前述の通り行政府が機能していたからに他ならない。特にイターリア州や連帯フランク州東部地域旧ドイツは伝統的に地方分立の連合国家を形成していた歴史から、例え中央政府が弱っても地方の力が健在であることが多く、実際糸粒体戦争の結果連帯フランク州形成をもちかけたフランスや早々に解体されたロシアなどは中央集権的志向の強い国家だったことは言うまでもない。
 しかしその適例たるイターリアの辺境が侵された。ボルバ政権が弱ってもなお維持されるべきであろう州境も、次第に蛮族に圧され南下しつつある。
「地歴乖離の弊害か、或いは文系派の大罪か」
 そうはいってもこの事態を指を咥えてただ眺めることは許されない。例え相手がかつて自身を窮地に追い込んだ政敵だとしても、世界連合の一員としては助けなければならない同志である。
「まさかとは思うが……地中海派マーレ・ノストゥルムも一枚噛んでるのか?」
 地中海派、ローマ帝政期の版図を再現せんと隠然たる活動を行っている秘密結社……もとい政治団体、或いは派閥。旧国家興復勢とも目されることがあるが、一応理念としてはイターリア州の州域拡大という名目であるらしい。
「奴らにとってもボルバは目の上のたんこぶ。ボルバが文系派になびいていたらまた違ったんだろうが……」
 寝起きのぼさぼさの髪をいたずらにかき上げて、苦虫を嚙み潰したような表情で天井を睨みつける。
「あいつは人の下にはつかないからな」
 自治監理局の職員にパワハラをするボルバのザマがありありと浮かぶようで、シルヴィアの表情は硬軟織り交ぜた表情で首を横に振る。
「私の、仕事を済ませよう」

二.
 実質的に世界連合の政策を決定し、桑茲司の意志の指向を指示する権力を手にしたホアン。彼女の元に欧州動乱の報告が届くのはちょうど益江事件総括の報告書が届いてすぐのことだった。
「――委細承知、特務課出動準備の法令照会を至急頼む」
 内線のコールを早々に切り、ホアンは苛立ちを抑えられない様子でマイクを力任せにひしゃげた。
「トワイライトは何をしていたんだ!」
「……先日も意気揚々と大東亜州に乗り込み、何をしているのかと思えば棺を二つ担いで帰ってきた」
 高揚するホアンの声調とは裏腹に、既に三徹の影響で声がすっかり落ち込んでいるクロエの呟きが苛立つホアンの腹をくすぐる。
「チッ」
 席を立って広々とした会議室の一角に立ち尽くすホアン。つい先ほどまで同じく総括の総仕上げに掛かっていた検察職員たちはクロエの計らいで皆仮眠のため退室している。
「しかし話を聞いた限りだとイドの活動範囲を大きく逸脱していますし、まずはイターリア州にコンタクトをとるべきでは」
「忌まわしいものだな、宇宙というものは!」
「幸いあの時とは違い通信環境は良好ですし、ここは向こうが夜だとしても叩き起こして現状報告させるべきでしょう」
「ったく、こんなつまらぬことで手を煩わせやがって」
「それも今の閣下の職分ですよ」
「分かってる……分かってるさ!」
 大きく深呼吸を二度ほどして、ホアンは改めて座につき外線の受話器に手を伸ばす。
「シャドウ、ホアンだ」
『こちら内務市民委員会行政官官房』
「ごくろう、羅はいるか」
『羅行政官はただいま外出中です』
「外出……どこへだ」
『会食にでかけておいでです、勿論乾杯ありのですが』
「ったく、こんなときに呑気な!」
『言伝を預かりましょうか』
「いや、結構!」
 相手の返事を聞く間もなくコールを切るホアン。
「会食の場はあそこでしょうね、ここ最近人盛りのある第四階層の中華街」
 中華街――大東亜州発祥の月面人によって自然形成された繁華街。中華料理店が点在し、中には大東亜州から直接持ち込まれた食材や衣類、雑貨などを扱う専門店なども存在し、他の州と比べても在地環境との密接な繋がりが明白な〝脱法地帯〟でもある。そのような状況が半ば放置されている唯一の理由は、行政執行機関である内務市民委員会の行政官の座に羅啓明が就いているからに他ならない。
「飯はまあ旨かったですが」
 クロエも件の中華街には何度か足を運んだことがある。どこか懐かしみのある活気あふれた路地。ヘラス発祥のクロエにとっては、観光地然とした路地裏の繁盛ぶりに感慨を覚えてすらいた。だからこそ、羅の行動には何か別の目的がある、と考えていた。
「……チッ、羅のことは後回しだ」
 しかしホアンの頭は既にイドの件でいっぱいいっぱい――いや、ホアンにとっての優先事項である協調協約憲章改訂を進めるうえで最大阻害要因となったイドに苛立ちが全集中したといえる。
「しかし特務課はすぐに動けないでしょうし」
 頬杖をつきながら、クロエは視線だけをホアンに向ける。
「なぜ」
 平静を取り戻し、再び席を立つホアン。
「なぜも何も、誉志はじめ特務課に待機を命じたのは閣下でしょ」
「軍人たるもの平時であれ非番であれ鍛錬を続けるのが性分だろう」
「それはそうですが、向こうはとっくに解雇されるものとして認識してますよ」
「何が言いたい」
「このまま特務課に出動を命じれば、不本意に犠牲者を増やすばかりでは」
「軍隊の血が流れるのを恐れて防衛行動を躊躇するのか? 怪我を負うことを恐れて市民に背を向けるのか?」
「いえ、だからこそトワイライトです」
 クロエの意外な申し出に、ホアンはしかしニヤリとして虚空を睨む。
「不始末の責を当人に背負わせるのか」
「特にこの件はかの州guappoの領分でもある……諸々含めて体を張ってもらいましょう」
 イターリア州発祥者が役員の殆どを占めるトワイライト。今回のイドの件が全てトワイライトの責任ではないにせよ、その監視役としての責務を果たすという意味では黄昏官の出動は妥当な判断。
「おまけにトワイライトと州政府は仲が悪い……どう転ぶか〝見もの〟という訳だ」
「三つ巴の勢力図、どの色に塗り替えられるかは情勢次第。ただし、連帯フランク州の介入だけは避けなければならない」
 当然、協調協約憲章には州間の干渉行為は御法度である。ただし、憲章改訂以前に発生してしまった変事でもあることから、ニコライ行政官が提唱していた警察権の統合は未だ為されずじまい。と同時に、州兵による防衛行動は合法である。
 古来より侵略戦争は自衛戦争を僭称してきた。
「連帯フランク……特に西部地域旧フランスはイターリア州との因縁が深いですしね。糸粒体戦争の疲弊が旧ドイツと比べて高かった旧フランスですが、その原因の一つがボルバ政権の無策にあったことは自明」
 糸粒体戦争期、イターリア州はまだ国家の体を成していた。が、ローマを追われてのち故郷のイヴレアで再起を図っていたファクタと新政権を打ち立てたボルバとの間で膠着状態が続いており、フランスとの相互支援体制は無いにも等しい状況となっていた。ボルバはファクタを狙い撃ちしたあまり、内政を余計に混乱させ、イタリアは障壁なき国家となった。境を自失した国家は瓦解し、結果として伊仏の南欧は世界連合に吸収されていった。フランス、特にこの時期にフランス内政に携わっていた者たちからすれば、イタリアは自爆に巻き込んだテロリストだった。
「『病は地中海からやってきた』、当時のフランス政府はそう嘯いた。だがイタリアの連中は『病は暁の方角オリエント』からきたという。その実病なんていうものはカルト宗教がでっち上げた妄想だったのにな」
 幻想――老化という不可避の生理現象を遠ざけるべく、治療可能な病に見立てて処理しようとした二一世紀末。世紀が切り替わり新しい時代となってもなお、人々の間には不可視かつ不可避な老化病への忌避感、恐怖感が累積し、やがて一つの発露として戦争が起こった。
 糸粒体戦争……〝戦争〟とはいえ様式は非対称戦だった。味方なき味方を頼り、敵なき敵を討ち果たす限界戦闘。陸戦規定も適用されず、ただただ人間の生存本能が昇華し欲望のまま殺し合う非現実感。混迷につぐ混迷の末、欧州は疲弊し、堕落し、没落した。
「三〇年戦争の再来と叫ぶ者もいましたね。月面からでも欧州の戦火は確認できました」
「愚かだな、ヨーロッパは」
 ホアンの言葉の裏に含まれる意味を、クロエは察しつつも呑み込む。
「黄昏官を尖兵に。その間に特務課には準備をしてもらいましょう」
「降着地点はどうする」
「リシャットでいいのでは?」
 リシャット……リビヤ州にある世界最大の宇宙港。リビヤ州にあるとはいえ、実際にリシャット基地があるのは大西洋側であり、あくまでも飛び地に過ぎない。それでも古代にはリビヤという名称がエジプト以西の北アフリカ地域を指していたことからイターリア州の推挙によりリシャットはリビヤ州の管轄となった。……が、基地を統括管理するのはイターリア州の運輸省であり、また軍用基地司令は連帯フランク州から出向中のラヴァルに委任されており、リビヤ州の意志は反映などされていないのだが。
「幸い、騒動は地中海を越えてはいないでしょうし」
「まあまだ騒動が南下の途上にあるのなら半島の先に到達するのは当分は先……しかしなあ」
「ラヴァル司令が気にかかりますか」
 ラヴァル――アンリ・フィリップ・ラヴァル。連帯フランク州西部地域発祥の旧軍人。現在は州内務省勤務だが旧ドイツ閥と折り合い悪く、体よく〝出向〟という体で欧州大陸を追われた。
「今回の騒動、連帯フランクに飛び火していないの何故だ」
「それは時期的なものでは?」
「東欧地域が不安定なのは承知している。そこで跋扈していた蛮族や軍閥が四方八方東奔西走不法行為に勤しんでいたことも把握しているが、今般イドの動きは徹底して南へ向かっている」
 歯ぎしりをするホアンをみて、クロエは「まさか」と口を開く。
「裏で糸を引いている存在があると?」
「今欧州を牽引しているのは連帯フランク……中でも旧ドイツ発祥者たちの派閥だ。三色ルーシ州か、或いは旧フランス閥か」
「しかし月面の介入を招けばそれこそ望みなど叶うべくもないのでは?」
「そう……介入だ」
 クロエの疑問に、ホアンはポツリと呟く。
「現状変更を目論む者が、混乱をもたらし月面の介入を欲しているとしたら」
「……なるほど、それで真っ先に先遣隊がたどり着くのはリシャット……即ち旧フランス閥の拠点だと」
 リシャットで月面の使者を迎えたフランス閥が、そっくりそのまま切っ先を翻して大陸に向かわせる……。しかしクロエはやはりその考えにイマイチ納得がいかず、神妙な面持ちで天井を見上げる。
「無理があるな。はっきり言おう、私の個人的な心配事に過ぎん」
「まあある程度は察していましたが」
ラヴァルアレは好かん、小瓶のように誰に何を言われても飲みこむのだから」
「私は興味深いですよ。小瓶というよりかはプロテインシェイカーのようなもので、人の言葉を触媒に行動するという意味では、器自身にも意味はあると思いますがね」
「ふっ、そこだけ気が合わんな」
「そんなに気ぃ合いましたっけ?」
「言ってろ」
 そこへ鳴り響く外線コール。すぐさま羅だと察したホアンが内務市民委員会の赤い受話器を手に取る。
「シャドウ、ホアンだ」
 しかし返事はない。
「たぶんそっちですよ」
 クロエが指さすのは、緑の受話器――世界民政向上機関トワイライトのものだった。
「……ホアンだ」
 すぐさま受話器を持ち替えたホアンが、咳払い一つして応答する。
「こちらトワイライト、ファクタです」
 しわがれた男性の声、間違いなく――本人からのコールは極めて珍しいが――世民向の機関長ファクタ・マルグラーヴィオのものだ。
「これは閣下。既に蜂起の件は窺っています」
「ええ、その件ですが事態はどうもまずい方へ推移しておりますようで」
「と、いうと」
「イドそのものが今しがたアルプスを越えて連帯フランク州に侵入したとのことです」
「なんだと?」
「既に戦火はフランス側でも見受けられます……奴らは海へ出ようとしています」
「しくったか!」
 ホアンの言葉に、クロエは事態を察知する。
「急ぎ黄昏官はリシャットへ。こちらは特務課を準備させる」
 混沌の足音。不安と混乱の渦は、確かに地上をうずまいて人々に襲い掛かろうとしていた。

三.

 地上の混迷ぶりはどこへやら。月面世界は変わらぬ平静を保ち、平穏な時間が流れている。
「えーっと……由仁ちゃん?」
 由理が「メゾン22」に引っ越してから、早くも一週間が経った。同じマンションに住んでいる間柄ではあったが、ここ最近は由仁が由理の部屋に滞在する時間が増えている。
「なにぃ?」
 半袖シャツにだぼだぼのハーフパンツという部屋着のままで由理の部屋に転がり込む由仁。手にはコミック本、首元には自室から持ち込んだ低反発枕が備わっている。
「何ってほどじゃないけど……」
 言葉の通り、由理からすれば何かをとやかく言うほどのものではない。由理からしてみればプライベートの時間というものは今までもあってないようなものだったし、初めての一人暮らしということもあって知っている人が同じ空間にいてくれるのはむしろありがたいことでもある。ただしかし……
「家賃もったいなくない?」
 実に半日。いうなれば起きている間は〝ずっと〟由理の部屋にいる訳である。
「もったいない……、でも払ってるのは僕じゃないし」
 気怠そうな様子でコミックのページをめくり、今度は片手に持ち替えて虚空を探る手ぶり。
「あー、カスミさんかな」
「それもそうだけど、まあそんな具合かな」
「だからこそだと思うんだけどなあ……」
 何かを探る由仁の左手に、由理はテレビ鑑賞の片手間につまんでいたポテトチップスを一枚挟ませる。
「おっ、気ぃ利く~」
「利く~じゃないでしょ」
 それでも由理は由仁に視線を向けることはなく、その眼はジッとテレビにくぎ付けだった。
「何か面白いのやってる?」
「いいや、ずっとニュース。ヨーロッパが大変なことになってるよ」
「いつものことでしょ」
「そんなこと言ったって……」
 由仁の言動に呆れつつ、由理は新調したばかりのウェアラブル端末「プロビデンス―パスカリスproモデル―」で情報を検索する。
「蛮族〝イド〟の勢いは留まるところを知らず、ついに連帯フランク州州境まで迫っている……そうだよ」
「〝イド〟か……。由理ちゃんはどれくらい知ってるの」
「え、イド? まあ蛮族だから、ならず者の集まりみたいな?」
「半分正解、でも半分間違い」
 コミックを投げるようにして起き上がった由仁。
「カスミからチラッと聞いたんだけどね。実はイドは元々国家だったらしいんだ」
「国家……、でもそれって蛮族が意味するところと変わらないんじゃ?」
「そうさ。国家は野蛮だし、それを構成する人たちは蛮族そのもの。でもイドはそうじゃない」
 懐から液晶パッドを取り出した由仁は、メモ機能を起動させて由理に講義を始める。
「まずイドには議会がある」
「ぎ、議会!?」
 素っ頓狂な声を上げて、由理は目を丸くする。
「まだ驚くところはあるよ……、イドには法があって、それに縛られる人民がいる」
「それは確かに国家かも……」
 排他的領域・主権・人民。かつての国際法上ではこの三要素を満たすことが国家を成す条件と見なされていた。即ち領土・領海・領空の排他的支配、内政外交において排他的統治権を持ち、その枠組み内に生活する人民が存すること。
 しかし現在、国家の存在は否定されている。おまけに国家の様態へ回帰しようとする動きは厳しく糾弾され、討滅されている。
「イドは絶対的な領域を持たないんだ」
「つまり……定住しないってこと?」
「そう、だから余計に厄介なんだ。あちこち転移して、おまけにその規模も計り知れない。さながらイドは蛮族の中でも対処の難しい、癌細胞だってね」
 癌細胞。対症療法ばかりに手を焼いていると、世界のあちこちに転移していずれ世界連合に対して不可逆的な悪性の予後をもたらすことになる。
「今頃内務市民委員会ラウンド世界民政向上機関キルクスもてんやわんやだろうね」
「でも月面世界こっちはみんなどこか他人事だよね」
 そういって由理はチャンネルを回して各局の放送状況を回し見る。ニュース専門チャンネルを除けば他のチャンネルはどこも通常の番組編成だ。
「そりゃね、いってみれば対岸の火事どころか対星・・の火事だから」
「呑気だね、月面の食糧事情は七割から八割も地球頼みなのに」
「だからケプラー計画じゃないか。準備なんていくらでも、それこそ地球から攻めてこない限り安泰さ」
「だからそうやってコミック本ばっかり!」
 再び読書に耽ろうとする由仁の手からコミックを奪い取って、無情にもパタリと開いていたページを閉じる。
「ああ……」
 観念した由仁が、今度はゆっくりと立ち上がるとキッチンの引き出しを開けて茶パックを取り出す。
「よく知ってるね」
「いつも飲んでるし」
 あっけらかんと答える由仁。
「あっ、だから最近減りが早いなって思ってたんだ!」
「気づくのおそ……」
 呆れ気味にヤカンを沸かす由仁。ふと思い立ったのか、火元の加減をしゃがんで確認しつつ口を開く。
「そういえば総括が終わったって聞いたよ」
「あ、うん……」
 さっきと変わって声が萎む由理。
「あんまり良い結果ではなさそうだね」
「私たちにとっては、だね。なさっちのお父さんや、アサミさん、それにおっさんたち……新しい時代からすれば、みんな旧時代の傷物だし。むしろこれでよかったんじゃないかって、そんな感じ」
 坂入奈佐は求刑通り。他にも坂出重成や成宣、それにアサミと浅黄田弓。総括の結果文系体制派のもとで州昇格を虎視眈々と狙っていた者へ課せられた、新時代への渡し賃。命こそなくさずに済んだとはいえ、当然理系派の時代では色眼鏡でその活動を監視されることになる。
「不合理だよ。自由意志の犯罪じゃないんだ、強いられてやっただけなのに」
 由仁の言葉はどこか由理に刺さるものがあった。自分の意志で選んだことじゃない。限られた手札の中で自分の意に沿ったものを選んだだけ……、そんな言葉が脳裏に反芻して、いつものように己の耳元で「選ばされた」と囁く別の自分がいる。
「それでも人は裁かれないと。自分のため、社会のため……」
「でも誰かを裁こうとするのはまた別の誰かの意志だよ」
 虚空を見つめる由理と、コンロの揺らぐ炎を眺める由仁。
「――じゃあ公平公正な裁きを万民平等機会均等に与える完全無欠の裁判官がいないとね」
 二人のやり取りに、身もふたもない回答をぶつける第三の声。
「あ、カスミ」
 キッチンの窓から顔を覗かせるのは、由仁の代理保護者カスミ。
「どうしたんですか?」
 窓の鍵を閉め忘れていたことに驚きつつ、由理はカスミの後方をみてため息をつく。
「元気そうね」
 肩越しに顔をひょっこりと出すのは、同じく由理の代理保護者アサミ。
「実はね、話があるの」
 カスミと共に室内へ進入したアサミ。手には何かのチラシを持っている。
「なんですかこれ」
 有無を言わさずアサミの手からチラシを取った由理が紙面をまじまじと見つめる。
「あっ、もう『葉月祭』の季節か」
「はづきさい……?」
 キョトンとする由理に、得意げな様子で由仁が語りだす。
「『葉月祭』、つまり始祖公:弥神葉月の偉業をたたえるお祭りさ。毎年この時期になると世界連合創始記念として盛大に行われるんだよね」
 先刻とは打って変わって明るい話題に、なおついていけない状態の由理。
「え、でも地球では紛争の真っ最中なのに?」
「だからこそ、月面は祭りに高じないと」
「いつもの、威厳とかいう奴ですよ」
「セレネスの気持ち悪い所ね」
「セレネスってよりかは人間のでしょ」
 カスミとアサミのやり取りに眉をひそめつつ、由理は由仁に耳打ちする。
「由仁ちゃんはあまり興味ないでしょ、こういうの」
 ところが、由仁の反応は由理の想像していたものとは正反対だった。むしろ、
「いいや、行こうよ。せっかくなんだから楽しまないと!」
「え……?」
 紛争、政争、ときどきお祭り。波乱の祭典はひと月後に迫っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?