第2話「由理,She is...」『星霜輪廻~ラストモーメント』第2章:月面編

≫一≪

 とある日の昼下がり。昼といっても月面はただいま夜シフトなので、道路を照らすのは街灯の照明のみ。橙の暖色に包まれる七月の道すがら、西見由理は物件のパンフレットを片手に悶々とした表情を浮かべている。
「みんな足元見てるんだよなあ……家賃」
 そもそも月面に住居を構える人というのは、連合の職員であったり起業家や実業家、さらには投資家といった上級階層が殆どであり、そうした人口形態に応じて物価も格段に高くされている。それは家賃も同様で、アパートでもマンションでも一戸建てでも、いずれにしても地球とは段違いの高価格揃いだった。
「あのアパートもそれなりの家賃って知ってびっくりしたしなあ」
 地球から月面へと逃避してきた西見由理たちは、一時的に坂入真佐の別邸……とはよく言ったものの、実際のところはセカンドハウスに近く、中枢都市であるコペルニクスの下層部に近いところに居を構えてはいるが、如何せん由理・千縫・奈佐の三人で暮らすには些か手狭ではあった。
「まあでも、なさっちパパからしたらただの単身赴任用の住まいでしかないし、多くを求めるのは違うよねえ」
 とはいえ、由理は〝別邸〟を出ようとは全く考えていなかった。それもそのはずで、由理はいずれ月面を離れ益江町に帰ると考えていたからであり、千縫も奈佐も同じ考えだった。例え狭い住まいだとしても、いつか地球へ戻るのであればこの体験は思い出話になる、そう由理は気楽に考えていた。
 しかし、アサミの様子はどこか変だった、そう由理は感じていた。単に社会体験をさせたいだけではない、何かしら由理自身を別邸から引き離す必要が生じた――そんな思惑を由理はアサミの言動から察知していた。
「でもまあ、物件探しはやってみると面白いかな」
 今まで由理にとって住居とは、施設に併設された公共施設の延長戦にあるような無機質な建物か、奈佐の住んでいた豪華な邸宅の両極端なイメージしかなかった。ということもあって、由理の趣味の一つに物件見物が新しく加わろうとしている。
「次は……、四階層五区画の部屋か」
 これまで由理が回った物件は三つ。四階層一〇区画にあった二階建てのアパート、五階層六区画にあった平屋の区営住宅、二階層三区画にあった四階建てのマンションが候補に挙がったが、どれも由理の感性にぴったり来るものではなかった。
 家賃の許容範囲は、アサミによれば「気にしなくていい」とのことだったが、一方でアサミに渡された物件資料をみると一定の額の範囲内に収まっていたので、由理は黙って忖度した。

 ――月面都市建造計画第四弾、農業都市「ケプラー」の五ヵ年計画について、再開発機構と汎人類保食神総括機構との合同チームが実行委員会を設置することで合意しました。

 街頭のスクリーンにはお昼のニュース番組が映し出されている。テレビ局は月面・地球・火星合わせて二四のチャンネルが運用されているが、いずれも国際逓信機関から予算が割り当てられており、実質的には公営テレビである。放映内容はおおかたニュース番組が四割、バラエティ二割、教養番組二割、歌番組一割、そして旅行番組が一割。ニュース番組の割合の少なさは、そのまま市民たちの政治への関心の薄さを惹起させるものである。
「でもカメラの前で人が喋っているだけマシ。益江町なんか放送局が施設にあったのはあったけど、喋ってるのはAIだったし、定時放送だからつまらなかったし」
 スクリーンのある交差点は、今由理のいる二階層から三階層へ上る縦貫道路が接続されている丁字路。そこからさらに三階層回廊を進み、また丁字路を上へ上がれば四階層にたどり着く。
「低重力だから楽だけど、いつかはこの環境に慣れてきつくなるのかなあ」
 由理の手首には、物件情報が詰まった紙資料が何百ページと綴じられたファイルが二冊入った紙袋がぶら下がっている。この内由理が回った三つの物件の量は僅か一二ページでしかない。
「あーあ、アサミさん集めるだけ集めて自分は友達とお茶してるんだもんなあ」
 紙袋に収まるファイルをみて嘆息する由理。気づけば既に第四階層の五区画へとやってきていた。四つ目の物件は集合住宅ではなく、意外にも一戸建て。
「え、ここ?」
 思わず由理も困惑する程の二階建ての小綺麗な一戸建ては、文化都市アリスタルコスに造成されているベッドタウンの家と似たような造り。狭い土地にマンションやアパートを建てて人口をできるだけ多く収容するといったコペルニクス的建築様態とは真反対の住居に、由理は手元の資料を慌てて再度確認する。
「確かにここだし……、家賃も一部屋分と大して変わらない……」
 件の家の玄関には、確かに「借主募集中」と書かれたプラ板が掛かっている。家の周りには生垣が囲うように設けられていて、これもまた土地利用の合理化を進めるコペルニクスでは異様な光景だった。
「うへえ、何か曰くありそう」
 由理は、一見まともな外見であるにも関わらず相場より一回りも二回りも安い家賃設定の物件について少しだけ知っていることがある。殺人や自殺、孤独死……そうした事象の発生した物件を、事故物件と呼ぶということを。
 とにもかくにも物件を下見したということで、由理はこの物件の資料を取り出して既決のフォルダに入れようとする。
「あのぉ……すみませぇん」
「は、はい!?」
 突然の声掛けに、多少心霊系を意識していた由理は思いのほか動揺しながら返事をする。振り返るとそこには、よれたスーツに身を包んだ高齢の女性。
「お尋ねしたいのですがぁ……、ここら辺りにイワイさんのぅ……お宅はございませんかねぇ」
「い、イワイさん?」
 意外なことに月面で日本人らしい名前を聞かれ妙に安心感を覚える由理。がしかし、当然由理はイワイという人を知らないし、そもそも第四階層の地図も詳しくは分からない。
「こっちに来たばかりでぇ……にっちもさっちもいかないんですわぁ……」
「ごめんなさいですけど、うーん、私もここはよく知らないんですよね」
「そうですかぁ……」
 すると老女は、覚束ない足取りで来た道を戻っていく。その後を追うようにして、今度は若い男性が駆け寄ってくる。
「ああ、ごめんなさい、うちの婆やはどこ行きましてん?」
「婆や……さっきのおばあちゃんならあっちへ」
「あー、おおきに。ほな」
 なにやら忙しなく流れていく月面の時間、由理が首を傾げながら資料を仕舞いこんで敷地に足を踏み入れようとすると、走り去っていったはずの男性が戻ってくる。
「あ、このあたり初めての方ですか?」
「え、はい」
「ここ、昔殺人事件があってから幽霊の目撃談が後を絶たないんですわ。なんでも刺殺された主婦の怨念こもったお化けが暴れよるっちゅうんで」
「お、お化け」
 道理で家賃が安いわけだ、と納得すると同時に、反射的に敷地から抜け出す由理。
「おかしいもんですわな、今まで幽霊なんてオカルト好きの妄言やなんや言うて馬鹿にしとったのに、延命主義の時代になってからはその幽霊が科学的に証明されたってことなんやから」
「た、確かに」
「ほんま時代の正義なんちゅうもんはいったいどこの誰が決めてんやろ。そう思いませんか?」
「ま、まあそう思うことも多々あるといいますか」
「嬢さんも気ぃつけて、あんま変なとこ近寄ると不気味なことだらけですから」
「は、はあ……」
 妙な関西弁を喋る男性だったが、そんなこともよりも由理は少しでも早く事故物件から離れたい欲の方が優先され、気づいたときにはもう第三階層の丁字路まで戻っていた。

 ――今日のおすすめ晩御飯は「カレイの煮つけ」。下ごしらえや用意する食材の調達が大変に思える料理ですが、なんと今地球上ではカレイの大発生が起こっていて、通常よりお安くお買い求めできるんです。まず用意するのは……。

 いつもの喧騒に立ち戻った由理は、次の物件に向かうべく紙資料を取り出す。料理番組の音声が流れる中、由理は交差点に面する建物の角に背をもたれて、ゆっくりと資料を眺めている。
「それにしても……」
 ふと資料を読み進める由理の視線が止まる。三階層六区画のマンションの附則事項に掲載されているのは告知事項有の文字。脳裏によぎるのは、先ほどの物件での出来事について。
「意外と月面って事故物件多いのかな……」
 魂を取り出して次の肉体へ憑依させる延命社会と、霊体の存在が確認された社会とは果たして等しいのか。それとも、人の息遣いのこもる閉鎖空間に意味を求めるからこそ霊体は存在するのだろうか。よく霊魂という表現で同一視されるものの、延命社会は魂については事細かに定義づけする一方で、霊体については一切見解を述べることはなかった。
 延命社会が克服しようとした従前の超高齢社会とは、言うなれば超孤独死社会と表現できる。かつて村落社会などにあるような共同体的生活環境では、冠婚葬祭に至るまで寄合や組合による相互協力関係が構築されていたが、近代の地域社会では狭く薄く緩い共同体のみが漫然と存在し、個人主義が突き詰められて他との隔離が進んだ。住民がお互い若いか、もしくは若い世代が多ければ機能したであろう近代地域社会ネットワークも、高齢化と共に機能不全に陥り、死臭を発することでしか存在を示すことができない孤独死社会となった。
 とはいえ、人は死後誰しも自然へと還る。古代では死体を野に晒し、鳥や獣に啄ませることで視覚的な還元を行っていたが、近現代では住居の中で亡くなり、腐敗していく。個体単位でみれば悲観に暮れるのも無理はないが、社会全体が死に絶えていく過程はある意味で自然へと還る摂理の一環といえる。世界連合としては、事故物件という類別の重大性を度外視し、むしろ好意的に人の死を捉えることで延命社会の広範化・規範化を加速させる意図がある。
「でも……」
 資料に目を落としていた由理がふと顔を上げると、そこには何の変哲もない月面人の日常の風景。連合の職員らしきスーツ姿の男性に、買い物袋を引っさげて信号待ちをする婦人、そして今まさに交差点を第四階層へ向けて右折していく公用車。人が生きている場所に流れていく日常の時間は、誰かの生の多重構造で成り立っているもの。その構成要素の一つがある日突然欠けたとしても何事もなく続いていく姿は、由理にとってはまるで奇妙な怪物を見ているかのように思えた。
「こんにちは~」
 不意に声を掛けられた由理は、内心「またか」と思いながら声のする方に顔を向ける。
「今、お手すきですか?」
 どうやらセールスマンのようだった。相手のお誘いに手を振って拒絶しながらその場を後にすると、さっきまで寄りかかっていた建物が保険屋だったことに気付き、嘆息しながら由理は次の物件へと向かう。
 第三階層は他の階層よりも面積が広く、住所もより複雑になっている。今までは区画番号を確認するだけだったのが、第三階層の場合は区画番号に付随して番地も参照する。
「あそこの角を右かな」
 しばらく歩いていると、由理の眼前に十字路が現れた。階層直結の縦貫道路は三つ以上の階層を繋げることを禁じており、全て丁字路となっている。由理からしてみれば、月面で初めてみる十字路でもあった。
「同じコペルニクスとは思えない閑静な住宅街……住みやすそうだけどなあ」
 コペルニクスは、連合本庁舎を始めとして、各機関機構の本部ビルが各所に点在するいわば人類社会の中枢都市である。政治の中心地であると同時に、今や地球から火星まで拡大した生存圏を股にかける商社の本社が幾つも林立する経済の中心地でもあることから、地価は殊の外高く、また土地も狭いことも含めて、生活する場としては不適格な場所でもあった。だからこそ、文化都市アリスタルコスが建設され、またベッドタウンとしての性質も持ち合わせることになった経緯があった。アリスタルコスに住む月面人はコペルニクスの生活環境を「劣悪だ」とか「ウサギ小屋に住んでいるみたいだ」と口々に罵るが、由理にはそれほど悪い環境には思えなかった。
 ついにたどり着いた五件目の物件は二階建てのアパート『カルパティアハイツ二号棟』。そのうち借主募集中となっているのは二階の角、階段からは最も離れた奥の部屋だった。
 鍵を持っていない由理は、ひとまず建物の外観をじっくり見まわった後、スッと資料を取り出して再度情報を確認する。みてくれは一般的な住居だが、資料には一字違わず告知事項有の記載。
「ふむ……」
 一瞬躊躇うものの、由理は意を決してアパートの二階へ続く階段に足を踏み出す。資料には築二〇年とあったものの、鉄製の階段は足を置くたびに軋むほど。体重が三分の一ほどで済むはずの月面で、聞いてしまった重さの鳴動に由理は思いのほかショックを受けつつも、ようやく二階へたどり着く。
 部屋の数は三つで、手前から三つ目の部屋が件の部屋。短くため息を吐きながら静かに近づいていくと、僅かに物音が聞こえ、咄嗟に由理は足取りを止める。月面での生活環境に慣れたせいもあって暗闇と恐怖はなかなか結び付かない由理だったが、直後に三つ目の部屋の扉が揺れる様子をしっかり視認したことで不意に全身が硬直する。
「か、管理人さんだよね」
 疑念を口にする由理だったが、時を経ずして扉が開き、その影から何者かの頭がはみ出ると、「やっぱり管理人だ」と安堵して額の汗を拭く。
 ところが、何か頭から滴ったような光景を見た気がした由理が視線を扉の下に向けると、何か液体の水たまりが見えた。廊下の照明に照らされるそれは、確かに血のような赤黒い色をしている。

 ――ウゥ……。

 瞬時にすべてを悟った由理は、驚異的な速さで踵を返し、六区画の路地を猛ダッシュで引き返していく。
「血、血だまり、血? 血?」
 道を駆けていく由理は、一瞬で脳裏に焼き付いた奇妙な光景に思考を巡らせる。そういえば、扉の影から文字通り顔を出していた頭は、まるでそれ自体が独立してそこにあるかのような違和感があったことに気付いた。まるで胴体から切り離された頭部が何者かによって突き出されているような感覚。
 十字路に間もなくたどり着く由理は、そろそろ背後を振り返ろうとして走りながら視線をできる限り後ろへ向ける。とりあえず誰もいないことを確認した由理は、十字路をそのまま曲がろうとしたその時――
「おいおいおいおいっ」
「うわっ!?」
 ちょうど曲がり角で何者かにぶつかった由理は、その拍子に物件資料を路地にバラまいてしまった。
「いってぇー、ちゃんと前見ろよな!」
「ご、ごめんなさい」
 慌てて体を起こした由理は、ペーパータブレットを片手に転倒している中東風の顔立ちの少女に平謝りする。
「ったく、ただでさえ入り組んでてめんどくせえ場所なのにひでえ目に遭ったわ」
 しかし、その少女も手にはタブレットを持っている上、由理は衝突時の感触で紙に頬をビンタされたような感覚を覚えていた。
「あなただって前見て無かったでしょ、私もそりゃ急いでたので確認不足でしたけど」
「あ、ああ……それは否めないというか、すまなかった」
 意外にも少女は素直なようで、ついでに散らばった資料を拾う手伝いにも応じるほど。セミロングの金髪と、少し焼けたような色黒の少女は、まるで中東の姫君のような雰囲気を纏っている。
「ったく、今のご時世に紙資料なんてご苦労なことだな」
「それはこっちのセリフですけど……」
 ようやく資料を集め終わってひと息ついていると、少女は由理を凝視したまま固まっている。
「な、何か?」
「君セレネスじゃないだろ」
「せ、セレ?」
 不意に聞こえた謎の単語に困惑する由理だったが、少女は特に気にもせず立ち上がる。
「なんだ君、お部屋探しでもしているのかな?」
「え、まあ……」
「悪いことは言わないからこのエリアはやめておきな、老朽化が思いのほか早く進んでいるから」
「まあ確かに、さっきのアパートもギシギシ言ってたし……って、あっ」
 そこで由理は先刻のアパートで見た奇妙な光景について思い出し、とっさに後ろを振り返った。暗がりに包まれた路地には当たり前だが誰もいない。
「良いことを教えてやろう、告知事項っていうのは人がその近辺に近寄り難いということ。静かな環境を求めるのなら、家賃も安いし利点ばかりだ」
「た、確かにあまり住民を見かけないというか」
「ここら辺の物件といえばあそこだろ、『カルパティアハイツ二号棟』」
「あ、ちょうどさっきまで」
「あそこは今無人のはずだから好物件だと思うけどな」
「……え?」
 そんなはずはない、由理は首を横に振る。
「角部屋に人がいるのを見ましたけど」
 すると少女は首を傾げて路地の奥を見る。
「あ……あの、何か」
「いや……誰かがこっちを見ている気がして」
 誰か、という言葉に由理は過敏に反応してすぐに十字路の影に身を隠す。
「ま、そういうことで」
 軽やかな足取りで去っていく少女の背中を、由理はただただ呆然と見送る。かと思えば、さっきの少女の言葉を気にして一頻り路地の来た道を覗き見ては、足早に六区画を後にするのだった。

≫二≪

 社会道徳保全機構。通称シャドウと呼ばれる法執行機関の合力体であるこの機構は、常に世界連合にとっての社会正義を法理的に示す組織、陽に対する陰、明に対する暗の行政組織である。
「すべて……、すべての事象はたった一つの根源的原理のもとに動態する」
 社会道徳保全機構の原初は、「始祖公の高潔なる枢密院」と称された「星室庁」にある。「星室庁」とは、評議室の天井に大きな五芒星が描かれていることに由来し、今もその部屋はシャドウ本庁舎内に現存する。
「始まりはいつも一から。気づけば一〇になり、一〇〇に至る頃には取り返しのつかないことに成り果てている」
 シャドウの理事長ホアンは、天井の星を見上げて、ただ一人で物憂いに耽る。自身が連合職員第一期生として職に就いてから、星室庁の役人として東奔西走をひたすら繰り返した日々。体制側の走狗となり、恩師でもあったシャーロットに反旗を翻し秩序の統制を図った時。そして文系派を追い落として夢にまで見た人類社会の頂点へと昇り続けている現在。
「我が連合は転がり続ける一つの車輪。操舵輪の担手も推進力の荷手も不在のまま、ただ歴史の赴くままに有為転変を繰り返し、ひたすらに転がり続けてきた」
 世界連合が始まり、人類社会の頂点に臨んで営まれてきた延命主義完遂のための時代は、少なくない人々の攻守交替を繰り返しながら政治学的進化行程の実践を試行錯誤してきた。
「だがそれで良いのだろうか。かつて車輪の制御を試みて舵に手を伸ばした者たちは数々の苦難に遭い敗れてきた。まるで人智の及ばぬ大いなる意志によって、頑なに人の介入が拒まれているかのような事態が一世紀に渡り続いてきた」
 ホアンには確かな手ごたえがあった。連合創始期に勃興し、始祖公と延命公との間の政治的対立の中で勢力を拡大し、三月体制で大成した文系派一強の情勢が、ついに音を立てて崩れ去ろうとしている。五月体制の主軸、桑茲司弥神皐月は独断で物事を決する裁量を持ち合わせていない。文系派が滅び去った後に連合の舵をとることが出来るのは理系派のみ、それもホアン・チ・ルーエンしかいない――。
「今、私のこの両手に、全人類の運命を左右する舵が収まろうとしている。絶えず自然選択によってのみ切られてきた舵が、私の一存によって操舵されんとしている……」
 ホアンの気の持ちようは、もはや舞台に立つ役者のようだ。例えこの世界が台本に則った劇であろうとも、与えられた役を大いに果たし、照明の下で声を張り上げる。誰もホアンの役回りを遮ることはできない、もはや壇上にはホアン以外に立ち尽くす者はいないのだから。
 五芒星を戴くホアンの次の一手。それはもう間もなく「星室庁」の戸を叩くだろう。
「……来たか」
 評議室に姿を現したのは羅啓明行政官。
「たった今益江事件総括の指針について取りまとめが行われましたので報告します」
「ご苦労」
 羅を背面で迎え入れたホアンは、羅と目を合わせずに話を進める。
「これで文系派の、ヘルマンの寄り付く隙間は無くなったという訳だ」
「ええ、そのヘルマンに尻尾を振っていた間抜けどもも同じく」
 依然羅の態度は日本州昇格に否定的である。それはホアンも重々理解していた、少なくともそのつもりだった。
「ついに理系派が連合を領導する。主体なき総体に魂が宿るのだ」
「…………」
 ホアンの意気込みとは対称的に冷静な表情の羅。二人の立ち位置は決して在りし日のシャーロットとホアンとの関係に比類されることはない。ただ職務業務上の、主義主張上の関係性が漸近し、決して交わることのない空々寂々な二本線が机上を走るだけである。
「台下は……どうしておられるかな」
「じきに官房長官からこの件についての内奏が行われる手筈となっていますが」
「私は常々思うのだが、果たして政治的判断に公正な態度で臨むことが求められる桑茲司という重要な地位に、あの方をこのまま就かせておくのは如何なものか」
「はて。台下は今、我々理系派によい心持ちをしておられるかと」
「ということは、だ。台下は形成次第でどちらにも傾きうる、もちろんその矛先は理系派へと向くだろう。そしてその動性には牙を抜かれた文系派共も相乗りしようとするだろう」
「桑茲司の性質さ故、従来の体制転換は単なる制度上の過失の結果行われたきた無駄な工程だった……と」
「始祖公の目指した政治学的進化工程を実践主義に基づいて紐解くならば、桑茲司という立場を是認するこれまで通りのやり方はもはや不適当だろう」
「しかしそうだとしても、人類が桑茲司という座を崇敬してはや一世紀と半分。変化に過度に及び腰の市民がおいそれと理事長を受け容れようとは思えません」
「今回の文系派による贈収賄事件、ナアナアで終わらせるつもりはない。果ての果てまで罪状を暴き、完膚なきまでに文系派を叩き落とす。そうして成立した完全社会にこそ延命主義的価値が籠るという訳だ」
 ホアンの野望を受け止める羅の表情は思いのほか淡白なものだった。依然ホアンは羅に背を向け、天上ばかりを見上げている。
「羅よ」
 不意にホアンが呼ぶその名は、長閑な空間に僅かな澱みをもたらした。名の持ち主たる羅はホアンの呼びかけに無言で応える。
「私は君を買っている。その才覚を社会発展のために存分に発揮してもらいたい」
「……もちろん、そのつもりです」
「私はこれから最高検察庁に赴く。進歩を止めることなく続けること、それが我々理系派の矜持だ」
「かつての公同相論を乗り越えた、新たな理系派……」
 理系派の領導たるホアンのスタンスは、当初のシャーロットが標榜したような生得主義的延命主義と若干の差異が生じつつあった。元来シャーロットは合理論に基づく生得主義的延命主義を掲げてヘルマン率いる文系派と対峙し、旧PDC(範莅規律委員会)と共に政策を進めてきたが、シャーロットの下で動いていたホアンは一方で合理論よりも実践主義に傾倒し、科学主義的経験論ともいうべきスタンスへと変容した。急進的に政策を立案し、不断に実行しようとするシャーロットの強気な姿勢に対し、ホアンは根底の行動理念から既に剥離しつつあったのである。
「来るべき時は今。文理超克の同衆が集い……連合創始の頃よりの悲願、公同相論の決着をここで!」
 天井の五芒星は一世紀半の長きにわたり、連合の動静を見守り続けてきた。特にホアンにとっては、重要な決断を下す時には常に星室庁の天井を仰ぎ見た。州昇格の手続きに追われたとき、理系派としての契りをシャーロットと語り合ったとき、そしてシャーロットを漂白刑へと追いやったとき――。
「では、私はこれより円卓ビルへと戻りますので」
「ああ、いいぞ」
 踵を返し星室庁を去っていく羅の背中を、ホアンは今度は自らの肩越しに視界の隅に据える。
「……ヘルマンの匂いが残っているなあ、行政官」
 椅子を引き、どっしり身を委ねるように腰かけたホアンは、背もたれに軽く背中を押し付ける。閉じていく扉を一瞥し、大きく息を吐いては苦虫を噛み潰したような表情で天井を睨んだ。
「月面人……セレネスは元来出身州の利害に関わってはならない。かつて国際連合は国際協調の名の下に特定の国家が自国へ利益を誘導する浅ましき所業を繰り返し、ハリボテの平和は脆くも崩れ去った。その反省の上に世界連合は立っている、州郡制も同様の理由から設けられた。しかし羅はその根底を覆し、とにもかくにも大東亜州を口にする」
 大東亜州は、州承認を得る前は共産主義体制を戴く国家と民主主義を標榜する反体制派との間で内戦状態にあり、その中において華南地域を拠点にしていた民主主義勢力が一足先に州承認申請を送ったことから、現在の大東亜州は成立している。州承認が為された後は、華北地域も離合集散を繰り返し、ついには州域に組み込まれた。羅は華北出身であった。
「州はあくまでも連合が延命主義を遍く人類社会に敷く為の手であり、足に過ぎない。手段を目的と履き違えてはならないが、彼女の性格では聞く耳を持たない、下手をすれば獅子身中の虫だ」
 ホアンは羅の内心を悟っていた。彼女が長年理系派としての矜持を抱く一方で、足元の大東亜州が己の利得に目がくらみ禁忌である文系派の一端を担いでいたこと。それを知った羅が、まるで沸騰する湯の温度を確かめようと指を伸ばす無垢な子のように触れたこと、そしてあれほど毛嫌いしていた文系派の拵えた熱水が程よい湯加減であると知ってしまったこと。
 世界は正しさを掲げるだけでは真たりえない。それは世界の観測者たる人間が情動の存在であると同時に、集団を形成する社会的動物だからである。時に為政者は悪法ともいうべき独りよがりな決まりを定めては他者を排斥し、またある時は愚法が故に悪人を裁くこと能わず、誰のための法なのか判然としないものがあり続けるなど、世界は正しさを希求し、されど幾億の個性が真の合一性を損なわせ、無為な体制転換が古代文明発祥以来綿々と続いてきたのだった。
「さながら矛盾を吐き捨てるようで苦々しいが、もはや社会の発展に文理などという分化は不要だ。不要だが自己存立に目がくらむ文系派は徹底的に崩していかなければならない」
 ホアンの固い意志は、一方で恩師の影のチラつく極めて副反応的な、自身の経験を引き出して他者へ同等の苦しみを強いる危うい土台の上に成り立っていた。そんなホアンのまくし立てる言説は、羅曰く〝雨霖鈴曲〟と表現される程に往事のシャーロットの幻影が見え隠れするという。
 動き出した反文系派の動向は、決して一致結束などという綺麗な文言に収まりなどはしない。あちこちから雨後の筍のように表出した文系派――ひいては連合への不満は、様々な形で顕現する。
 一方で円卓ビルのとある一室では、そんな一連の出来事とは乖離した予定調和が他ならぬ理系派の手によって奏でられようとしていた。

≫三≪

 益江事件の総括作業は、理系派が文系派に成り代わって連合を動かしていくうえで避けては通れない重大な意味合いを持っていた。
「――それでは確認しますので、訂正箇所があれば適宜申告してください」
 一介の男性職員が恭しく手元の紙資料を読み上げると、長机を挟み相対する恰幅の良い壮齢の男が息を吐き出すように重々しく「うむ」と応える。
「日本自治区社会保健局局長坂入真佐。貴方は組織図上は日本自治区の下で働きながら、一方で再開発機構から拠出された予算を用いて益江町を監査する職務にあたってきました……」
 真佐は職員の言葉に逐一言葉を返すことはなく、ただ職員の寝ぐせを凝視している。不意に職員の説明が止まったかと思えば、真佐の申告がないと悟って次の段落を読んでいく。
 円卓ビルと呼ばれることの多い内務市民委員会の本部ビルは、連合創始以来数多の罪業に身を寄せた者たちの怨恨が重畳する月面屈指の不浄の地とも言われている。かつては世界統合の暴力装置たる国連軍と世界警察とが同居していたこともあり、サトゥルナリア転変の際には政争の舞台ともなった。
 しかし敷地の周りは連合職員たちの宿舎や官庁との取引を行う御用商人の邸宅が立ち並ぶ普通の住宅街であり、転変期より間もなく一世紀が経とうとしている中において、誰も円卓ビルの負の側面に目を向ける者などはいなくなっていた。少なくとも、政争に敗れて舞台を降りざるを得なくなった者以外にとって、円卓ビルは紛れもない世界連合の法執行機関、シャドウと対比するならこちらは陽の機関だった。
「――以上の事由より、内務市民委員会は坂入真佐に対し以下の罪状にあたることを勧告いたします」
「……勧告、だと?」
 職員の言葉遣いが奇妙に思えてならなかった真佐は、怪訝な視線を部屋の隅に向ける。
「ええ、そうです。今回の特別調査委員会を取り仕切るのは社会道徳保全機構、あくまでも我々の役目は容疑者の特定と身柄確保、そして移送です」
「知っている。だが罪状の勧告とは越権行為ではないか」
「ですからあくまでも勧告、と。社会道徳保全機構は今上から下までてんやわんやだとのこと、助けて差し上げようというのがニコライ行政官のお考えです」
「……ふっ、羅行政官も同じ考えかね?」
「内務市民委員会は三人の行政官の言行一致により初めて組織として動けるのですから、つまりはそういうことでしょうが」
「組織というものは所属する人が多ければ多いほど制御できなくなるは道理。いつまでも原則論で物事を見るから君は下級職員止まりなのだよ」
「失礼な物言いですが私はこれでも二年目です」
「はは、なるほど」
 分かったような分からないような、そんな職員の答えに苦笑しながら、真佐はゆっくりと腕を組む。
「とにかく今回の調査委員会の主体はあくまでも〝第三者〟によるものですから、私たちは上から言われたことをそのままお伝えしているだけですので」
「イマイチ判然としないのは、特務課が動き、検察官が動き、その上で黄昏官も動いていると聞く。それでいながら、第三者主体の委員会だと?」
 今回の益江事件の総括は、ひいては文系派による一連の贈収賄事件解決に直結する重要な事案である。この事案を理系派がうまく処理できれば、ポスト文系派の地位を確立させることが出来るのである。
 しかし特別調査委員会の主体はあくまでも第三者委員会、主たる任命者は桑茲司だが、委員を推薦しているのは歴史評議委員会だという。推薦理由や基準、候補者名簿などの情報は一切明かされておらず、委員の面々を知る者は上層の捜査関係者のみ、ヘルマンはもちろんのこと、ホアンや羅にすらも委員会の詳細は知らされていないという。
「ええ、私も気にはなりましたが触らぬ神に祟りなしですから」
「組織の手足としては一〇〇点でも、いずれその思考は己自身に牙を剥くことだろうな」
「〝ミルグラム実験〟という奴でしょう。ですが客観的な思考プロセスを求められる我々に当てはまりはしませんよ」
「メタ認知がボケ予防に繋がるのであればそれでいいのだがな」
「ボケたのであれば器を変えればいいだけのこと、何を恐れる必要があるのです」
「肉体という器を信用していない癖に、頼れるものは他ならぬ肉体だけ。社会全体がその〝歪捻なる不文律〟に我関せずの態度をとっている……まさに二三世紀の世界精神よ」
 内務市民委員会は既に政局に対して中立を貫くというスタンスを捨て去った。文系派であったニコライ・エジョフが時局を鑑みて理系派に傾倒したことにより、法の影で私腹を肥やしていた文系派に対する鉄槌が容赦なく下されようとしている。ところが、そういう期待を政治に寄せる世界市民の理想とは裏腹に、司法の現場では重畳する事案の対処にてんやわんやであり、とても理想が完遂される環境ではなかった。一枚一枚の資料に目を通す役人の心の中にあったのは、「判例を得たい」ただ一点のみであったろう。
 時を経ずに真佐の身柄は司法権を行使する行政体:世界連合汎拠最高裁判所へ移送された。審理の過程も判例も多くは示されぬまま、御用弁護士と検察官、そして裁判官が法廷の外で談合し、筋書き通りに進められた台本に則って極めて形式的な裁決を得た。

 ――主文、被告人坂入真佐を懲役一〇年とする。

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