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これからの計画論の条件(続2)危機的状況への対応:「諦観」パストラルvs「生存」ピカレスク

これからの計画論の条件(続2)
 危機的状況への対応として、執着型vsスキゾ型という対立項(ディコトミー)とは別の視点として、いったん退いて諦観する<パストラル型>か、その場を生き抜く<ピカレスク型>か、という対立項(ディコトミー)を提案してみたい。以下は「喜劇としての人間ー文学的エコロジー序説ー」(ジョセフ・W・ミーカー著/越智道雄訳1975年)という本からの考察です。
パストラルとピカレスク
 受け入れ難い世界に直面した場合に人間が取り得る重要な反応様式は、そこから逃れるか、そこで生きのびて適応するかのふたつである。前者を田園に脱出するという意味で「パストラル」、後者を悪漢小説の「ピカレスク」と呼んでみる。
 パストラル(田園詩、牧歌詩)とは紀元前1世紀ローマのヴェルギリウスが完成させた詩で、のどかな動物と羊飼いが周囲の自然に親しみ睦み合いながら暮らしている姿を描いたもので、ルネサンスで復活した。一方ピカレスク(ロマン)とは16世紀スペインで現れた悪漢小説で、主人公は敵に囲まれながら悪戦苦闘しながら生き抜いていく冒険物語である。
パストラル的な志向とピカレスク的な戦略
 パストラル的な志向は、エデンの園からはじまって、陶淵明の桃源郷、ハワードの田園都市構想に至るまで、自然と共生した穏やかな生活を希求する人間の基本的なあこがれであり続けた。紀元1世紀のローマではすでに都市の汚染、公害、悪徳を嫌って、農場での暮らしに安らぎをもとめる詩が書かれている。14世紀ペストが蔓延するフィレンツェから逃れて田園に避難して「デカメロン」が書かれたように、現在のコロナによる郊外や別荘への移住の動きとも、リンクしている。
 パストラル的な志向が、汚染された都市や悪と狂気の世界からの逃走・撤退・避難であり、隠遁であり、人間にとって優しく馴致された自然との共生であるのに対して、ピカレスク的な志向(というより「戦略」というべきだが)は、逃走することができずに、とにかくその世界のなかで生き抜くことが目標となる。目の前に降りかかってくる問題を、その場にある手持ちの材料でブリコラージュ(器用仕事)によって、なんとか部分的に解決して、次の状況に立ち向かっていく。
都市プランニングにおいて
 今日の状況に当てはめると、都市プランニング的に言えば、パストラル的志向とは、郊外の田園地帯に、自然と共生したアルカディアともいうべき、自給自足的な庭園都市を構想することであり、ピカレスク的戦略とは、都市の内部の隙間的空間や空き地に、暫定的なイベント空間を現出させるようなエリアマネジメントといえるだろうか。
パストラル幻想にもとづくアメリカ
 アメリカは、ヨーロッパからの移住者による、一国全体を牧歌的庭園をモデルにして作った世界で最も大きなパストラル幻想にもとづくユートピアの実験場であった。トーマス・ジェファーソンは、荘園的構成の自宅と大学を建設し、国家までも構想しえた。アメリカ人のお金持ちの夢は大きな牧場とかワイナリーを持つことであり、そうした自分たちの閉ざされた楽園への部外者の侵入への潜在的恐怖があのゾンビ映画の流行を生んでいるのかもしれない。
 パストラル的政治家がジェファーソンだとすれば、ピカレスク的政治家はマキャヴェリだろう。国家として生き延びることが、倫理的妥当性より重要であり、さまざまな偶発的状況を受け入れてテキパキと処理していくしかないのである。理想や思想はその場に対応する手段に過ぎない。
脆弱と竜頭蛇尾
 パストラル的志向は、閉鎖的で理想追求的であり、その視点は俯瞰的・鳥瞰的であり、<認識的>であるのに対して、ピカレスク的戦略は、開放的で現実処理的であり、視点は地面からの虫瞰的であり、<行動的>である。今日の、環境問題、気候変動、資本主義の行き詰まり、国家紛争という激変期において、パストラル的志向は、理想論的には全体的な新しい構想を提出する態度・責務があるはずであるが、彼らは未来をおそらく悲観的にしか予想できずに、基本的には逃避的であり脆弱である。結局のところ、彼らのように優雅に出国・逃亡できないわれわれは、この場でなんとかピカレスク的に生き延びるしかないのである。その先に華々しい結末が待っていることはあまり期待できない。ピカレスク小説は竜頭蛇尾で終わるのが普通である。


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