第5話「まやかしの月都」『星霜輪廻~ラストモーメント』第2章:月面編

一.
 月面中枢都市「コペルニクス」。スクリーンシフトは昼だが地球準拠標準時は真夜中の二時。人間の体内時計は悪魔の小腹を空かせる頃合いだが、月面都市は依然太陽光に包まれたまま。
「――だそうだ」
 すっかり休日ムードのクロエ・ヴァンサンは、カクテル片手に同席する女性――誉志天音に今後の中央政界の動向を伝えている。
「すっかり理系派が政権を盗って・・・しまったのですね」
 かくも嘆く誉志の手にはウィスキーのワンショットグラス。
「盗ったとは人聞きの悪い。そっちがやり方を間違えただけだろうが」
「同じ轍を踏まなければいいんですが」
「それは……まあ」
 本来であればクロエが口うるさく抗弁するところなのだろうが、やけにクロエは神妙な表情でカクテルグラスを傾けてはため息をつくばかり。しまいにはグラスの縁に刺さっているブラッドオレンジを引き抜いて口にすっぽりとはめて目をつぶる。
「何か心配事でも?」
「あー……、そうなあ」
 皮を残して身を剥いだクロエは、口をもごもごさせながら誉志への回答を思慮する。
「……まあきっと羅行政官のことでしょうね」
「分かってるなら考えさせるなよ」
 グラスを一気に傾けてカクテルを喉の奥へ流し込むクロエ。代わる代わる、次のカクテルがマスターから送られてくる。
「羅啓明はクロだ。あいつは大東亜州に便宜を図っている」
 こそこそと、アルコール混じりの呼気を漏らしつつクロエは小声で内情を知らせた……つもりだったが、
「そんなこと、誰でも知ってますよ」
 あっけらかんとした誉志の様子に、クロエは目を丸くして首を傾げる。
「だったらなぜニコライ行政官は何もしない。シュリッツさえ」
「内務市民委員会の冷遇ぶりはあなたも知ってるはずでは?」
「ああ……、一月体制以来内務市民委員会は桑茲府との折り合いが悪く、そのせいもあって国際財務調整共同機構からの予算配分も減らされていたと」
 元々内務市民委員会は世界連合以前の世界警察の発展昇華の組織に位置づけられ、当時権勢を奮っていた「賢人会議」への対処にあたっていた。
 「螺旋開綻抗争」が終結し、桑茲府優位の体制となると、今度は内部で権力闘争が勃発。内務市民委員〝部〟は八月体制を率いる弥神葉月のもと弥神文月を追い出し、追い回し、最終的に暗殺へ結果を導いた。
 その後は桑茲司の迷走に伴い内務市民委員会の趨勢も混迷・低迷し、ついに一月体制の予期せぬ終幕に伴いその権威は地に堕ちた。
「内務市民委員会の会計は火の車。そこに助け舟を出していたのが大東亜州だったわけで」
「つまりはノッポ爺ニコライヒヨリ爺シュリッツも財布の紐を大東亜州に掴まれていたってことか、あれほど騒いでいたウラジ閥ではなく」
 大きなため息をついて、クロエはマスターに掌をかざして首を横に振る。
「文系派への粛清は同時に今まで何不自由なく使えていた予算の調達が難しくなることを意味します。まあ在地経済と深く結びついていた権力構造がそっくりそのままひっくり返るのですから当然といえば当然ですが」
「それだ、私が言いたいのは。結局のところ大東亜州が間隙をついて諸機関・機構に財を融通をすることで理系派の政権は辛うじて保てているといっていい」
 それは脆く危うい均衡だった。国家を否定し、国際関係を打破し、全く新しい概念を引っさげて人類領導の座に就いた世界連合だが、やはりその運営に在地=地球における経済活動の結果生じる財産はなくてはならない。かつては文系派を通して地球上からまんべんなく集められてきた上納金だったが、政権崩壊に伴い在地でも混乱が生じ、あちこちで軍閥や蛮族の抗争が乱発している始末。おまけに国際財務調整協同機構はヘルマンの意図により個性を持たぬ人格が運営を行っており、こちらも即応性に欠ける。
 一方で、文理両派に顔を利かせうまく舵取りを行ってきたのが大東亜州だった。中でも羅啓明は、名を表に出さぬことで文理両派の対立から一線画すような立ち位置を維持し続けた。これこそが月面にあってロームルの耳にその名が届かなかった所以でもある。
「政策実現のためにはカネの力がいる、それは分かる。しかし信念を捻じ曲げられるほどの財力を前に、私は……理事長は己を保ち続けることができるだろうか」
「おや、これまたそぐわない悩みをお持ちで」
「茶化すな。そういうお前だって特務課が無くなるかもしれないって時に、聞けば図書館に入り浸りだというじゃないか」
「私は好き好んで今の職種に就いたわけではありません。そこはニコライ閣下に恨み節の一つや二つ持っています」
「なんだ、じゃあ本当に司書さんになるのか」
「とはいえ、今の混乱した世間をほったらかしにしたまま学問の道に逃げるのは私の性分でもありませんし」
「お前そういう負けん気なところあるよな……」
「ですから、図書館に通っているのは理論武装の兼ね合いもあります。趣味の部分もないといえば嘘になりますが、もし特務課の行方に何か動きがあれば、私は法を盾に抗うつもりです」
「なんだ、そういうことなら私に言えばよかったのにな」
「検事総長にはもしもの時の力仕事を」
「逆なんだよ、役割が」
 しかしクロエは満更でもなさそうに、最後のカクテルを流し込む。
「……とはいえこの世は演劇の舞台、お互い役割を背負わされてかくあれかしと生きているのは滑稽ではあるがな」
 頭に手をやり、ぼさぼさと髪の毛をかきむしるクロエ。まるでガラにもないことを口走ったと悔いるように、カクテルグラス横のお手拭きで顔をごしごしと拭く。
「似合わぬ役は窮屈ですがね」
岩窟に投影された影まやかしを見て楽しめるほど私たちゃ暇じゃないがな」
 すっかり頬が紅潮した様子のクロエは、そろそろ仕切り時だと財布を取り出す。
「もう上がりですか」
 片や誉志といえば相変わらずウィスキーをショットで飲み続け、それでいて顔色は平静のまま。
「今日はチートデイとはいえ流石にこれ以上はまずいだろ、私ゃ明日も早いんでね」
「それはそれは、天下の検察は大忙しで」
「羨ましいか、なら私の代わりをやってくれ」
 特にクロエにとっては、ここ数年の業務は多忙に多忙を重ねる日々であった。益江事件の総括が遅々として進まない中、全世界における文系派の粛清、同時に平時の犯罪に対する捜査及び検挙も枚挙に暇がなく、文字通りクロエは過労状態に陥っていた。
「だからこそ黄昏官も駆り出されての一連の捜査だったのでしょうが」
「全く、理事長に恨み言の一つや二つ言いたいな」
 クロエの場合、ホアンの事情を知っているがゆえの辛抱でもあったものの、他の職員からしたら恨み節の一つや二つ出るのは当然のこと。中央組織から離れれば離れるほどに報酬と職務の増減が反比例するように、今般の一連の捜査によって末端組織の職員がホアンを始めとする理系派への不信感を募らせるのは必定のこと。
「まあこれで、そちらの悲願ともいえる『憲章』改訂作業に移れるのですから、良かったのではないですか」
「さっきからヤケに他人事だな」
「事が軌道に乗れば、警務官……もとい特務課の管轄はシャドウに移管される、と」
「はぁぁー、それよなあ」
 意外にも、クロエは面倒そうなため息をついて空のグラスを人差し指で小突く。
「どうしました、総長にとっては悪い話ではないはずですが」
「確かに私は〝警督官構想〟を提言した手前、警察権の糾合には賛成だし、むしろ早くそうすべきだとさえ思ってる。思ってるが……」
「特務課は手に負えないと」
 ニヤリとする誉志を一瞥し、クロエはますます肩を落としながら首を横に振る。
「私が求めているのは司法の迅速化。文字通り世界を統合した連合は、地球・月面・火星の三星の治安を管轄しなければいけない……しかしここ最近は圧倒的な人手不足でてんやわんやで、その結果蛮族どもの増長を許したし、軽犯罪発生件数も右肩上がりだ」
「おかげで第三軸トワイライトにもスポットライトがあたるようになった」
「おまけに一次捜査の担い手であるはずの警務官は文系派によって骨抜きにされ、行政の番犬になり下がった。今飼い主から解放されたとて、牙の抜かれた番犬に役割など求めるべくもない」
「なら尚更良いことづくめでは?」
「特務課は連合唯一の暴力装置だと長年言われてきたが、軍務庁による軍閥登記管理や黄昏官の設置によってその意義すらも霞んできた。おまけに糸粒体戦争前後では失策を重ねて自ら威信を地に堕としてきた」
「その辺は私ではなく先代の話ですが」
「しかしそうはいっても特務課は特務課だ。その一挙手一投足には法の制限が掛かり、行動範囲はもちろん実力行使の規定も生半可ではなく厳しい」
「それはもちろん、その通りで」
「その特務課が警督官と呼ばれるグループにカテゴライズされる。法の下使役されるはずの猟犬が、囲われている檻を抜け出し、いつの間にかハンコを押す立場になる」
「特務課出動が今まで以上に恣意的になると、そう心配しているのですか」
「ニコライ行政官やシュリッツ長官がどう考えているのかは分からないが、羅啓明だけははっきりわかる。そうならないよう、シャドウが抱えようとも思っているのだが……」
 羅啓明への疑念。理系派の肩書を引っさげておきながら、一方で在地では文系派寄りの顔を持つ二面性の行政官。名を隠し顔を翻し影を縫うように忍び寄る羅啓明――大東亜州の食指は、文系派の牙城が崩れたことにより一層増長している。
「そうなると、在地情勢にも目を向けなければ。目下注視すべきなのは――」
 誉志の言葉に、クロエはその意を汲み取って右手で狐のポーズをとる。
「日本。そして今日本列島で大東亜州に拮抗しうる勢力を保っているのは」
「日本自治区、いや……」
 クロエはニヤリとした上で、首を横に振りぽつりと呟く。
「苦手なんだよな、ああいう手合いは」
 ちょうどクロエが視線をカウンター横のテレビに移した時、画面にはある会社の広告が流れていた。延命社会を根幹から支える企業、帯電結晶を冠する社名を掲げるそれは、ますます躍進の一途を辿っていた。

二.
 LCライフクリスタル社。本社ビル群がそびえ立つコペルニクス第二~第四階層は、まさしく世界連合と肩を並べるにふさわしい荘厳さを月面世界に、ひいては在地に見せつけている。
「……LCルクスなくして、光なし。宵闇に光をもたらし、迷える地表に先達するは――」
 真昼間のコペルニクスのダウンタウンを見下ろしつつ、LC社最高顧問の座に就くロームルは一人ぶつぶつと社是を唱えている。
「ふぃー、穴場発見しちゃったな……って」
 そのロームルの背後に湯気を纏いながら現れたのは、現社長でありロームルの実の妹でもあるレーム。
「お邪魔してるよ」
「見れば分かるけど……」
 温泉マークの縫い込まれた手ぬぐいを首に掛けながら、レームは社長室にあるまじき牛乳専用冷蔵庫を開いてキンキンに冷えたコーヒー牛乳を二本取り出す。
「姉さんも飲む?」
「いいや、あたしはいいや」
「あっそ」
 ロームルに断られて一本しまい直すのかと思いきや、レームはどちらも開けて同時に口に流し込む。
「リフレッシュできた?」
「むむ、むん」
 ごくごくと喉を鳴らしながら、レームはただ人差し指だけを突き立てる。
「んん、この匂い……いつものとこじゃないね」
「匂いって、さすがにきもい」
 湯上りのレームからはその日入った銭湯の泉質の匂いがするとロームルはいう。当のレームからすれば馬鹿げた話だと一笑に付すが、意外にも今まで一度も外れたことはない。
「でも確かに今日は初めて行ったところだった。例のアパートの近くのとこ」
「あー〝メゾン22〟だっけか」
 社長室のスクリーンを暗転させ、ロームルは背伸びをする。
「姉さんの言う通りだったよ」
 ボサボサの髪を櫛で整えつつ、大きく欠伸をするレーム。
「ああ、秋津阿見あの女の」
「どうやら東瀬由仁あの子と一緒に住むらしいけど」
「そう……、シュゼの準備が整うまではその子は帰してはダメだからね」
「分かってるけど、こっちにはもう由仁がいるんだし」
「いいや、大東亜州はきっとこちらの手の内を知ってしまった気がするんだ。その証拠に」
 ロームルがポケットから取り出した一枚の写真。
「これは?」
「李蘭月というらしい、もうじき一七歳になるそうだ」
 写真に写るのは華奢な少女。高そうな仕立ての良いスーツに身を包む男たちに囲まれて、いかにも大事に育てられているような箱入り娘。
「それで?」
 レームはロームルの次の言葉を待ったが、対してロームルは何も答えることなくレームを見つめる。
「……いつ?」痺れを切らし、言葉を紡ぐ。
「来月、あるいは再来月。表向きは蛮族討滅作戦」
 文系派による一連の汚職事件が発覚してからこの方、黄昏官は多忙を極めている。それは武力の威圧であり、反対に司法の抑圧を推し進める検察官と合わせて、理系派政治の象徴と一部州では目されている。
「その子自身は何も知らされていないのに」
 無垢な笑顔をカメラに向ける少女の輪郭を、レームはゆっくりと人差し指でなぞる。
「路傍に生える草も、生まれた理由生きる術を知らされぬまま刈られていく」
 ロームルの言葉選びを、レームはあまり好まない。それは初めて知り合ったフランスにおいてでさえも同様で、1期のレームは相対するロームルの本質を会談の場で見抜いているほど。
 それでもレームは延命社会をロームルと共に歩んでいる。これまでも、これからも、凸凹の姉妹として。
「あのめんどくさそうな行政官さまは?」
 レームから見た羅啓明。その殆どは事務局長時代の記憶にしか存在しないが、それでも対連合の折衝を務めたレームからすれば、羅啓明の言動はたった一言「めんどくさい」に尽きた。
「次期桑茲司推戴は禁忌中の禁忌。一度露見すれば死刑では済まない」
 桑茲司に就位する条件は意外にも明文化されておらず、良くも悪くも世界連合全体にとって桑茲司とはとっかえひっかえが可能な御輿である。桑茲司の発言力の強弱よりかは、その桑茲司を支える陪臣たちが如何に権勢を誇っているか、不合理に不条理に常識の大海を揺蕩う時勢において明確な政権の指向性を示せるかが体制持続の要点であり、実を言えば桑茲司の存否は重要ではない。その証拠に一月体制の弥神睦月が過労死したのち、継承戦争を経て弥神如月が正式に就位するまで世界連合は桑茲府官房長官のフレイが執政した経緯がある。
 しかし、ロームルが言うように『次期桑茲司推戴』は禁忌でもある。世界連合は一天一頭の政治体制であり、桑茲司ただ一人が人類社会を統治する、というのが根幹の原則である。それは一方で桑茲司の並び立つを良しとせず、今在る桑茲司の今後を予測して備えるという行為自体が許されざる背信と見なされる。今現在存在する桑茲司は、言い換えれば世界を動かす有力政治集団の権勢そのものであり、かつては文系派がその座に収まっていた、ということでもあった。
 だが、弥神皐月は――その支持基盤でもあった文系派を王道の名の下切り捨てた。道理を重んじ背徳を断罪した先にある道は、傀儡か廃位か。
「大東亜州は乗り気らしいけど、羅は慎重だと」
「なら……」
 そう切り出すレームの唇に、ロームルはそっと指をあてる。
「ヘルマンとダッチ、あの二人の牙城を切り崩すのは骨が折れた。でも奴らの傍にマコーンがいた……理想よりも欲に忠実だった犬が」
 その言葉を聞き、レームは嘆息し首を横に振る。「羅啓明も同じくってこと」
「これはシュゼの見立てだけどね、ホアンと羅の間の隙間風を増幅させるのさ」
「その餌がこの子?」
「奴は……羅はきっとホアンが命じたと思うだろうからねえ」
 軽快な物言いで、ロームルはふと表情を緩ませる。
偶像まやかしに縋ることの愚かさは推して知るべし。産まれなければ幸せだったのにね」
 後日、黄昏官は蛮族討滅作戦の発動を受けて海南島へと降っていった。作戦の結果、蛮族の領袖と一人娘が殺害され、一行は月面に帰還した。
 嵐の大洋に到着した二つの棺のうち、キルクスに届いたのは一つだけだったという――。

三.
 とある日のこと。ようやくスクリーンシフトが昼から夜へ変転しようとする頃合いに、由理は奈佐と千縫を連れて「メゾン22」を訪れていた。
「凄いなんというか……」
「平凡な建物」
 奈佐と千縫の微妙な反応をよそに、由理は由仁のいる部屋の扉をノックする。
「……留守?」
 二階建ての平凡なアパート「メゾン22」。由仁が入居しているのが二階の奥の角部屋で、由理がこれから住み始めるのがその一個隣の部屋。
 二階へ上がる階段はメッキが剥がれて所々下地の鉄が見えていて、さらには体重が軽めの奈佐が通るだけでもミシミシと悲鳴を上げる外廊下。印字が掠れてしまって溝の部分で解読するしかない部屋番号の札を一つ二つと数えていき、いよいよたどり着く由仁の部屋は五番目。
「インターホンついてないの?」
 奈佐の台詞に、由理は背中を向けたまましっかりと頷く。
「だ、大丈夫か……?」
 眉をひそめる千縫が優しく由理の肩を叩く。「安さだけで決めちゃった?」
「そんなことないけど……」
「けど?」
「思ってた以上かも?」
「由理氏……」
 これ以上思ったことを口にするのはよそう、そう決め込む千縫の横で、あちこち指を指しながら由理に淡々と短剣を突き刺していく奈佐。
「あっ、もう来たんだ」
 そんな寸劇をよそに、由仁は軽々しい足取りで階段を駆け上がってくる。
「あれ、その袋は?」
 由理が指差すのは、由仁が両手で持つ満杯のビニール袋。
「由理がお友達を連れてくるって聞いてね、調子に乗って買いすぎちゃった」
 由理の前にたどり着いて、中身を落とさぬようにゆっくりと開かれた袋の中には大量のお菓子。
「やるでしょ、パーティ」
「いいねっ!」
 最初に声を上げたのは千縫。諸々のツッコミどころを飲み込んだ挙句出てきそうになった言葉を代わりに菓子への気持ちとして吐き出す。
「飲み物は?」
「あっ」
 途端静まる空気。奈佐の口を押さえながら首を横に振る千縫をよそに、由理は由仁に自販機の場所を問う。
「えっ、そんなものないけど」
「ない……?」
「だって、無駄でしょ。ここコペルニクスに住まう人の殆どは民生委員の配給で暮らしてる。それに足りないものは官営スーパーで買えばいいしそもそもここの土地は全部連合の直轄。儲ける人も利便を被る人もいないってわけさ」
「つまんな」
「あは、まあ月面人セレネスはそれだけで優位性アドバンテージだしね」
「むかつく」
「四文字縛り? 面白いね」
「うるさい」
 千縫の呟きを流しつつ、四人は由仁の部屋……ではなく由理の部屋へ。
「へー、でもキレイだよ」
「でもって何?」
 その広さ、2DK。周辺の相場よりも安くて広めだが、建物自体の築年数がやや古め。
 家具や家電も揃っていない状態ではあったものの、坂入家の別邸から借りたパクった机を部屋の真ん中に置いて四人で囲む。
「たまにはウチに遊びに来てね」
 ポテトチップスの袋を開封しながら奈佐は口を開く。
「なさっちたちもここ来ればいいのに」
「そうだよ、この辺のお部屋だって空いてくるだろうし」
「空いてくる?」
「そそ、この時期は会期末と言ってね……在月代議士院が閉会すると議員たちがこぞって地球や火星へ出ていくんだ」
 奈佐の開けたポテチをひょいひょい口へ運びながら、由仁は軽快に答える。
「ふうん、勿体無いね。手続きとかめんどくさそうなのに」
「まああくまでも在月代議士院の話。在地議員はここに留まらざるを得ないから部屋を変えるなんて芸当よほどじゃないと出来ないけど」
「それでも私は良いかな」
 奈佐の言葉に、千縫は首を傾げる。
「やっぱり父さんが気がかり?」
「それもあるけど……」
 伏目がちの奈佐の肩に、由理がそっと手を置く。
「私、言わなくてもなさっちのことわかるよ」
「由理ちゃん……」
 少し瞳を潤わせながら視線を上げる奈佐。
「あのベッド、離れたくないよね」
「……は」
 由理の言葉にキョトンとする奈佐。そんな様子を意にも介さず、由理は恍惚の表情で天を仰ぎ見るり
「フカフカの羽毛布団、スプリングの効いたマットレス、低反発の枕……そしてちょうどいい高さの木組みのベッド……」
「やめんか」
 すかさず千縫のチョップが由理の脳天を叩く。
「まあまあ、人生の三分の一は寝床って言うし」
「なさっち……」
 呆れ顔の千縫だったが、ふと表情を緩めて由理を見る。
「ま、私もしばらくはなさっちと一緒かな」
「ぬ、ぬいっちも?」
 目を丸くして、奈佐は千縫の顔を窺う。
「まあなんだ、私はたぶん一人暮らしとか向いてないし……それになさっちだってあんな広い家に一人は寂しいだろ」
「寂しくはないけど」
「私だって何か家事とかできるし?」
「パパが益江からメイドさん呼んでくれるらしいし」
「お、置かせてください何でもしますから!」
 突然平伏する千縫をみて、由理と奈佐は顔を見合わせて吹き出す。
「冗談だよぬいっちったら」
「ほら立って立って」
 由理に抱えられて立ち上がる千縫だったが、意外にもその表情は落ち着いた様子で……
「何があっても私たちは三人で一つだ」
「どうしたの急に」
「そうだよ、引っ越すといっても同じコペルニクスなんだし」
 しかし千縫は由理の言葉を受けても頷きはしなかった。
「僕はー?」
 そこへ割って入る新顔の由仁。
「そっか、由仁ちゃんだっている」
 奈佐に続くように、千縫も「四人で一つだ」と応える。
「変なの」
「まあまあ、何はともあれ……」
 口を尖らせる由仁を宥めて、由理は配給の水のペットボトルを三人に手渡す。
「新しい日常に!」
 由理の突き出すペットボトルに、奈佐が同じくペットボトルを当てる。
「この先の未来に」
「じゃ、じゃあ同じく!」
「えーと……光明遍照まやかしの世界に」
 四人のペットボトル、四人の未来。しかし運命は平行線をたどる未来を良しとはしなかった。ピンボールのように弾き出された願いは、その収まるべき未来を見通せぬまま時という名の面を下っていく。
 その先に待ち受ける未来をひた隠しながら。

四.
 すっかり日陰の存在となった人智継承教育科学機関。
「文化や伝統は国家に付随するものではない。むしろ国家がその土地の風土や慣習に寄生する形で成立していると考えたほうがいい」
 ダッチの呟きに、長年派閥上の対立構図を形作ってきた〝自然閥〟の領袖――ブッカー・W・H・ジェファーソンはさもありなんと口を閉ざしたまま。
「たった一世紀ほど前は、その副次的存在のはずだった国家がひしめき合う国際時代だったのだが」
「……人類史において最大にして最悪の汚点、それこそが国家という存在」
「君はこうも続けたい訳だ……人文主義こそが醜悪なる国家の菌床だと」
「昔は、ですがね」
 科学主義を信奉し、相対する人文主義の派閥と対立構図を形成してきたブッカー。伝統や文化といった人文主義的思考は時に同じ文化圏に在らざる者への敵愾心を産み、排他的な思想をもたらした。肌の色の差異によってもたらされた人種差別の傷痕は、二〇~二一世紀においてもなお健在だった。
「おおっぴらに喧伝されたグローバリズムは、歪な国際時代をもたらした。世界の均質化、それは他ならぬ欧米文化圏への同化と同義だった」
「しかし皮肉にも拡張されたグローバリズムは矮小なナショナリズムを刺激し、各国で祖国第一主義が励起しました」
「だがそのいずれも所詮は低俗なもの……人文主義の入り口にも立たぬような三文雑誌パルプ・マガジンが如き夢物語フィクションが大衆に受け入れられた。それが故の青き愛国主義Juvenile Nationalist
「過去を捻じ曲げて自己を着飾るなど……或いは凡百の事象を言葉巧みに修飾する詐欺まがいの弁論士の当然の帰結ですか」
「面白いじゃないか。あるがままを受け容れる科学志向、よほど自然主義だ」
「国家の勃興も、生物の多様性に内在する一要素だったのならば、そこに付随する人間の集団心理や行動原理もまた自然の内に発露された科学的様態。しかし人は──この場合は国家の存在を人間生存の大前提と捉える国粋主義者どものことですが──自然を忌み嫌い未開の在り様を卑下し己と他を離隔しようと試みる……」
「その一つが文化、と言いたいのだね」
「伝統などというものは遠い昔にたまたま立場のある人間が行っていた“癖”をありがたがって真似っ子し続けた結果に過ぎない……宗教も然り」
「なら君は数千年の積み重ねを無下にするつもりなのか……と言いたいところだが『過去を顧みないのは動物だけ』という反駁も君の主張を補強するものにしかならないな」
「千年続いたら良い伝統なのでしょうか。数年ぽっきりの習慣は伝統ではなく。ならその差異は何処に見出されるのか……その行事が行われる意義か、それとも行われること自体に意味があるのか。例えば日本には儀式でカエルを殺す伝統があるが今の日本人もカエルを殺したおかげで平和を享受しているとは考えていない」
「手段が目的化している、それはわかる」
「カエルなぞを殺さなくても、為政者を殺し奉る方がよほど験が良い」
「どうも科学者は人命を軽視するきらいがある。そういう所がフィクションにおけるヴィランとしての科学者像を容易に想起させるのだろうに」
「人の命も動物の命も自然の摂理。どちらかが尊くどちらかが卑しいなどというのはありえぬ道理」
「ならばどちらも、だな。伝統文化は人も動物も等しく日常を喰らうものだ。日常とはつまり──」
「──流転、でしょう」
 万物は流転する。同じ川に入ることは二度となく、相対する二人は常に別人との邂逅を交わる限り無間に続けている。
 人の営みも、動物の生態も、いずれも自然界に内包された絶え間なき変革、即ち日常である。同じルーティンを組んでいるようでいて、その中身は少しずつ様相を異にするものであり、本来は異なる事象を生きているにも関わらず当人は感性の鈍化で気づいていないだけ。
 日常とは螺旋そのもの。同じ円を廻るだけではなく、少しずつ少しずつ変化し続ける進化の徴。絶え間なく進められる変化の予兆を、しかし伝統文化は容赦なくへし曲げ、元の位相へ戻そうと工作する。
「伝統文化は国家の菌床……いや違う。伝統文化は人間の個としての自我を放棄させる安穏の化身。それはもはや母胎のよう」
「なるほど国粋主義は胎内帰りを欲しているマザコンだと」
「いいえ、それは帰属意識──文化に触れることで得られる共感……一体感そのものが母胎。国家はその檻に過ぎません」
 毅然としたブッカーの佇まいに、ダッチは笑みをこぼす。
「君も随分と尖ったものだ……しょげてbummedるのか」
 内務市民委員会のニコライ行政官が提言している各州が持つ警察権の吸収。それは即ち州の自治権を侵害することに他ならないが、もはや文系派の手によってそのような物はあってないような物との認識が在地においても多数を占めている。
 ブッカーはニコライの提言を人伝に聞き、これを褒め称えた。……が、州側も殆どが賛意を示したことに心から軽蔑し、また侮蔑の念を抱いた。
「州の存在意義は在地の守銭奴を旧国家という縄張りに固定させある程度の既得権益を保全するとうもの。しかし本質は新しい国家への孵化……新しいといえば聞こえはいいものの実態は固着化された社会階層のもと営まれる封建体制。先祖返りもいいところですね」
「貧富の拡がりもまた自然の摂理、強きものが富みそうでないものは淘汰される……社会主義こそ反自然主義で汎人文主義」
「だからこそ文系派の閣下たちには期待していたのです。国家から文化を切り離し人民の暮らしを文化から遠ざけようとした貴方たちの政策を」
「しかし実際は金に盲従した獣どもを飼い慣らすことに失敗した哀れな夢遊病者たち。だがね、これだけは言わせてもらうよ」
 立ち上がりざま、ダッチはブッカーを一瞥したあと嘆息する。
「文化を無くせば人は死ぬ。所詮人は無の中に生まれず、また有の中に死ねず。自然を創り出したのは人なのだからね」
 そのままダッチは執務室を出ていってしまった。ダッチもブッカーも、二度と会うことはないと知りながら。
「……理を解き明かすのは人。しかし自然を満たす気を追い求めるのもまた人。人という二律背反まやかしは全くもって面倒だ」
 空席になった機関長の椅子に、ブッカーはゆっくりと腰掛ける。その椅子の意外な柔らかさに存外気持ちを揺さぶられつつ……。

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