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益江1:37「あてどなき宇宙よ」『星霜輪廻』

 月面都市コペルニクスの第二階層から第三階層にかけて、広大な敷地を有するLC社の本社ビルは、その雄大さから〝大聖堂ノイエ・ノルン〟と呼ばれている。人類を延命賛歌へ導いたLC社の存在は、連合にとってはまさに旧世界における政治世界にとっての宗教的存在だった。LOL計画から始まり、公同相論を経て連合を離反したシャーロット・ノヴァによって設立されたLC社だったが、九月体制以降連合とLC社は付かず離れずの関係を維持し、今日まで延命社会を牽引してきた。
「思い起こせば……世界はかつて争乱に満ち溢れた時代を過ごしてきました。国家・民族・宗教・習慣その他、他者への猜疑心は深い疑念を生み出し、深い疑念はやがて憎悪へと変貌し、いつしかそれは殺意へと成り果てて、幾千幾万の人命を土に還してきました。延命技術がもたらす延命社会は、連合の設立以来の協調理念に基づき、相互融通の精神で整備されなければなりませんでした」
 ノイエ・ノルンの最深部、地下三階の大ホールの舞台の上に、ロームル・スーは立っている。数本のスポットライトが集中照射する舞台の中央、ロームルは演劇の役者よろしく両腕を大きく振りながら執行部の幹部たちを問い詰めている。まさしく大衆迎合的な劇場型政治の真骨頂だった。
「……まさか、間に合うなんて」
 舞台の隅っこで、レームは壇上のロームルを見ながら嘆息する。
 臨時の本社全体会議まであと数分というギリギリのタイミングで、ロームルはまさかの宇安保特輸隊の送迎を受けて到着した。ゲートウェイから大聖堂まで約三八万キロ、およそ半日で移動するには、あまりにも無理のある行程を組まなければならない。それほどロームルがこの会議に賭けていたことが窺える。それも含めて、実妹のレームは姉のロームルの執念に呆れたのだった。
「――ところが、今の執行部は偏屈な五月体制の陪臣どもにおもねって尊い理念を放棄した、まるで使い古した雑巾のように!」
 ロームルの演説に合わせて、観衆が口々に「打破」と叫ぶ。ロームルの裏手にある席で様子を見守る執行部の役員たちの表情は、みな険しい表情を浮かべている。
「今の執行部はどうやら古巣が恋しいようです。我が社の創設者、崇高な意思を持ち連合と相対したシャーロット・ノヴァの理念とは、当然のこと連合におもねり無様に体制保全に走るようなことではない。創設者の意志を継いだ私たちが目指すべきは、LOL計画時代からの目標である〝完全持続循環社会〟の整備であります。長らく足踏み状態であった我が社の命運は、今この時より歩みださねばならないのです!」
 その時、ロームルの後方で執行部の幹部一人が机を力強く叩いた。
「貴様は間違っている! 我々は最善を尽くして今日の今日までやって来たんだ。我々が連合におもねっているだと? 言葉を慎みたまえ!」
「ならば……ならば! 新しく建設する予定の帯電結晶加工工場について、貴方がたは今までどう考えてきたんです?」
 静かに幹部のもとににじり寄るロームルの額に、一滴の汗が伝う。高揚する気持ちと昂る鼓動に、ロームルは会場の空気を一手に掴んだ、そう確信した。拳に力を込めて、ロームルは続ける。
「貴方がたが進めている加工工場は、月面に建てるというもの! そんなもの、体制の考えそのものではありませんか! これをおもねると言わずして何と呼べばよろしいのでしょうか!」
 ロームルが観衆に背を向けたまま右手を掲げた。それに呼応して、観衆も一斉に喊声を上げた。
「火星は……っ!」
 たまりかねた幹部の一人が、抗弁しようとして言葉を呑み込んだ。
「どうしました? 反論したいことがあれば何なりとどうぞ?」
 愉悦に浸りながら、ロームルは幹部に発言を促した。なぜならば、ロームルの言説に反論するためには、ロームルが挙げた連合との取引を自動的に認めることになるはずだからだった。そして幹部は、案の定口を滑らせた。
「火星は、火星こそ立地に不適格だ、そう何度も審議してきた。陪臣十二人会の了承も得ている。月面立地が最も相応しいんだ」
 幹部の口から、取引を示す言動が漏れた。社員たちは、一斉に「打破」を叫んだ。
 ──横暴な専制経営者を倒せ!
 ──革命だ、誇りある我が社を取り戻せ!
 ボルテージが上がりきりの会場の中心にいながらも、ロームルはその熱気に乗ろうとはしなかった。
「社の自治を、踏みにじったということなんです。社の運命を、貴方がたは売り渡したんですよ」
 あくまでも会場を覆う総意の手綱を握るのは自分である、そう自負するロームルは、静かな口調で重ねていった。
「残念ですね。LC社は不断に延命社会を追及する会社、そして人類史の運命を進化へと導く運命の女神。歩みを止めたとき、貴方がたの思考は完全に反延命的なんですよ」
「なっ……!」
 会場の入り口が大きな音を立てて開かれ、薄暗い会場に眩い光が差し込んだ。革靴が床を叩く幾重もの足音が響き渡ると共に、スーツ姿の検察官が続々と執行部の身柄を押さえていく。
「貴様、まさかポスト欲しさに我々を売り飛ばすのか!」
「私利私欲ではなく、人類社会の進化の為に、反延命分子の方々には表舞台からご退場願います」
 ロームルとシュゼの案じた一計とは、連合内の文理対立を利用した執行部の強制退陣だった。会場に一挙に押し寄せた面々は、理系体制派である陪臣:ホアン・チ・ルーエンをトップに据える人理社会道徳保全機構シャドウに属する最高検察庁の検察官たち。彼らは文系体制派である内務市民委員会に属する警務部警務課の警務官を出し抜いて談合事件解決に向けて先手を打ったのである。警務官の訴追を待たずして身柄拘束を強制執行する検察官たちは、皆が皆愉悦の表情で満ちていた。
「はやく歩け!」
 両脇を検察官に抱えられながら、執行部の幹部たち全てが会場から連れ出された。
「ロームル・スー、自社の自治を壊してまで、権威が欲しいか、権力が欲しいか!」
 幹部の罵倒に、ロームルは耳を貸すつもりは毛頭なかった。観衆の興味も既に新体制に向いており、この物理的な退陣劇の裏にどんな取引が為されていたのかなど観衆は誰も関心を示さなかった。目の前の政治劇に心を躍らせて、玩具を手に入れた少年のように瞳を輝かせて社旗を見つめるのだ。
 やがて静寂に包まれた会場を見まわしたロームルは、改めてマイクに電源を入れた。耳障りなハウリング音も、今となっては新時代の到来を祝福するファンファーレのようだ。
「新しい社長だ!」
 会場の何処かから、誰かが叫んだ一声。意図せずして望むべくもなく繰り広げられた革命の一幕に、観衆は社旗を勇ましく掲げているような自由の女神を、ロームル・スーに重ね見た。
──そうだ、我々は突き進むぞ!
──そうだ、そうだ!
 いつしか誰かの叫びが会場全体に波及し、波を打つように社長コールが反響していく。しかしロームルは、観衆の期待の視線を一身に受けていながら、その高まる声に「ウン」とは応えなかった。
「私は社長にはならない」
 そのたった一言に、再び会場は静まり返った。残響すら響かない、最上階の席に座る職員の生唾を呑み込む嚥下音が舞台中央のロームルに届く程の静寂ぶりを前に、ロームルは静かに語りだした。
「私は……、大義の為とはいえ社内に検察を介入させてしまった。そんな私に社長を務める道理など……ある訳がない」
 会場全体を諭すように、ロームルは静かな口調でそうこぼした。無理もない、観衆の中にはロームルが語った言葉と同じことを感じていたものも少なくないだろう。ある者は視線を交わして首を横に振り、ある者は胸の前で手を組んで天井を見上げた。
「だから私は、社長候補を一人この場に呼んでいる」
 するとそれまでロームルを照射していたスポットライトが突如として消えて、変わって舞台の隅を照らし直した。
「誰もいないぞ」
 ざわめく観衆を背に、ロームルは慌てて幕内に引きこもる人物を光へと引きずり出した。
「僭越ながら紹介する。皆もよく知っているだろうが、事務方のエリート、レーム・スー事務局長だ」
 白光の下に現れたレームは、眩しそうに手を頭の上にかざした。
「事務局長……?」
 口々に戸惑いの声が漏れる観衆を見て、レームはロームルの耳元で「やっぱり駄目だよ」と呟いた。
「ダメなことはあるか、そんなこと」
 またもや生唾を呑む音が、まるで会場を一周したかのようにロームルの耳にへばり付いた。しばしの沈黙ののち、レームが「分不相応だ」と幕の内へ引き下がろうとしたとき──。
「素晴らしい、実に延命的だ!」
 今度は、会場全体が拍動しているような拍手に覆われた。余りにも急転した場の雰囲気に、レームも思わず目を丸くしてロームルを凝視した。
──新体制万歳!
──ばんざーい!
 観衆の殆どが起立して、新社長レーム・スーを迎え入れた。フランス閥も日本閥も、そしてウラジ閥も、レーム社長の誕生を受け入れた。
「ウラジ閥の人間まで、拍手してる」
「『ノーサイド』ってことでしょ」
 『ノーサイド』、つまり戦いの後は敵も味方も存在しない。それにウラジ閥の中にも、執行部が連合に同調する姿に辟易する者が多数いたということだ。
 ロームルの垂直に伸びた右腕が観衆の拍手の波を割き、沖へと離れていく波の音のように沈黙を走らせた。二回ほど咳ばらいをしたロームルは、さながら為政者の如く会場を見渡してから言った。
「まず私たちが取り組むべき目下の課題は、加工工場を火星に建てること。その為には、九月体制以来各星に築かれてきた陪臣どもの荘園を壊さなければならない」
 ロームルのマイクは、そこで電源が切れた。観衆は口々に「そうだ」と言い合い、五月体制の打破を誓った。
「……次期桑茲司への接触は?」
 小声で、ロームルはレームに耳打ちした。
「順調。本人はやる気がないけど」
「それ、上々」
 益江事件を利用し、自己変革を遂げたLC社。連合と協調し、共に歩むという姿勢は確かに確実な商売方法ではあったが、それは一方で同業種である再開発機構との間に亀裂をもたらした。文系一辺倒で政策が行われてきた五月体制に一石を投じたシュゼとロームルの手法は、あっという間にLC社の新体制を構築した。
「さあて、どうやって出来過ぎた桑茲司の弥神皐月台下のご尊顔に泥を塗りたくってやろうかな」
 人の願望は、置かれた立場や環境によって容易に変節しうる。
「姉さん?」
 ロームルの傍らにいながら、レームには分からないことがあった。それは、ロームルはなぜ社長の座を易々とレームに譲ったのか、ということだった。身内であれば扱いやすい、自らが矢面に出るよりは裏で糸を絡繰りしていた方が物事を進めやすい、御輿は軽い方がいい、様々な推論がレームの頭をぐるぐると駆け巡るが、相手は実姉ロームルだ。姉の性格くらい、レームは良く知っている。
「何だい」
「ほ、本当に社長は私なの」
「またか、それについては問題ないと」
 ニコニコと笑う様子は、レームの知るいつものロームルだ。しかし、ロームルはここぞという時は何が何でも自分の手で事を決する性格だった。本社の全体会議に宇安保の特輸隊を酷使してまで駆け付けるほどのロームルが、「社の自治を侵害した」という理由如きであれほど欲しがっていた社長のポストを捨て去る……。
「なあレーム……」
「ん……?」
 未だ高揚の収まりきらぬ会場を舞台裏から覗き込むロームルは、ふっと表情を元に戻し、社旗を仰ぎ見る。
「ここで終わりたくないよな」
「そりゃ……そうでしょ」
「運命神はこんなちっぽけな問題、何とも思わない。私はいつも思うんだ、大事は些細な破滅を以て成し遂げることができる」
「姉さんのいう、大事って……」
 レームの問いかけに、ロームルはただ微笑を浮かべるのみ。LC社の新体制は、かくして連合の改革に先んじて成し遂げられたのだった。

***

 所変わって、連合桑茲府。いよいよ招集された陪臣一二人会の会議で、まだまだヘルマンは余裕の表情を見せていた。シンプレックス通信を解除し、在地の各関係機関へアラートコードを発出した《白鷺ビル》は、再びシンプレックス通信を回復させた上で庁舎を外部ネットワークから遮断させた。これにより、ローカルストレージに保管されていた機密文書の漏洩は防げた、ヘルマンは部下の報告を鵜呑みにし、信じ切っていた。
「機関長」
「おっ、おうおう」
 先に座についていたヘルマンの肩を叩くのは、盟友のダッチ。額に汗を浮かべているものの、その表情は依然として涼しいままだ。
「他の連中はどうしたのだ。この大事な折に、呑気に遅刻とは」
 しかし、ヘルマンが悪態をつくほどに他の陪臣たちが遅れている訳でもなかった。開始時間まではまだ一五分もあり、弥神皐月が出御するまでは三〇分もある。時間感覚の亡失は、一方でヘルマンの焦りを示す証左にもなった。
「『M文書』の行方はご存知ですか」
 ダッチの言葉に、ヘルマンは「ああ」と応え、指の関節をぽきぽきと鳴らす。
「やはりラインヴァントは使えん奴だった。ウラジオストクも自らが落ち目にあると分かると見境なく破壊活動にでやがったり、ロクでもない連中ばかりが我々の周りにはいるんだな」
「そういえば奴はピーチェル派の紹介でやって来たんだったな。どいつもこいつもカスばかりだな……」
 ピーチェル派と呼ばれる政治集団とは、三つ巴の政治派閥が対立構造を形成している三色ルーシ州においてその一派閥を指す。ユーラシアの広大な大陸をほぼ東から西へ大きく跨るように存在する三色ルーシ州だが、ピーチェル派とはそのうちヨーロッパ側の小さな都市圏を勢力圏とするに過ぎない。しかし、三色ルーシ州はピーチェル派のような地方中枢都市或いは中核都市を基盤とした政治集団による支配権を巡る闘争が繰り広げられていて、州名の三色とはその中でも有力な三つの政治派閥を意味する。
 一つはピーチェル派、一つはコルタ派、そしてもう一つはキーウ派だ。ピーチェル派は三月体制までは三色ルーシ州の州都マスクヴァーを勢力圏に収めルーシ領導の座に就いていたが、同体制期中にコルタ派に取って代わられた。コルタ派もピーチェル派同様地方の都市圏を拠点とする政治派閥で、三色ルーシ州成立に一役買った伝統的な集団でもある。
「ピーチェル派はルーシから離脱したウラジオストクと懇意だった。革命志向も時と共に劣化し、低俗化し、既得権益と化す。いつまでも同じ方法で利潤を得られるとばかり考えていたが、ついにその甘さを知ることはなかったな」
「……っ」
 しかし、その言葉が自らにも向けられているとは、ヘルマンは思いもしなかっただろう……いや、もしかするとヘルマンは自らが置かれている状況を指した上で、自嘲の意味も込めてその言葉を発したのだろうか。
「いずれにせよここで終わるつもりはない。再起の方法は幾らでもある」
 何よりヘルマンには、連合を支えている屋台骨たる自身をそう易々と政治の中枢から追いやることは出来ないだろう、という自負心があった。それこそ、連合創始の時分から働きづめだった自らを、聖慕の継承者たる弥神皐月が切ることなどできない、そんな確固たる自信をヘルマンは抱いていた。
「随分と、待たせていたようだね」
 それから数分して、理系派陪臣たちが続々と入室する。初めにホアンがやってくると、既に席についているヘルマンを一瞥しながら心にもない一言を発する。
「私は何も貴殿を待っていた訳ではない」
「ああ、そうだろうな」
 ホアンに続いて入室するのは、シャドウの右腕とも称される、内務市民委員会の行政官、羅啓明。
「これはどうも、行政官殿。大東亜州は苦労なさっているのでは」
「ふん」
 羅の席はヘルマンの隣。ヘルマンの言葉を鼻で嗤いながら、羅は対面のホアンを一瞥し、静かに席に座った。
「すまないね」
 そういって駆け足で入室するのは、ヤスノリ。その後を追うようにして、スペンサーもそそくさと席につく。
「全く、警務官の戒厳令もたまったものではないな。相手が陪臣だろうと見境なく車列を止めやがる」
 口を尖らせながら警務官への不満を漏らすスペンサーだったが、その表情は実に余裕綽々で、視線の先にいるヘルマンを見下しているかのようだった。
「――ざけんな、私もいれろっ!」
 突然廊下から響き渡る女性の叫び声、その場にいた誰もがある人物を思い浮かべながらため息をつく。
「すまない、お騒がせをしているのう」
 絶え間なく続く女性の金切り声をそのままに、車椅子を操縦しながら会議室の扉を抜けるのは、世界民政向上機関の機関長、ファクタ・マルグラーヴィオ。
「閣下……、執行部会長はこんな時でも元気闊達なようですね」
「シルヴィア殿下のおてんばぶりには儂も困ったものじゃな」
 時折せき込む仕草を見せながら、高齢のファクタは椅子の置かれていない場所に車椅子で乗り付け、座を卓に合わせる。しばらくすると、廊下で抗議の声を上げていたシルヴィア執行部会長も静かになった。
「なにやらお祭りのようですが、お揃いですか?」
 会議室の真正面、他の陪臣たちとは別の出入り口から現れたのは、官房長官のシュリッツだった。
「まだだ」
 ヘルマンの言葉に、シュリッツはただ一言「そうか」と応える。
「準備は整っているのか」
 楕円上の卓のうち、桑茲司が出御する聖簾の扉から最も遠い、長軸の先端部の座についたシュリッツ。隣のホアンに「ああ」と応え、反対の玉座に視線を向ける。
「よし、よし。始めよう始めよう」
 ついに会議の時間になり、ようやくニコライとシャルル、そしてハワードが現れた。
「ギリギリでいらっしゃるとは」
「間に合ったんだからいいではないか」
 シュリッツがガベルを鳴らし、会議はまず世情の混乱について取り上げた。
「今般、警務官による戒厳令布告により、月都の治安情勢は安定化しつつある。しかし在地においてはその限りでなく、報告によれば蛮族による破壊活動が頻発しているという……」
「待て、マコーンはどうした」
 シュリッツの発言を止めて、ヘルマンは空席を指さした。「まだ出席者が足りていない、会議は始められん」
「遅刻を責め立てた貴方の取り巻きこそ、不埒千万」
「よさないか」
 嘲笑するホアンを宥めながら、ヤスノリはヘルマンに尋ねる。
「マコーン殿は……あれではないか、トイレだ」
「そりゃ、傑作だ」
 ヤスノリの言葉に反応して、スペンサーが大声で笑い飛ばす。
「下劣な。会議は中止だ」
 席を蹴るようにして立ち上がるヘルマン。
「いいや、続けよう」
 そう告げると、ニコライはおもむろに右手を挙手し、ついで卓を叩いた。
「議題の変更を要求する」
「賛成だ」
「賛成」
 ニコライに続くように、ヤスノリと羅が卓上を叩く。
「では……私が提議を行う」
「提議、だと? スペンサー君、提議をするのかね」
「提議者マシュー・ヴァン・スペンサー君。発言を許可しよう」
 ヘルマンの言葉には耳を貸さず、シュリッツはガベルを手にスペンサーに発言を促す。
「議長閣下、感謝します。欠席者がいる中でこのような提議を行うのは甚だ恐縮ですが……」
「そうか、マコーンが出席できないよう小細工を施したのは、警務官だな!」
「まるで警務官が悪いような口ぶりだが、その実マコーンは様々な悪事を働いてきた、そのツケではないかな」
 ヘルマンと視線を合わせずに、そう淡々と言い放つのは、ニコライ。文系派の一角を担っていたニコライの立場が転換したことを如実に示す発言に、ヘルマンは怒りを滲ませる。
「今まで受けていた恩恵を蔑ろにして済まされる問題ではない」
「『恩恵』だと? 馬脚を現したな……」
「哀れなものだな」
 ヘルマンに聞こえるような小声で、羅とホアンは円卓越しに会話をする。
「スペンサー君、続けたまえ」
 ファクタに促されて、スペンサーは室外の速記担当に合図を送る。
「提議をすると言ったが、何について提議のかな? よもや俺やダッチ機関長の提議とは言わないよな」
 ヘルマンもダッチも、既に一度懲罰動議の提議を受け、これを退けている。陪臣十二人会では例外的に一時不再議の規則が適用されており、ヘルマンもダッチも、これを理由に勢力巻き返しを狙っていた。
「マシュー・ヴァン・スペンサー、謹んで申し上げるに、当委員会にて……プランダー・マコーン自治監理局局長の陪臣解任を含む懲罰動議を、附帯規則第五八条に基づき議長閣下に提議致します」
「馬鹿な……、マコーンだと!」
「彼が懲罰動議に掛けられる事由とは何だ、言ってみたまえ!」
 先ほどまでとは打って変わって、ヘルマンもダッチも声色に余裕がなくなっていく。ダッチに至っては卓上を叩き、スペンサーを指さすほどに激高していた。
「マコーン殿は当委員会を無断で欠席し、原則満場一致を掲げる当委員会の運営に障害を与えた。これ以上マコーン殿の不埒な行動を野放しにしては、当委員会ひいては世界連合全体の信頼を傷つけることになる」
「……何を馬鹿なことを、マコーンの行動を制約しているのは警務官だ、そうだろうニコライ閣下」
「異なことを。先ほどから申し上げている通り、マコーンは悪事を働いた、それ故警務官に止められているかもしれないと」
「ふざけるな!」
 しかし、もはや多勢に無勢。ヘルマンとダッチの立場は急速に弱まっていく。
「前回の時とは勝手が違う。マコーンが陪臣から解任されれば、早晩身柄を拘束され、芋づる式に貴殿らの悪事もつまびらかになるだろう」
 シュリッツ官房長官の姿勢に、ヘルマンはより怒りを発現させる。本来中道の政治スタンスを保たなければならない官房長官が、よりにもよって理系派へ傾倒していることへの憤怒。しかしそれは、長らく専横的な執政を率いてきたヘルマン自身へも突き刺さる言葉であり、もはや権勢のみで事態を瓦解できる段階ではないとヘルマンは悟っていた。
「提議を採用するか、採決を行う」
 シュリッツの合図と共に、当初の予定通りヘルマンとダッチ以外の陪臣たちが挙手をする。
「……よろしい。ではスペンサー君の提議通り、陪臣プランダー・マコーンの行動について、附帯規則第五八条に基づく懲罰動議の発動の是非について議論を行いたい」
「まず私から申し上げよう。陪臣の懲罰動議の前例は、我が宇安保の前任者、アルバート・リッジウェイの件を参照したい。彼は官製談合の罪により、陪臣解任を要求する懲罰動議に掛けられ、出席者のみの採決において満場一致でこれを可決した。時の桑茲司、弥神弥生台下の裁可によりリッジウェイは陪臣を任を解かれ、協調協約憲章改正七五条を根拠に不逮捕特権を失ったことで逮捕。その後人格処分の判決を受けている」
「リッジウェイは加減を知らなかった、あいつは陪臣であった過去すらも消してしまいたいほどの貪欲な奴だった」
「今のヘルマン閣下がそう仰るとはねえ」
 羅とヘルマンのいがみ合いをよそに、スペンサーは言葉を続ける。
「無論、今回の事柄と、リッジウェイの件とが同一の観点から語られるべきではないと私は思いますが。その件については、再開発機構の主席理事長である……シャルル殿がお詳しいのでは?」
 スペンサーは、ニヤニヤとしながら、無言を貫くシャルル・ブランシュ・ナンに視線を向ける。
「残念だが彼女はあの彼女ではない。何も覚えちゃいないさ」
 そんなシャルルを見ながら、ヘルマンはあざ笑うかのように拍手をする。
「…………ない」
「はい?」
 ポツリと呟かれたシャルルの言葉に、一同は耳を澄ませる。アッシュブロンドのカールを利かせたショートボブに陰る透き通った赤紫色の両眼をスペンサーに鋭く向けるシャルルは、そう大きくはない口を開きつつ、はっきりと告げた。
「その事案については私の与り知るところではない!」
 その発言に、スペンサーとヘルマンは相対する反応を顔に浮かべたが、シャルルはすかさず二の句を継いだ。
「しかし、本件について言えることは、ヘルマン機関長は加減を知らぬお調子者だということだ」
「なっ……!」
 自らの発言をそっくりそのまま返されたヘルマンは、意図せぬシャルルの反撃に顔をしかめる。
「お……驚いたな」
 しかし、驚嘆の表情を浮かべるのはヘルマンだけではなかった。ホアンも、シャルルの様子を目を丸くして見つめている。
「おっほん……議題を元に戻そう。マコーンを五八条に基づく懲罰動議に掛けるかどうか、採決を行う」
 一同の反応を見かねたシュリッツによって、会議の音頭がとられる。
「無論賛成だ」
 ホアンの挙手に応じるように、羅やスペンサー、ファクタやシャルルが挙手をする。
「賛成しよう」
 続いて、ニコライとヤスノリが挙手をし、事態を見かねたハワードも挙手をする。
「日和見守銭奴が」
「閣下に言われたくはない」
 こうして、議長であるシュリッツを除けば、挙手を拒むのはヘルマンとダッチのみとなった。本来であればここで動議は可決となり、即刻マコーンの陪臣としての地位が剥奪されるのだが、重大議案の場合は満場一致が望ましい……、専制的な統治体制を構築した弥神弥生によるいわば不文律が陪臣一二人会を縛っている。
「マコーンを除外……そうなれば、どうなる。理系派が思うように政治を動かす、今までと何も変わりはしない、そんな無為な決定をここで下すなど、馬鹿らしい」
「無為かどうかは、君の決めることじゃないよね」
 突如室内に響き渡る、子供の声。それまで壮齢の大人たちが放ってきた低調な声色とは全く別の、幼さの残る甲高い声に、一同はしかし恐縮し、畏まって聖簾の下がる扉に体を向ける。
「台下……!」
 シュリッツの態度は、まさに君主に対するそれだった。桑茲府の内向きを管轄する桑茲府官房長官の地位は、当然のこと世界連合桑茲司の座に準ずる。桑茲司の出御する陪臣一二人会は御前会議へと改組され、最高意思決定権は桑茲司に付託される。
「予定より早く来ちゃったんだけど、いいかな」
 弥神皐月の言動は、まるで友達の家に遊びに来た中学生のようだった。しかし、相手はれっきとした人類の頂点に立つ存在であり、陪臣たちは畏まって頭をうなだれる。
「仰せの……ままに……」
 シュリッツの恭しい返答に、皐月は両手を叩くような音を扉の前でしたかと思うと、続いて扉を自分で開けた。
「台下!」
 そんな皐月の態度を戒めるように、侍衛秘書のエーテルが皐月の手を掴むが、皐月はそれを振り払うようにして玉座に就いた。白とピンクのグラデーションに染められた髪は、切り口をざっくばらんに残したショートボブ。あどけなさの残る齢一四の桑茲司は、新調したばかりの白地の広袖のチュニックを羽織った桑茲司の公服姿で居並ぶ陪臣たちを見渡す。
「さて。ヘルマン君は何が無為だと言いたいのかな」
 するとヘルマンは、先ほどまでの苛立ちをすっかり引っ込めて、借りてきた猫のように大人しくなった。
「いえ……、本人不在の中、このような決定を下そうということに、私としては違和感を覚えただけです」
「何やら風の噂では、あたしのことをハンコを押すだけの存在だと軽んじている陪臣がいると聞いたんだけどね」
「誰がそのような不敬な言動をしたのだろうか」
 皐月の言葉を受けて、ホアンは陪臣一同を見渡す。
「許せませぬな、そのような戯言は」
 次いでニコライ。スペンサーも「全く同感だ」と応じる。
「ま……マコーンではないか」
 意外にもダッチは、室内の雰囲気を感じ取ってそそくさとマコーンを売った。
「ふうん、マコーンか。でもあたし自身そう言われるのはやぶさかではないんだ……、だってさあ」
 そういうと皐月は、円卓に体を乗り出すようにして両手を置き、ニヤリとする。
「あたしの悪い所が分かるってこと。それはつまりチャンスさ、我が振りを直すためのね」
「台下」
 エーテルの呼びかけに応じて、また玉座に座った皐月は、「じゃあ」と続ける。
「君たちはどうやって自分の不手際を認知するのかな。まさか自分のことを良く知っているのは自分だなんて、言う訳ないよね」
「そのような驕り昂り……ある訳がないではないですか」
 またもホアンは、皐月に応じて言葉を被せていく。
「じゃあ、人様の言うことには耳を傾けるのは道理だね。そうは思わないかな、ヘルマン君」
「は……はあ」
「あたしはマコーンがこの席にいなくてもいいと思うんだ。彼が行ってきた所業は、もはや陪臣という地位で拭えるほどのものではなくなってきた、そう思うよ」
「台下……!」
「ヘルマン君はマコーンと親しかったんでしょ。何か感じるところはなかったのかな」
「もし何も気づけなかったのならば、貴方にはマコーンの策謀に加担した疑いが生じるな」
 もはやマコーンを庇う余地などない、逡巡するヘルマンの隣で、ダッチは一頻り歯ぎしりを繰り返す。
「……賛成だ」
 苦渋の表情を浮かべながら、ヘルマンは右手を挙げた。
「……そう、賢明な判断だね」
 皐月の言葉に流されて、ダッチも挙手をする。満場一致、シュリッツは皐月に視線を送ったのち、高らかに宣言する。
「それでは、附帯規則五八条に基づく懲罰動議を発動する。陪臣プランダー・マコーンを陪臣の座から除名する」
 そこでガベルを打ち鳴らし、ホアンら理系派陪臣たちが拍手を送る。
「それでは臨時の陪臣一二人会を閉会する――」
 しかし、そこで皐月が発言する。
「あたしは意味のある改革を打ち出していきたいんだよね。たかだか名簿のとっかえひっかえで満足してちゃ、五月体制は停滞の時代って言われちゃうし」
「と、仰いますと?」
「やだなあ、官房長官。ここは大きく、自治監理局の廃止を打ち出すべきではないかな」
「なっ……!」
 皐月の提案は、ヘルマンは元より腹心を後釜に据えようと考えていたホアンすらも驚嘆させた。
「台下、さすがにそこまでは」
「『そこまでは』? ならホアン君、何処までが君の納得のいく改革なのかな」
「し……しかし」
「しかしとかじゃなく、あたしは自治監理局が今回の傲慢な政権運営の根幹だと思うよ……、それは君のことだけどね」
 そう言って皐月はヘルマンを指さす。
「確かにヘルマン君を除くことは世界連合全体にとっての不利益だ、それはあたしだけじゃなく、歴代の桑茲司台下、そして始祖公台下にとっても」
「……っ」
「でもねえ、少しは身を切る改革って奴を示さないと。無駄に一世紀半生きてきたんじゃないんだからさ、世論の動向くらい分かるよね」
 そこでホアンが口を開く。
「しかし台下、自治監理局は世界連合による在地統制の為のいわば中枢。それを失くしてしまえば、続十一月体制のような混迷が訪れてしまいます」
 世界連合が地球の枠をこえて月面に本拠地を構え、火星へも支配圏を確立させた一番の理由は、延命主義の広範化である。延命主義を人類社会の隅々まで行き渡らせる実働部隊こそ、自治監理局であり、設立は弥神長月の治世、いわゆる九月体制まで遡る。以来、延命主義を扶植する傍ら、連合の意志決定を在地社会に浸透させるメッセンジャーとしての機能を果たしてきた。しかし、自治監理局の中でも、特に在地層との接触機会の多かった自治管掌使が本来の職掌を越える形で利益の追求に走り、当初の設立理念とは程遠い運営がなされてきたのは、既にレーム・スー及び浅黄田弓の会見で明らかになった所である。
「改革っていうのは今までとは違うことをやるって訳でしょ。それで混乱が起きるのなら、その混乱をうまく収めることのできる組織を作ればいいでしょ」
「それはそうなのですが……」
 言葉に詰まるホアンを見かねて、ニコライが挙手をする。
「はい、ニコライ君」
「はっ。ここはどうでしょう、自治監理局を廃止すると共に、内務市民委員会の権限を拡充させ、州警を管轄下に置くことを提案します」
「州の自治権から警察権を剥奪すれば、在地層から反発を招くのは必至。ただでさえ三月革命以来険悪な関係に陥っている在地代議士院の抵抗は苛烈さを増すことになる」
「どの口で反論しているのだい、ヘルマン閣下」
「スペンサー君は黙りたまえ」
「静かにしてよご両人。ニコライ君の提案は一考に値するものだとあたしは思う」
 皐月は卓上をトントンと叩き、言葉を続ける。
「自治監理局を廃止することによって生じる在地社会のメリット。それはつまり円滑な政権運営ができるってこと。自治政府人事に口は挟まないし、憲章に反しない限りは政策の方針は事後報告で構わない。その代わり警察権は連合に嘱託してもらう……、良いことだとあたしは思うよ。何より法外な口利きがなくなって、上納金もなくなる。そもそも始祖公は金稼ぎのために連合を創始した訳じゃないからさ」
 その皐月が言い放った言葉の真意を、その場にいた陪臣の誰が汲み取ったのだろう。面々の表情は硬軟織り交ざった混沌を映しだしていたが、少なくともヘルマンは体制の間隙を突いて返り咲くことに全神経を集中させていたし、攻めの側にいるホアンも如何に自己の権益を拡充させるかに姿勢が傾いている。とかく政争の真髄は経済競争であり、大義とは目的遂行を円滑に進めるための可動式装身具だ。
「私も……台下の聖慮に賛成いたします」
「何……?」
 予想だにしないヘルマンの対応に、ホアンは思わず眉を上げてヘルマンを睨み返す。
「ここは我々が改革の覚悟を示すべきだ、そう私は思っております。恐れ多くも台下からそのような慮りを承った以上、行動せぬは陪臣としての不義不忠にあたるかと」
「そ……そうだ。運命神の啓示も、きっとこの方向で合っている」
 ヘルマンに同調し、空っぽの言葉を口にするダッチ。
「そう……、そうだよ。今回の件で体制が受けたダメージは決して無視できるものではない。体制への批判はあたしに向かうのだから、そうならないように知恵を出し合うのは君たちの仕事でしょ。あたしは運命神、そして始祖公の御聖慕を継承している人類社会の代表者だから。全知全能とまでは言わないけど、起っちゃった問題を座視して何もしないのは生き物として失格だよ」
「はっ」
 皐月の発言を受けて、シュリッツは改めて卓に向き合う。
「自治監理局廃止に賛成の方」
 採決を受けて得られた結果は、満場一致。
「では、自治監理局の廃止に関する議決はまず在月代議士院へ。全議員三分の二以上の賛成で在地代議士院へ、同様に採決を行い、今月末までの成立を予定しております」
「……っ!」
 まるで予め皐月の提案を知っていたかのようなシュリッツの議事進行に、ダッチは挙手をして詰問しようとしたが、その手をヘルマンが止めた。
「さて、もう一つ、皆に耳を傾けてもらいたい問題があってね」
 玉座に座る姿勢を直した皐月は、背後に控えるエーテルに手を伸ばす。
「はて?」
「あれ、誰だっけ?」
 手を伸ばされた意図に首を傾げるエーテルを怪訝な視線で見つめながら、皐月も同様に首を傾げる。
「……台下」
 困惑する二人をみて、ゆっくりと挙手をするシャルル。
「ああ、そうだった。再開発機構主席理事長シャルルちゃん。お願い」
「は……」
 陪臣の中で唯一ちゃん付けのシャルルは、予め用意していた資料を手元に手繰り寄せて咳ばらいをする。
「昨日、LC社の全体集会でクーデター紛いの事案が発生しました。首謀者はロームル・スー、ウラジオストク派閥に独占されていた経営陣を検察官に強制的に排除させた上で、新しく特任会長兼最高顧問のポストに就きました」
「ふうん、てっきり自分が社長の座に就くと思っていたらなあ」
「社長に就任したのは妹のレーム・スーです。その理由についてはまだ把握していませんが、ゲートウェイで足止めをされていたロームル・スーが戒厳令下の月面を移動するにあたって、宇安保が関与した情報も上がっていますが」
 シャルルの報告に、スペンサーは首を傾げてとぼけた振りをする。
「まあ要するに、LC社との蜜月は終了ってことだね、シャルルちゃん」
「しかしその蜜月が文系派による専横体制のもたらした仮初の平和なら、いずれはこうなることも想定しておかなければ。いわばLC社は自己存立が可能になったということです」
 皐月のいう所の蜜月も、実際は再開発機構のOBOGが取り仕切っていた社の経営体制のことを指し、連合にとっては良くても当のLC社からすれば迷惑千万の話だった。無論、社上層部が連合との太いパイプを保持していたことで円滑に進んだ事業計画も存在し、その点については是々非々の態度を既にロームル体制は示している。
「問題は、帯電結晶加工工場の建設地についてだよ。あたし達はLC社を叩き潰さなければならなくなったって訳さ」
 帯電結晶加工工場の建設地問題。増え続ける帯電結晶の需要は既に供給不足に陥っており、一度は蔓延っていた選民思想も再び盛りつつある。万民救済、人類協調を掲げる世界連合にとって、延命施術の機会均等は喫緊の課題であり、最優先事項の問題は帯電結晶の加工工場の増設である。
 現在、帯電結晶の加工技術はLC社が独占し、担当官庁たる再開発機構は出来上がった帯電結晶及び、加工前の鉱脈の保有権のみを総括する。採掘権や加工技術の利用については再開発機構の職掌外であり、いわば連合は民間企業に頭を下げて帯電結晶を使わせてもらっているという苦しい立場にある。弥神弥生はそのような現実に苛立ちを覚え、帯電結晶加工工場の新設、および候補地選定を再開発機構に急がせた過去がある。
「よもやリセ総督があれほどに反抗するとは思ってもみませんでした」
 苦々しく言葉を発するのは、〝リセ〟なる人物を火星総督へ就けた張本人、人事院総裁のヤスノリ。
「あれは上という存在が嫌いなんだ、自分の頭を押さえつける煩わしい上が」
 リセ・エコー火星総督。弥生の引き立てで総督に就任したリセは、つまるところ火星に派遣された桑茲司の代官である。もちろんリセが派遣された理由は帯電結晶加工工場を火星に新設させるという弥生の考えにリセが同調していたからであり、当初はその方向で計画が進められていた。
「その件については総督の意向よりも火星支局長の動向が気になりますがね」
 そうスペンサーのいう火星支局長とは、LC社の火星支局長ケラ・マルクスのことだ。
「そう、そうだ、ケラ・マルクス……、あたしの意志を無視した女っ!」
 火星総督府内で帯電結晶を管轄する鉱財局の局長には、LC社の火星支局長が兼務することが慣例となっていたが、ケラはその誘いを辞退し、またリセもケラではなく別の人物を局長の椅子に座らせた。そのことが皐月にとっては憎たらしく、また煮えくり返るほどの腹立たしさを感じていたのだった。
「火星の人間はいつでも月面に反撃する機会を窺っている……、そんな危険分子に人類社会の未来を預けるなんて、出来る訳ないじゃないか!」
「台下!」
 卓上をポンと殴った皐月の腕を、すかさずエーテルがしっかりとつかみ上げる。
「お、おっと」
 一瞬バランスを崩した皐月だが、すぐにエーテルの手を振り払って平静を装う。
「……てなことで、帯電結晶の安定供給を図るために、加工工場を月面に新設するべく候補地選定を急ぐよう求めるよ。作業のペースを速めるよう、シャルルちゃんからもよろしくね」
「はい」
 深々と頭を下げるシャルル。意気揚々と椅子を起つ皐月は、エーテルを引き連れて聖簾の向こうへと去っていく。もはや文系派もといヘルマンの求心力は低下し、桑茲司に進言することもままならない。
「それでは、解散とする」
 シュリッツの合図と共に、ホアンたち理系派陪臣はそそくさと会議室を後にする。勝ち誇った表情の理系派とは対照的に、ヘルマンの表情はまさしく落ち目のそれであった。
 小さな小さな振動が、増幅されて反響した政治的地殻変動。何より震源地は、他ならぬヘルマンが一世紀以上前に発したものであることは、ヘルマン自身が観念しているところだった。
 時代はゆっくりと大胆に移り行く……。その節目にあって機会を得る者、反対に失墜する者。両者の悲喜こもごもの情感が新たな政治体制を構築し、新時代に産み落とされていく反命題の幼子がそれを咀嚼していく。
 意思決定の細分化された五月体制が、文系派の失墜により何処へ向かうのか。時の為政者ですらも、それは時運だと諦める。
 今日も今日とて人々は、利己心で歴史を創っていく。

***

 ローンチウィンドウに合わせた離陸を実行し、第二宇宙速度に達したまま大気圏外へ飛び出そうとする、最高検察庁専用機《エクセキューション・ワン》。特輸隊の精緻な操縦によって運用される同機内で、由理たちは浅黄の動向を初めて知らされた。
「今から半日ほど前、浅黄さんが空真誦の坂出財閥ビルで会見を開いたの。LC社の会見には出遅れたけど、文系派による専横ぶりを告発する在地層の一連の会見に先んじることはできたわ」
 文系派による既得権益の拡充、あまりにも広すぎる人脈によって築かれた金脈と、それに支えられた一大政治派閥は、しかしてLC社の会見によって崩壊の一途を辿っている。その流れを追うようにして、在地層の関係者たちはこぞって会見を行ったが、中には被害者面をして新しい権力者に媚を売ろうとしている者たちもいた。
「正直、検察だけではすべての悪事を追うことは不可能だ。この列島以外にも、ブリテン、フランク、三色ルーシ、奴らは文字通り地球丸ごと一つ、意のままに操れるほどの権勢を誇っていた」
 橙色に染まる窓の外を見つめながら、クロエは嘆息する。
「特務課も同様に。今回、反文系派の動きとして多くの団体や組織が立ち上がったけど、問題はこれから」
 例え大きな問題に対して一致団結したとはいえ、それはあくまでも文系派という共通の強大な敵がいたときの話である。文系派が倒れ、消滅したとき、利害関係のみで結束していた烏合の衆は、必ず新体制の下で熾烈な覇権争いを繰り広げるだろう。
「検察官、特務課、警務官、黄昏官、軍閥、それに理系派陪臣や三色ルーシ州コルタ派……。他にも、文系派にとって代わろうと蠢動する勢力は大勢いるはず」
 アサミの言葉に、クロエも誉志も苦い表情で頷く。
「だから浅黄さんを?」
 由理の問いかけに、アサミは「そうよ」と応える。
「この間隙を縫ってウラジの残党や大東亜州が仕掛けてくることも考えられる。私たちの目的はあくまでも列島の統一。それを外部勢力によって成し遂げられたら、立つ瀬がないというもの」
「それに、親父は既に坂入殿の紹介で理系派のシャルル主席理事長とも通じている。坂出財閥は安泰、一度停止させられた日本州昇格も事態が鎮静化したのちに復権される。俺たちが日本に戻る頃には、長らく夢見ていた二〇〇年前の在りし日の故郷の姿が戻っているだろう」
「あれほどのさばっていたウラジオストクがついに失墜するんだ。これほど愉快なことはない、なさっち!」
「ちょ……、気持ち悪い」
 朗らかな笑みを浮かべながら、坂入真佐は奈佐を力の限り抱きしめる。ようやく手に入れた安寧だと、真佐はしみじみと頷く。
「LC社の支局長……シュゼ氏とは話がついているのだろう?」
 クロエの怪訝な表情を、真佐は大声で笑い飛ばす。
「まさか憲章を守るべき検察官が、彼女の目論見を追認するとは。やっていることは文系派と変わらないな」
「黙れ。社会正義というものは、必ずしも憲章では体現しきれないんだ。だからこそ運用には人間が当たる、道徳心を身に着けた人間が、な?」
「はん」
 強く息を吐き捨てる真佐の傍らで、千縫は沈んだ表情を浮かべたまま機内食を口に運んでいる。
「ぬいっち?」
 由理はてっきり、墜落の話を思い出しているのかと勘繰ったが、千縫は苦笑しながら口元をナプキンでふき取り、言葉を紡ぐ。
「社会正義、あまり良い響きはしないものだ」
「どうして? 今というときこそ意味を為す言葉だと私は思うけど」
 そう言いつつ千縫の機内食に箸を伸ばす奈佐の手を叩きながら、千縫は首を横に振る。
「親父がしつこく口にしていたことを思い出したんだ。私はあいつの戯言だと馬鹿にしていたが、蓋を開けてみるとあいつの予想していた通りになった。世の中を理解していなかったのは私の方だったんじゃないかって」
「ううん、ぬいっちは頑張ったよ。私もなさっちも、ぬいっちのガッツがなかったら今頃どうなっていたか」
「私は知りたい、もっと世の中を知りたい。だから由理氏、このままついていかせてくれ、もっと新しいことに出会いたいんだ」
 成り行きで由理たち一行に加わり、地球を抜け出した千縫だが、本来であれば一連の出来事には無関係だった。当然アサミや成宣も、ゲートウェイで千縫は地球へ帰そうと考えていた。
「……千縫さん、この先私たちを待ち受けるのは、隠遁生活よ。決して楽な生活じゃない、その覚悟はあるの?」
「ちょ……、アサミさん!」
 アサミの口調を戒める由理だったが、既に千縫の覚悟は決まっていた。
「構いません。例えどんな苦難に遭ったとしても、由理氏とぬいっち、二人の友達がいれば乗り越えられるって、実感しましたから」
「……そう」
「アサミさん?」
 思っているよりもあっさりと千縫の態度を認めたアサミに、眉をひそめる由理。しかし、アサミはそんな由理たちにある贈り物を手渡した。
「これは……クローバーですか」
 手のひらにあるのは、三つ葉のクローバーのうちの一枚。金属製で、銀色のハート形の葉の谷の部分にはストラップが付いていた。
「これは千縫ちゃんと奈佐ちゃんの分」
 同じように、アサミは千縫と奈佐にもクローバーの葉のストラップを一個ずつ手渡した。
「これは元々、アーヤとリンが持っていたものなの」
「えっ」
 慌てて返そうとする奈佐と千縫を、アサミは制止する。
「このクローバーは貴方たちに持っていてほしいの。私たちが成し遂げられなかった誓いを、繋いでほしいから」
「アサミさんと、水戸瀬さんと、小出先生の……誓い?」
 それは、崩れてしまった希望の未来像。崩壊した日本列島の復興を夢見て、体制側から変革を試みたアサミと、老害諸侯=高齢貴族を除去することで根本を破壊しようとした小出李音、そして二人の間に挟まれて孤独感を増幅させ、外部勢力と残存勢力をまとめて葬り去った水戸瀬肖。三人の始まりは、平和で豊かで人間味のある社会の復興への希望。その透き通った願いは、濁りきった時代の激流に揉まれ、脆くも崩れ去った。アサミは文理対立にその志を利用されて反追放の煽りを受け、水戸瀬肖は死亡状態のまま月面送還となり、小出李音は遺体もろとも爆発の衝撃で回収不能となった。三人の誓いは、二度と元には戻らない。
「私たちの……願い、か」
 クローバーを照明にかざしながら、千縫はポツリと呟く。
「……私は寝よっかな、科学の進歩は寝る時間を削ってしまったからな」
 気を利かせたクロエは、誉志を強引に連れ出して客室を後にした。それを見て、成宣と真佐もオフィスルームへと去っていく。
「あ、アサミさん……」
 続いて客室を出ようとするアサミに、由理は自信なさげに声を掛ける。
「ふふ、願い事は三人だけの秘密にしなさい。いつまでも私に頼ってないで」
「べ、別にそういうんじゃないですけど!」
 反発する由理に背中を向けて、アサミはそそくさと扉の向こうへ消えていった。残された由理たちは、真剣なまなざしでクローバーを見つめている。
「いざそう言われると、悩んじゃうね」
「確かに改めて考えると、難しい話だな」
 奈佐と千縫が頭を抱える中、由理は神妙な面持ちで二人に向き合う。
「私はあの施設で色んなことを見てきたよ。明るい未来や、暗い過去、お爺さんお婆さんの思い出話や、職員さんたちの世間話や仕事の愚痴。そのどれもこれもが、あの場所で紡がれてきた社会の一糸だって。でも、私たちのいた社会を紡いでいた糸たちは、決して綺麗とは言えない手によって編み込まれていた……」
 益江町の成立自体が、月面政争の煽りを受けたものであるとは、由理も既に知るところである。そんな町でも、人々はそれぞれが暮らしを営み、日常を過ごし、思い出を作り上げてきた。大局的には無為な町でも、そこに住む人々にとってはかけがえのない町だった。
「政治の変革の度に日常が脅かされるなんて、私はそんなことあってはダメだって思うの。私たちが暮らす社会は、私たちによって紡がれていかないと」
「じゃあ……」
 奈佐の言葉に、由理はゆっくりと頷く。
「私の願いは、『自分たちの意志を自分たちで体現できる社会の実現』……。このあてどない宇宙の片隅の、そのまた小さな星の生き物ではあるけど、私たちには私たちなりの意志があって、みんなバラバラだけどそれでも調和して生きていける社会、誰もが主人公の社会……ってどう、かな」
 不安げに視線を落とす由理の肩を、千縫が思いっきり叩いた。
「言って早々願い事に背いてどうする、由理氏!」
「へっ?」
 キョトンとする由理の背中を、今度は奈佐が軽く叩く。
「私たち、大賛成! むしろ、その願いこそ今の私たちに合うって話だよね」
「そうそう、今まで散々煮え湯を飲まされてきた、老若男女の持たざる者の声となる!」
 そんな二人の様子を見て、由理は戸惑いの表情を浮かべていたが、頭を思いっきり振って憂いを吹き飛ばす仕草を見せる。
「……じゃあ……、頑張っちゃいますか!」
「おーっ!」
「その意気だーっ!」
 三人で交わす願掛け成就の誓い。その様子を、扉の窓からひっそりと覗き込むアサミ。
「間違いじゃ……、なかったと俺は思う」
「あら、いたの」
 通路の壁に寄りかかりながら、アサミはにやけ面の成宣を一瞥する。
「遥か空からの贈り物、同じ境遇のアサミさんと出会ったのは間違いじゃなかったな」
「……その判断をするのは私じゃないし、成宣さんでもないわ。きっとその答えは、あの子自身が見つけてくるって、信じてるもの」
「はは……なら、彼女の墓前でも同じことを言ってくれよ」
「言ったところで聞く耳を持たないわ。どうせ彼女が興味を持つのは、始祖公の――」
「やあやあご両人、お取込み中かな?」
 寝室の扉を勢いよく開いて、クロエは人差し指を立てる。
「これはまた、ご機嫌な様子で」
「たった今グミ・フェスターから連絡があってね。無事潜入したそうだ」
「意外とすんなり行ったじゃないか。LC社の会見もあって、ウラジも混乱しているのだろうが」
 ラインヴァントを服毒死へ追い込んだ実の娘、グミ・フェスターは誉志たちと私邸で別れ、別の任を請け負ってウラジオストク自治区に潜入を開始していた。
「まあ、馬鹿と鋏は使いようというじゃないか」
「これは恐れ入ったね……、信用できるのか」
 グミと共にウラジオストク自治区に潜入するのは、東部機関第一二班を名乗り列島での工作活動に従事していたセルゲイ・メドヴェージェフだった。彼は法に基づく武力の行使を是とする執行官という地位に甘んじて、雇い主たる東部機関という謎の組織に復讐を遂げようと目論んでいた。
「なるほど、利害一致ってわけだ」
「少なくとも目的達成までは、だがな」
「いかにも連合らしいやり方ね。いつか痛い目を見なきゃいいけど」
「こちらが痛い目を見る前に、向こうで勝手に自滅してくれる。完璧だ」
 既に始まっているポスト文系派体制。文系派の後釜にありつくのはいったい誰なのか、それは運命神のみが知る。
 それぞれの想いを乗せた機体は、一路ゲートウェイに向けて地球を飛び出していくのだった――。

***

 時代変革の潮流は、この少女にも訪れようとしている。
「……由仁、行きますよ」
 コペルニクス第三階層のボロアパートの前に佇む青髪の少女。セーラー服に身を包んだ少女は、階段から降りてきた女性に「雨が降りそうだよ」と尋ねた。
「もう降ってますよ。由仁の小さな涙で雨粒を隠しますか」
「僕が泣く訳ないだろ。泣いているのはこの世界さ」
 折からの降水で、道端は雨に濡れている。折りたたみ傘を手にした少女――東瀬由仁あずせゆには、女性――カスミの手を握ってアパートの軒下から身体を晒した。ぽつぽつと雨粒がセーラー服に斑点をつけていく。
「〝月よ、星よ……あてどなき宇宙よ〟」
 時代は間違いなく変革へと動いていた。しかし、その動きは緩慢すぎて、殆どの人には認識できない。それでも人々は、今日よりも良い明日を信じて無為で無垢な時間をただ消費していくのだろう。

 そして地球は、月の影に呑まれた――――

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