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紫電改のプロペラ・市民から見た太平洋戦争

 拝啓
 突然の見知らぬ者よりのお便り失礼致します。
毎日寒い中の漁業、大変な事とお察し申し上げます。
 さて、お手紙差し上げた理由は、先日二月二十日の朝刊、大分合同新聞の三面記事で、戸田さんが新日鉄(三号地)沖の海底から飛行機のプロペラを回収された県で、旧海軍の「紫電」か「雷電」という記事が目にとまりましたので思い出して書きました。
 私は「紫電改」だと思います。
と言うのは、昭和二十年五月七日、大分市の上空でB29を迎えて、日本機との間に空中戦が有りました。
五月上旬には大分の航空しょうを狙って(航空隊は破壊されていたので)連日(1日おき)のようにB29が来襲しましたが、中々なかなか目標からそれていましたので、の日もそうだったのだろうと思いました。
 此のB29を迎えて、佐賀関さがのせき上空で待ちかまえていた大村海軍航空隊の「紫電改」がB29の一編隊を待ち伏せ追撃攻撃をしかけ、あわてたB29は爆弾のほとんどを、海と大在(現在大分市東部)地区、(大野川の河口右岸)の上志村集落に爆弾を投下して、そのまま西進して大分市の真上を通過中、日本機が空中爆雷を発射、空中で花火と、如雨露じょうろの水をまいたような白煙が空一杯にひろがり、その中の一機に命中、やがて白煙を引きつつ南東の空に消えて行きましたが、(後に南海部郡弥生町宇藤木集落の山中に墜落したそうです)
 その時突っ込んだ日本機も一機は稙田わさだ地区(大分市の南西部)の小野鶴集落の田んぼに落ちて行き、もう一機も同様煙もはかずに萩原はぎわら(東大分)の海へ落ちて行ったそうです。搭乗員も無事脱出、現在東大分小学校の近くの田んぼにパラシュートで生還し、村人へ飛行場の道を聞き、そのまま歩いて裏川を渡って大分の航空隊へ戻って行ったそうです。
 萩原の海岸は、当時、白砂青松はくしゃせいしょうの遠浅の海で、臨海工業地帯として三号地として埋め立てられ、新日鉄が建設され、昔と大きく変わりましたが、もう、昔を知る人も少なくなりました。
 もしその時の飛行機でしたら、五十九年ぶり日の目を見た物で、歴史を語る貴重な戦争の遺品です、
 どうか、深江城の回天神社にでも大事に残してもらいたいものです。(同じ時期に戦った兵士のためにも)
 是非一度見に行きたいものです。
「雷電」は大分の空ではあまり見かけませんでした。
昭和十九年の五月ごろ、飛行場拡張作業に勤労奉仕で毎日のように行きましたが、零戦ゼロせん、九九式艦爆、艦爆(彗星すいせい)、九七式艦攻、天山(艦攻)等多く並んでいるのを見ましたが、雷電は並んでいませんでした。唯一度、昭和二十年の一月下旬頃だったか、冬の寒空に見かけないずんぐりとした胴体の飛行機二機(雷電)が、五、六百米の低空をすごい速さで飛んでいたのを見かけました。それが最初で最後でした。
 以上、思いついたまま書いてみましたので、参考までにお知らせいたします。寒い折ですのでご健勝祈ります。      敬具
 三月八日  

~引用ここまで~

 先日、回天神社を訪れました。


回天の模型も見ることができます。

紫電改プロペラも、そこに展示していました。


紫電改のプロペラ

一緒に展示しておりました手紙が、とても印象的でしたので、保存したくなりました。冒頭のお手紙は、その内容になります。

 御覧いただきありがとうございました。
誰かのお役に立てたら幸いです。

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