【極超短編小説】パズル:最後の一片
「いらっしゃい」
と彼が玄関のドアを開けて迎えてくれた。
「おじゃまします」
そう言って、私は手土産のシュークリームの箱を手渡す。
「ありがとう」
と彼が笑顔で言った。彼の笑顔はいつも感じが良くて爽やかだ。
部屋着はヨレヨレのスウェットなんかじゃなくて、カジュアルな襟付きの綿の白いシャツとベージュのチノパンで、硬すぎる感じもしないし、今日もきちんとしている。
私は脱いだ靴を揃えて、掃除が行き届いてほこり一つない廊下を通り、リビングに案内された。
「そこに座って」
彼はソファを指さして言った。その場所は私の定位置だ。
私は浅めにソファに腰掛けて、何気なく窓の外を眺めた。遠くの鉄塔の輪郭が妙にはっきりと見えて、鉄塔が空にはめ込まれた感じがする。
彼はというと、キッチンで私の持ってきたシュークリームを皿に載せ、コーヒー豆を挽いている。
あるべきものがあるべきところにある感じ、落ち着いた感じ。私はこの感じが好きだ。いや、好きになった。
「どうぞ」
そう言って彼は私の前にコーヒーカップを置いた。いつものいい香りが漂う。ゆっくりと一口飲み干すと、「ふぅ」と私は思わず溜め息が出た。
「どうしたの?」
と少し怪訝な顔で彼が尋ねた。
「近頃仕事が忙しくて……。形だけだけどプロジェクトリーダーとかにされちゃって。でもここにいると、あなたといると仕事のことも忘れて、すごく落ち着くの」
私は彼に向き直って応えた。
「そう。すごいじゃないか。それは良かった」
と彼は満足そうな笑顔だ。
「そう言えば、あのジグソーパズルは出来上がったの?」
彼はジグソーパズルが好きで、今までいくつも組み立てている。彼が最近組み立てていたのは、町の図柄のパズルだった。丘陵に囲まれたのどかな雰囲気の小さな町の図柄が私は気に入っていた。
「……ああ、あれね。もう完成したよ」
と彼が言った。
「見せてくれる?」
と私。
「もう、処分したよ」
彼は少し不思議そうな顔で返した。
「え!捨ててしまったの?どうして?」
「完成したからね。パズルは完成するまでが楽しいんじゃない」
彼はどうしてそんなこと聞くんだと言うように、相変わらず不思議そうに応えた。
「そ、そうね……」
私は咄嗟にそう言った。
「そうだ、写真をプリントアウトして、アルバムを作ったんだ。見てみるかい?」
彼はアルバムを私の前に置いて、私のすぐ横に腰掛けた。肩と肩をくっつけて、二人でページを開いて見ていく。
出会って間もない頃の初めてのデートのときの写真が目に入る。「彼の横に写っているのは、本当に私なの?」と思えるほど、その当時の私は野暮ったかった。自分で言うのも何だが、今の私は随分と垢抜けたんだな、と感じる。彼はと言うと、今とほとんど変わらない。人好きのする笑顔の好青年だ。
アルバムのページを1枚ずつめくっていく。大学時代、就職した会社の入社式、デートや旅行、クリスマスやイベントなど、懐かしく感じると同時に私自身の変化に驚く。歳を重ねるに連れ、子どもから大人になっていった、というだけではない。今にして思うと、彼と付き合い始めてから私は変わっていった。有り体に言えば、すっかりと彼好みに変わってきたのだろう。
「君は完璧だね」
アルバムを閉じると、彼が私を見て言った。
「完璧?」
私は何のことだか分からず問い返した。
「大学の卒業も良い成績だったし……」
「あなたが勉強を手伝ってくれたから」
「大手の有名企業にも就職したし……」
「あなたがアドバイスしてくれて、知り合いの先輩を紹介してくれたから」
「今だって、資格試験のために一生懸命勉強しているし、プロジェクトリーダーにもなったんだよね」
「あなたが頑張っているから、あなたに釣り合うようにと思って……」
「僕たち、良い家族になると思う」
と彼は優しい、満足しきったような笑顔で言った。
数日後、私は警察から連絡を受けた。彼が亡くなったと聞いた。彼の遺体は鉄塔のすぐ横で発見された。自殺ということだった。
彼には身寄りがなく、彼のマンションの部屋は私が片付けることになった。
何日か前に来たばかりだった彼の部屋に入った。部屋の中は空っぽだった。玄関の靴も、カーテンもリビングのソファもテーブルも、寝室のベッドも机も、全てのものが運び出されていた。彼の性格を考えると、彼が事前に部屋の片付けを済ませていたのだろう。きっちりと、ちゃんと。
ふと、窓のそばの床に何かがあるのに気づいた。それはタキシードの男性とウエディングドレスの女性が寄り添った絵柄のジグソーパズルだった。近づいてしゃがんで見てみると、最後の一片がはめ込まれずに、脇に置いてあった。
私はその一片を手にとって立ち上がり、窓から遠くの鉄塔を望んだ。鉄塔の輪郭が涙でぼやけた。
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