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外国人住民と地方自治体の施策・群馬県邑楽郡大泉町を事例に

1.はじめに

前回では、日本政府による外国人政策、とくに日系人への在留資格の発給とその後の展開を確認しました。そのなかで、日本政府が基本的には外国人を労働力として取り扱ってきたのではないかという問題を提起しました。

  前回十分に言及できませんでしたが、日本の外国人政策では外国人が定住することを前提としなかったので、日本語教育や社会への定着教育などが十分ではありませんでしたし、外国人の子どもの教育も義務教育にはなっていません。子どもの教育については別にお話しできると思いますが、もちろんこう教育を受けることはできますが、義務とはなっていないと思います。

 さて、前回の国の政策を受けて、今回からは地域社会における外国人との関係について説明していきたいと思います。今回以降、話の中心は、群馬県大泉町という地方都市が中心となります。群馬県大泉町は以下でも説明しますが、外国人比率が現在約19パーセントという、日本でも外国人比率が高い地方都市として、全国的にも知られています。

 大泉町は、移民政策や多文化共生の議論で取り上げられることも多く、『文藝春秋』やNHKなどにもしばしば登場します。

 この授業ではこの大泉町における外国人住民に対する施策や外国人住民の活動などについて現状を解説し、より皆さんが生活する地域社会のレベルでの多文化共生について考えていただきたいと思っています。

 少し長くなりました。

 では、今回は、群馬県大泉町の、とくに自治体と外国人住民との関係を考えていきます。


閑話休題(エスニックタウンの全国的傾向)

 エスニックタウンとは、英語ではEthnic Eclavesと呼ばれるようです。移民が都市や地域社会の一区画に集住している状況をとらえた言葉です。

 もちろん、日本でもエスニックタウンに関する先行研究はあります。おそらくそのほとんどがチャイナタウンに関するモノではないかと今は考えています。チャイナタウンについては、山下清海先生(立正大学)による諸研究があり、参照することができますので、関心のある方はそちらをご覧ください。

 ところで、スライドにあるのは、日本のエスニックタウンに関する情報になります。チャイナタウンについては、中華街と呼ばれる地域を指しますので、皆さんもよくご存知かと思います。チャイナタウンは、中国、台湾出身の方々によって形成された民族色の濃い一区画といってよいでしょうか。チャイナタウンについては非常に歴史が深く、江戸時代の長崎に始まり、19世紀以後横浜や神戸などにチャイナタウンができています。なお、スライドの画像は長崎市の新地中華街となります。

 また、チャイナタウンは、近年、池袋や川口などでも形成されつつあると指摘する研究者もあります。それらは新中華街と呼ばれます。関心のある方は、先の山下清海先生のご著書をご覧ください。

 チャイナタウン以外にも、インターネットを利用すると、「~タウン」とか、「リトル~」呼ばれる場所がたくさんあることに気づきます。それらもまたエスニックタウンに関する情報なのだと思います。スライドには、コリアンタウン、ブラジルタウン、リトルヤンゴン、リトルタイランドなどが挙げられていますが、これ以外にも近年、リトルカトマンドゥやイスラム横丁など、エスニックタウンに関してさまざまな情報が飛び交っています。

2.群馬県大泉町

 群馬県大泉町は現在、外国人が集住する都市としてよく知られています。メディア露出も多く、「移民」や「多文化共生」をテーマとするテレビ番組などでもしばしば取り上げられるほどです。

 ところで、群馬県の位置はみなさんご存知でしょうか。群馬県は関東地方の北西部を占める自治体で、関東地方では栃木県、埼玉県、茨城県の三県と接しています。群馬県について説明される際には、地形が鶴の形をしているといわれますが、群馬県の南東部の細い部分が鶴の首で、羽を広げているようにみえるでしょうか。大泉町は図1にあるように、群馬県の南東部、鶴の首の付け根に位置しています。

図1 大泉町の位置(大泉町HPより)

 大泉町は群馬県においては面積がもっとも小さい自治体でもあります。面積は、18.03平方キロメートルということで、新宿区や戸田市、朝霞市などと同じ規模です。大泉町を訪れるとわかりますが、車だとあっという間に他の自治体へ抜けていくことができます。

 このように小さい都市なのですが、工業が盛んで、町の中央には家電メーカーのPanasonic、北部には国産自動車メーカーのスバルなどの大きな工場が目立ちます。スライドの地図上でも、Panasonicのある場所が正方形になっていますが、すべて工場がある敷地となっています。それ以外にも南部には工業団地があって、味の素の食品工場など大手の工場が稼働しています。

図2 大泉町(グーグルマップ)

 この大泉町で外国人が増えたのは、30年前になります。前回の講義メモでも言及していますが、入管法改正の影響です。とくにブラジル国籍の方々が急激に増加したのは表1からも顕著にうかがえるかと思います。記録によれば、1991年には前年の倍近い、約1300人のブラジル国籍の住民が大泉町にいたことになります。これは町民人口の約3パーセントがブラジル国籍住民となったことを示します。ちなみに、この数字は現在の日本における外国人住民数とほぼ同じとなります。さらに1996年には3273人(人口の約8パーセント)、2008年には5000人(約12パーセント)を超えました。

表1

 しかしながら、このような急激なブラジル人住民の増加は2009年以降、低迷し、増加というより、4000人前後を維持する形で推移しています。こうしたブラジル人住民数の現象とは前回で述べたとおり、リーマンショック、東日本大震災など日本全体で起こった経済危機や災害などの影響によるものです。

3.外国人住民はなぜ増加したのか

 以上で述べたように、1990年以降、大泉町では急激にブラジル人住民が増加しました。では、なぜブラジル人住民が急激に増加したのでしょうか。ここは前回説明したとおり、労働意識の変化などと入国管理の法律(入管法)の改正が非常に大きかったということが挙げられます。

 しかしながら、大泉町では他の地域以上にブラジル人の方々が定着し、集住していったという背景があります。その一因となったのは何だったのかを考えてみます。

 端的に言えば、大泉町当局がブラジル人を呼び寄せることに積極的だったということがもっとも大きな要因だったと考えます。

 大泉町はPanasonicやスバルのような大工場があり、関連会社も多いといわれます。当時、とくにPanasonic(旧三洋電機)の下請け工場なども多かった言われています。やはりこれも指摘したとおりですけれども、全国的傾向として、そうした下請け会社では人手不足が深刻化していました。インタビュー調査などによれば、当時大泉町の町長を務めた方もそうした下請け会社を営んでいたということです。つまり、1990年直前の大泉町では、労働者不足を補うことが、町の施策として歓迎される風土があったということです。

 1989年に設立された、東毛地区雇用安定促進協議会というのは、以上のような風土のなかで、設立されました。同協議会は、人手不足を補うため、外国人の雇用を促進するためにできた組織で、大泉町の中小企業が中心となって発足されました。

 東毛地区雇用促進協議会は、在留資格の定住者をもつ日系人が多い、ブラジルを中心に労働者を集めることにしたようです。同協議会のメンバーが直接、ブラジルに足を運んで、情報を収集するだけでなく、日系人を雇い入れるしくみも整えていきました。

 しかも、東毛地区雇用安定促進協議会はたんに日系人を雇い入れるだけでなく、「多文化共生」に先んじるような相互理解を目的とする理念を持って、かれらを受け入れていきました。協議会の指針には、1)人間愛を基礎とし、雇用者の人格を尊重すること、2)日伯親善に前に役立つこと、3)単なる人手不足解消法と考えず、将来を展望して雇用の継続ができるよう努力すること、など3つの大きな指針が定められています。

 もちろん、この指針はブラジル人を外国人として、あるいは労働者として受け入れる前提に立っていますが、短期的な使い捨てではない外国人の受け入れに力を入れていったという点では先駆的でした。

 こうした東毛地区雇用安定促進協議会とともに、重要だったのは、町役場での動きでした。大泉町役場は、外国人、とくにブラジル人が住民として生活できるよう、行政サービスを拡充していったのです。2020年に私たちは多くの地方自治体で、在留外国人向けのさまざまな施策、あるいはパンフレットなどを確認できますが、30年までの時点で大泉町役場は現在に通じる施策をすでに打っていました。

 1)日本語学級の整備
 2)役場窓口におけるポルトガル語通訳の配置
 3)ブラジル人住民のためのポルトガル語による生活情報冊子
 4)行政の広報誌の発行

 1)は、日本語を教える教師に加えて、ポルトガル語の通訳などができる日本語指導助手などを配置し、適宜、授業中に生徒を別教室で指導する仕組みです。ちなみに、現在ではこうした仕組みは全国でも採用されていますが、批判的な意見もあります。日本語学級は日本語勉強できる反面、一部の授業を受けられないという弊害が指摘されています。放課後などに、日本語の補習ができることがのぞましいかもしれません。

 2)は、役場の窓口に通訳を置くということで、何でもないことのように思いますが、採用するのは非常に難しいようです。たとえば、板橋区では、通訳は常駐ではなかったと思います。通訳は必要な時にある団体に派遣をお願いしていたはずです。板橋区もすでに外国人人口は3パーセントを超えているので、1990年の大泉町に近づいています。そう考えますと、この対応が非常に素早いものだったことがわかります。

 3)は、新しく大泉町にやってきた人に対する資料の提供です。現在では、他の自治体でも、ウェルカム・パックなどの名称で、外国人住民に配布されています。現在、大泉町では、こうした資料が動画で配布されています。「くらしのDVD」は、インターネットからぜひご覧ください。

図3 大泉町・多文化共生コミュニティセンターHPより

 4)は、毎月発行される大泉町の行政に関わる冊子となります。スライドには、Garapaとあります。Garapaには、その月に行政から町民に宛てた情報がポルトガル語でも読めるよう工夫されています。私たちが住むアパートや住宅が属する自治会でも毎月、「~だより」のように自治体からの広報誌が配られますが、それを補足する内容といえます。とっても、Garapaはとくに行政からのお願いが中心となっている印象もあります。下図では12月なので、防災、とくに火事の際の対応などを掲載しています。これが2月、3月ですと、確定申告などのお知らせになります。GarapaはHPだけでなく、ブラジル人住民の目につくように、役場の職員がブラジル人学校やレストランなどにも配布しています。

図4 大泉町・多文化共生コミュニティセンターHPより

4.ブラジルタウンを外から眺める

 こうした大泉町の施策は、大いに成功したといえるでしょう(あくまで当初の目的、労働者を集めるという意味で)。大泉町における外国人の定着率は、他の外国人が増えた自治体と比較して、高かったといわれます(厳密にははっきりしませんので、今後調査が必要になってきます)。

 そうしたなかで、ブラジル人は大泉町を、「リトルブラジル」、「ブラジルタウン」と呼ばれる町に変えていきました。図5をご覧ください。

図2 図で見るブラジルタウン (Acha Fácil)

 図5は、2016年頃に大泉町で発行されたAcha Fácilという雑誌の一部です。Acha Fácilは、ポルトガル語フリーペーパーで、求人広告を中心として、ブラジル人コミュニティに関する記事などを掲載している比較的長く続く雑誌でした(現在、休刊・廃刊を調査中です)。雑誌には、スライドにあるような地図が毎回掲載されていました。地図にはブラジル人住民向けに開かれた店舗やポルトガル語などで受付できる店舗などが載せられていました。スライドの赤い長方形がその店舗となります。地図を見てもわかるように、大泉町の中心道路である県道142号線沿いは、赤い長方形でいっぱいになっています。

 実際に行くと、これらの店舗はポルトガル語で表記された看板やネオンなどを使用しており、いわゆる日本の店舗とは異なっていることがわかります。

図6 宮城商店(筆者撮影)


図7 Simada Tatoo(筆者撮影)


図5~9は、そうした大泉町の景観を写したものです。スライドの19の「宮城商店」は、大泉町の主要駅である西小泉駅のターミナルにある商店です。ブラジル以外に南米の食材を扱っています。駄菓子なども売っていて、日本人観光客なども見受けられます。もう一つの写真は、タトゥーの店です。お茶屋さんと思しき店舗のとなりにタトゥー店があるという、一見不思議な風景です。

図8 美容室(筆者撮影)
図9 スーパータカラ(筆者撮影)

 少し飛んで、図9ですが、こちらはスーパータカラという非常に有名なブラジル食材を扱うスーパーマーケットです。メディアなどでも取り上げられ、かつて大食いで有名なギャル曽根さんがいらしたと記憶しています。

 こうした店舗以外にも、大泉町にはブラジル人の店主が営むバーや食堂などが多くあります。以前(私が学生だった20年前)は、こうした食堂やバー、レストランは、日本人が全くいないということもあって、入りにくかったのですが、最近はだいぶ様子が変わっています。普段ブラジル人住民と接しない大泉町の日本人住民も、「肉が安いからスーパータカラを利用する」という人もいるそうです。

 話が少しそれましたが、大泉町にはこのように一見してブラジル風ともいえる空間が広がるようになっています。そして、それが「ブラジルタウン」と呼ばれる所以です。

 もっとも、大泉町は見かけだけが「ブラジルタウン」になっているわけではありません。ブラジル人の方々が生活する場であり、かれらは住民としてこの町で生きているのです。したがって、「ブラジルタウン」は、いわゆる観光地的な「ブラジルタウン」という側面と、本来の意味でのブラジル人のコミュニティとしての「ブラジルタウン」という側面があるのです。

5.近年の施策

 3節で確認したように、大泉町役場の施策によって、ブラジル人は次第に同町に定着して、ブラジルタウンと呼ばれるような空間を創り出していきました。

 しかしながら、1990年代のはじめにはブラジル人が住民として定住するとは考えていなかったようです。お金をためてブラジルへ帰国する、いわゆる「出稼ぎ」を想定していたからです。

 ところが、現実として、ブラジル人の方々は次第にブラジルタウンのようなエスニックタウンを創り出し、定住化が進んでいきます。長期的に大泉町で暮らしたいと考えるブラジル人住民も増えましたし、一軒家を購入する人もあらわれました。しかも、2000年ごろには、ブラジル人住民がポルトガル語だけで生活するような状況も生まれていました。仕事では派遣会社、食品はブラジルスーパー、教育はブラジル人学校(これについては来週以降説明します)などと、ブラジル人住民がブラジル人住民のなかだけで生活することができたのです。

 こうした状況のなかで、2000年代はじめ、大泉町の外国人施策の方向性は混乱をきたしました。当時のことをインタビューすると、どうやら日本人住民のなかに、外国人住民に税金を使うだけでなく、日本人住民へのサービスを拡充してほしいという意見があったようです。これを外国人を排除するという意味にとる必要はありませんが、日本人住民の意見を尊重する必要が生れてきたことは確かでした。

 また、混乱の一因は、ブラジル人人口の急激な高まりによって、行政は、これまでアプローチするような施策を進めるだけでは、すべてのブラジル人住民とのつながりを維持できなったこともあるかと思います。より効果的に外国人住民に行政サービスを届ける(もちろん、国家とか政府とか、権力という視点から見れば、住民を統治する)方法が模索されるようになったのです。

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