なにかを、かく〜衝動に従うとは

人間には生命体としての三大欲求というものとはまったく別に、どうしてもあることをしたい、という体質のようなものが生まれつき備わっているような気がする。
それは、好き、ということかもしれないが、好きという感情以前の、もっと能動的かつ衝動的な、それがしたい、そうせずにはいられない、という、身体的な感覚である。

何かをせずにはいられない、ある人はそれが踊ることであったり、山へ登ることであったり、歌うことであったり、機械を分解することであったり、するのかもしれない。

自分の場合は、まず絵を描くことであった。
ごく小さい頃から、新聞広告や、カレンダーの裏の白い部分を見つけると嬉しくて、次々と絵を書いていた。「この子はお人形ばかり書いていて」というのが親の評で、次に本、文章を読むこと、字を書くことが加わった。今思えば、人交わりが恐怖でしかなかった自分にとって本は避難場所であり、紙と鉛筆は数少ない味方であった。それらを選んだのは意思というより、自衛のための本能であったように思う。

この数年来、自分自身で物語を考えて書くようになってからのことだが、よく思うことがある。

例えば、紫式部が、源氏物語を執筆しようと思い立ち、最初のそのひと文字を書いた瞬間。

彼女は、どんな思いだったか。

源氏物語の内容、成立やその背景、また紫式部の人物像について素人の自分がわざわざここで触れるまでもないが、

その瞬間、彼女の胸は躍り上がったはずだ。

彼女は、書きたかった。
とにかく、書きたかった。
どんな思惑があろうと、まず「書きたい」という欲望が、衝動が、彼女の中に奔騰していたはずだ。
あの壮大な物語を、書こうと思いついたその瞬間、それ以来構想を練っていたであろう長い時間、そして書きたいことを書くという誰にも左右されない自由、また自由ゆえの苦しみも含んだその作業を、式部は存分に楽しんだに違いない。

何かをせずにはいられないということは、そうと意識をしていなくても、自分を表現する、ということだ。
ただそれは、長大な文学作品や巨大なキャンバスに描かれた絵といった形でなくても、誰もがいつも知らない間に行っている、人間としての当たり前の営みのようにも思う。

のちに、自分はある衝動に駆られて音楽を習うことになる。それは音楽が好きという土台があってからこそだったのだが、そのことに気づいたのは、かなり後になってからだった。

感情をストレートに出すことが出来なかった自分は、「好き」「楽しい」ということが長い間分からなかったのだが、本能が手足を、体を向けさせる、その方向へ進んだ結果、ようやくその二つが分かってきたように感じる。それは自分を俯瞰し、客観視することにつながるので、自分をコントロールしやすくなる。これは全く予想外のことだった。
好きなことは、やったほうが、いい。

おんがく ぶんがく えをえがく、

現在、その三つを同時進行させている自分は、そうかと言って自分自身を表現している、という自覚はなく、ただやりたいから、というだけなのだが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?