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短編小説 アナザーワールド 後編


 翌日は雨だったので、バスで学校に行った。その日の夕方、部活が終わったあと遊佐と一緒にバスに乗った。バスを降りると彼は突然私に話しかけてきた。

「なんか、低い音が聞こえない?」遊佐は右手で耳を抑え、辺りを見回していた。
「え?」私は耳を澄ませたが、静かな雨音しか聞こえなかった。
「何も聞こえないよ。何が聞こえるの?」
「最近、地鳴りみたいな低い音が時々聞こえるんだ。なんだろうな。耳鳴りなのかな」
 遊佐は遠くの山を見つめながら言った。雨粒が傘に落る音が私の中で妙に響いていた。
「遊佐、昨日はごめん」
私がそう言うと、遊佐は振り返ってまっすぐ私の目を見た。
「俺も変なことを相談してごめん。もう少し、様子を見てみようと思う」
 その言い方はある種の決意みたいなものを秘めているように思えた。
「わかった」
手を伸ばせばもう少しで届きそうでも、この人の孤独には誰も触れる事は出来ないのだろう。
「何かあったらいつでも言って」
 今まで幾度となく口にした台詞だった。でも私はこの言葉を口にするたびに、上辺だけでなく心の底からそう思っていることを実感するのだった。それなのに、どうして上手くいかないのだろう。

 それからしばらく雨が降り続いた。私はバスで通学したが、バスの中で遊佐に会うことはなかった。彼は合羽を着て自転車で通学していた。

 11月上旬、久しぶりに朝から晴れて気温は上昇した。その日は部活がなかったので16時には家に着いた。すると、家の前で遊佐に会った。彼はぼんやりと遠くの景色を眺めていた。

「遊佐、どうしたの?何見てるの?」
「小学校の近くの、三叉路の道路の横に、小さな祠があったよな」
「いきなりどうしたの?今もあると思うよ。それがどうしたの?」
「ゆうべ夢に出てきたんだ。今からそこに行ってみようかな」

 遊佐は遠くの山をじっと見つめていた。私はなんとなく遊佐を一人で行かせてはいけない気がして、「私も行く」と言った。私達は制服のまま家を出た。

 家から畦道を5分ほど歩くと、三つに分岐しているアスファルトの広い道路へ出た。その片隅に石造りの小さい祠があった。遊佐は祠をじっと見つめながら言った。

「昔、小学生の時かなあ……何かの帰り道にスズメバチに襲われて、二人で走って逃げたことあったよな」
「覚えてる。よく無事に逃げ切れたよね」
「この祠まで全力で走って、助かったって言って二人で地面に寝っ転がって大笑いしたよな」

 あの時遊佐は私の手を引いて走った。足が速いのだから私を置いて逃げればいいのに、彼は私の手を放さなかった。
「その時見上げた空の色を、妙にはっきり覚えてる。すごく不思議な色で……今日みたいな、こんな色の空だった」

 太陽が西に傾き、山に沈むところだった。空は一面鮮やかな紫色に染まっていた。細長い薄雲が連なってゆっくりと流れていた。遠くからカラスが鳴いている声が聞こえた。遊佐は遠くの景色をぼんやりと眺めていた。

「あ、また……地鳴りが聞こえる」と彼は言った。私にはそんな音は聞こえなかった。
 私は遊佐がどこか遠くに行ってしまう気がして不安になり、後ろから彼の左腕にそっと触れた。
「遊佐」
 彼は振り返って私を見た。
「あの時はありがとう」
 彼は私を見つめたまま何も言わずに小さくうなずいた。

 冷たい風が流れた。日が暮れるのがどんどん早くなり、冬の気配が訪れている。もうすぐ秋も終わるのだ。

「ここまで来たから、ついでにコンビ二に行かない?飲み物買いたいし」と遊佐は言った。
「今から?もう暗くなるし、遠くない?」
「でも1キロくらいじゃない?30分あれば行って帰ってこられるだろ」

 遊佐は右手で私の左手を掴んだ。そして私の手を握ったまま足早に歩き出した。
 枝葉が風に揺れる音と虫の鳴き声が周囲を包んでいた。それに混じって私達の足音が大きく響いた。私達は手を繋いだまま肩を並べて歩いた。お互い何も話さなかった。辺りはどんどん暗くなり、街灯の頼りないあかりだけが私達を照らしていた。

 私はどうしたらいいのかわからなかった。でもその一方で、このまま時間が止まって、コンビニに着かなければいいのにと思っていた。

「この間、俺のトランペットを褒めてくれたよな」突然遊佐は言った。
「うん。遠くから聞いても遊佐の音だってすぐにわかるよ。あんな音、なかなか出せないと思うよ」
「多分……、俺はずっと練習してるんだ。繰り返し繰り返し何度も」
「いつも朝一番にきて練習してるもんね」
「俺はきっと、向こう側にいるんだと思う」

 その時だった。振動とともにゴゴゴという耳を劈くような重低音が聞こえた。この世の終わりかと思うような激しい音だった。振動が大きくなり、その音がどんどん近づいてくるのがわかった。

 これはなんの音……と言おうと思った瞬間、何か強い力に全身を引っ張られた。それと同時に後頭部と背中に強い衝撃が走った。痛みは何も感じなかった。私はその場にうずくまった。何が起こっているのか全然理解出来なかった。気がつくと街灯は消えて周囲は真っ暗だった。もう何も見えない。もはや遊佐の手の感触しか頼れるものがなかった。遊佐の手……。
 その時、私は遊佐の手を放してしまった事に気がついた。意識を失う前、私は腹の底から彼の名前を叫んだように思う。



 19☓☓年11月、私の住む町に震度5弱の地震が起こった。家屋の倒壊に伴う数人の負傷者が出ただけで、被害の規模としては大したものではなかった。

 翌日私は隣町の病院にいた。地震の際に電柱か何かにぶつかり後頭部を強打したようだ。そして急性硬膜下血腫を起こして手術をしたらしい。意識のない状態で道路に倒れていたのを救助されたようだ。

 私と遊佐の家はがけ崩れに巻き込まれて全壊した。土砂は祠のところまで及んでいた。雨が続いていたせいで地盤が緩んでいたのだ。あの時コンビニに向かわずに家に戻っていたらきっと死んでいただろう。本当にぎりぎりのところで助かったのだ。

 後遺症の記憶障害は少し残るものの、リハビリは順調に進み私は退院できた。学校にも復帰することが出来た。

 ただ、気になる事がある。
 学校にはもはや誰も知っている人がいない。初めて会う人ばかりだった。でもみんな私のことを知っている。私に話し掛けてくる。私が今まで一緒に勉強していたクラスメイトも、吹奏楽部の部員も、どこにもいなくなってしまった。そのかわり、全く知らない人達がそこにはいた。地震をきっかけにパラレルワールドへきてしまったのか、それとも単純に頭部外傷に伴う記憶障害なのか、もう誰にもわからない。

 そして、もうひとつ。
 遊佐篤史もいなくなった。私の隣の家に住んでいたのは山田さんというご夫婦で、子供はいないらしい。両親も遊佐の存在を知らない。学校の人間も誰一人として遊佐のことを知らない。彼の存在は完全に消滅してしまったのだ。

 でも私は、私の記憶の中に存在する彼に間違いなく会っていた。私の目の前から消えてしまっても、彼は私とは別のパラレルワールドで生きていると信じている。

 私と彼のたどる道ははじめから交わることはなかったのだ。もう二度と会えなくても、私は生涯彼を忘れることはないだろう。


(完)



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