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土台をそろえる

早速「よりどころ」を紹介していこうというところでしたが,まずはなぜ「よりどころ」を気にし始めたのか書かせてください。

ちょっと想像してほしいのですが,教材研究の相談をしているときに
A「国語のこの単元では段落相互の関係をつかみたいよね。どんな活動が考えられるかな?」
B「そうですね。まずは研究課題の対話的な学習にするために,どこでペアやグループ活動を仕組むか考えていきますか。」
というような会話。

対話的な学習にするために,というのはそもそも到達目標にはならないので,例としては微妙ですが,そこはさておき,ここで言いたいのは,
Aさんは「国語の学習内容へのアプローチ」の話をしているのに対し,
Bさんは「研究課題の対話的な学習から見るアプローチ」を語ろうとしているということです。

2人の教材研究を違う角度から見ているんですよね。
Aさんは国語の学習内容から迫るのに対し,Bさんは対話的な学習活動から迫ろうとしているわけですね。

どっちが正しいという話ではなく,2人の教材研究を考える上での土台がずれちゃってるんですね。

このまま議論を進めても,どこかかみ合わない話が続いていきます。

他の例でいえば,「主体的に学習に取り組む態度」なんかもこういったことが起きやすくないですか?

ある人は「粘り強さ」や「自己調整」の視点から語り,ある人従来あったような考え方で,またある人は,えらい人たちが言うことで現場のことがわかっていない,というような見方から語ったり…

この場合も,「主体的に学習に取り組む態度」を語る土台がそろってないと,議論が成り立たないんですよね…


そう考えると,「土台をそろえる」ことって教材研究にかかわらず,他者とかかわっていく中で結構大事なんです。

じゃあ,どうするのか。

「土台をそろえ」て議論をするためには,自分の語る「よりどころ」が相手にも共通認識になっているといいんですよね。

「教員なんだから,同じ言葉を使えば伝わるじゃん!」
「正しい言葉の理解もできていないなんて不勉強だ!」

と,思っていると,一向に前には進めませんので,共通認識を作るにはどうしたらいいかって方向で話を進めますね。

次回,共通認識をどうとらえるかについて書かせてもらいますね。

※「非認知能力」にたどり着くまで少々お時間くださいね。

誰かの「よりどころ」になりますように。


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