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いじめの呪縛を斬るvol.1~私の体験

はじめに、この画像↑はシマフクロウ。

アイヌでは古くから《村の守り神》として大切にされてきたそうだ。この、すべてを見通しているような目を見ればだれもが神聖な気持ちになるだろう。

私は、このような「目」でイジメの問題を考え、その《呪縛》を打ち破りたい。

そして、《いじめで苦しむ人》が一人でも「読んでよかった」と感じてもらえたら嬉しい。

      《第一章》


イジメの主犯格らは、今思えば、例外なく【サイコパス的要素】を感じさせた。

人心操作が得意なサイコパスは必然的に、


    【リーダー格】


が多いとされる。こうしたイジメの主犯格は、まず集団の中で適当な者をみつくろって【ターゲット】にする。


つぎに主犯格は、周囲の人たちに【ターゲット】の欠点をあげつらう。


「あいつ、みんなとうちとけねえよな?」


「あいつにさぁ、あいさつしたらシカトされちゃってよ~、ありえなくね?」


等々と、【ターゲット】の『欠点になりそうなもの』を周囲に同調させるべく働きかける。


「そうじゃね?」と同調圧力をかけられた人たちは、内心では共感できなくとも、《今、目の前にいる相手》に「反論」するよりも「同調」するほうが精神的にラクだし「世渡り上手」のような気もしてテキトーに相づちを打つ。このようにして、イジメの主犯格は、【ターゲット】が、まるで、


  《集団における問題児》



であるかのような空気を少しずつ、少しずつ、作りあげていく。そして、「その他おおぜい」がいつしか「ああ、あいつね…」と【問題児】のことをつぶやく空気をつくりあげたあかつきに、主犯格は、どうするか?


主犯格は、おぞましくも、み、ん、な、の、た、め、に、【問題児】に制裁をくわえ、さらに不気味なことに【問題児】にさんざん苦しめられた《被害者》ヅラを決め込んで、「やむにやまれぬ反撃」という名の【イジメ】を実行するのだ!

このやり方は、結果的に「自分たちに逆らったら、こうゆう目にあう」ということの「その他おおぜい」への【見せしめ】になる。

この【見せしめ】の効果は絶大で、「その他おおぜい」はイジメの主犯格から《次のターゲット》にされることにおびえ、いわゆる《空気》を読む。

つまり、いじめられている人間を助けるどころか、いじめる側の肩を持ってしまう。

いじめられている人から距離をおき、遠巻きに冷笑する。

その《勇気のない自分》《卑怯な自分》を見つめることがツラいので心の防衛機能が働き、無意識に【自己正当化】がはかられ、


いじめられる側にも問題がある!



と自らに言い聞かせるのだ。


気がつけば、いつのまにか心の底から、


《本当はなにも悪くない》いじめられ
 っ子


を見くだし、さげすんでいる《その他おおぜい》がいる。


クラス内カーストにおける、


  【アンタッチャブル】


の完成。


他にもさまざまなパターンがあるかと思うが、これが、学校で、また、さまざまな職場で実際にこの目で見てきた《イジメ》の例外なきパターンである。

イジメの主犯格らが何を望んでこんなことをするのか?何が目的なのか?

ここが恐ろしいところだが、実はターゲットのことが憎らしいからではないのだ!

自由自在にターゲットを決め、自由自在にターゲットを貶め、自由自在にその他おおぜいにもターゲットを貶めさせ、誰も逆らえないような恐怖政治を完成させ、もって、その頂点に君臨する…ことさえも真の目的ではない。

こんなことを軽々とやってのける自らの力に対する自己陶酔も目的ではない。

ではなにが目的なのか?

ゲームなのだ!

自分のなかのどうしようもない《虚無》をもてあましたあげくの果ての、投げやりなゲームに過ぎない。

もし、ゲームの途中で、その他おおぜいたちが、一致団結して、勇気をふりしぼり、


 そんなこと絶対に許さないぞ!


とイジメの主犯格らとの闘いを起こし、粘り強く闘い続けたならば、表面上こそ残虐な猛攻撃をかける姿の主犯格のその胸奥では、どっしり横たわる《虚無》に1ミリのヒビが入るに違いない。

しかし、《その他おおぜい》が主犯格の意のままに操られ、醜い迎合服従に終始するならば、主犯格は心の深層でこうつぶやく…

へへ、やっぱ、世の中、こんなもん(笑)、みんな自分が可愛いわけだ(笑)、《勇気》も《正義》も《神》も《仏》もありゃしねえ。

と。こうして、さらなる《虚無》に沈んでいくのだ。

そして、主犯格らからのイジメそれ自体にも増して、イジメの片棒をかつぐ【その他おおぜい】の臆病な傍観者たち、いや、


    《共犯者たち》


の包囲網により、もはや、


【人間として見られなくなった】



自分という現実がどれほどみじめか!
どれほど悲しくて、どれほど目の前が真っ暗になるか!


  これがどういうことなのか?


同じ目にあった者でなければ絶対にわからない。

このような苦しみを与える犯行を繰り返す、魂の腐りきってしまった化け物たちが、世の中にはまだまだ多いのだ!


『人間が本当に下等になると、ついに他人の不幸や失敗を喜ぶこと以外の関心をなくしてしまう』~ゲーテ~


     《第ニ章》

小学校4年から、私はいじめのターゲットにされた。


そして『アンタッチャブル』になった。


つまり、「人間」ではなく、「モノ」になった。


なんの理由もなく、いきなりケリを入れられたり、顔にツバを吐きかけられたりし、その姿を「その他おおぜい」は手をたたいて笑って見ていた。

中学に進むと、校内暴力全盛期といわれる時代に突入。長年の非人間的な扱いに耐えきれなくなった私はついに暴力にそれた。

といっても半年くらいの間に過ぎない。殴った瞬間はスカッとするが、自分がさんざん殴られてきただけに相手の痛みがわかるので、不憫で後味が悪い。

それに、ある先輩から、


「お前は自分よりも強い者には向かっていかない。男の恥ッさらしだ」


と言われ、心から自分が恥ずかしくなりすぐにやめた。

そして、本来の自分らしい自分、孤独と読書と映画を好む、穏和でおとなしい人間の軌道に戻った。


それでも、小学生時代から私をいじめてきた連中は、私のほんのわずかなこの脱線以後、まったくいじめてこなくなった。

しかし、爆発して暴力に訴えて解決できるほど「イジメ」は甘くない。しばらくすると、今までと違う連中のターゲットに。

今では死語であるが当時「ツッパリ」と言われた連中からである。頭にソリを入れ、眉毛も全剃りし、強めのパンチパーマに長ランにボンタン、ぺちゃんこのカバン…近寄るとタクティクスの、ちょっと危険な匂いがした。

ある日、更衣室に呼び出された。タクティスの匂いをぷんぷんさせた校内NO.1から、暴力団の名刺を見せられ、


「俺は地元のヤクザとつながってっからよぉ、ヘタにさからったら、タダじゃすまねえ」


と。

当時、このツッパリ連中が、地元暴力団の手ごまになり、中学校内の女生徒たちを組織化し、『売春』をさせていたことが父母会で問題になったので、暴力団の名刺も単なるハッタリではない。

 今度は校内のツッパリNO.2から呼び出され、


   「タイマンはろうぜ」


ときた。タイマンとは名ばかり、実際は『弱い者イジメ』。

放課後、校舎の裏でツッパリの取り巻き連中が取り囲むように見物するなか、そのNO.2はパンチを繰り出してきた。逃げて、逃げて、しゃがんでよけたら、顔面にケリが炸裂し、激痛と鼻血とともにバタっと倒れた…

取り巻き連中の笑い声が耳にこだました。

帰り道、体中の痛みとともに、みじめで、悲しくて、涙が止まらなかった。

今度はNO.1から呼び出され「タイマン」…もちろんまったく相手にもならない。ボコボコにされた。


だが、ツッパリといっても、彼らの小学生時代は本当におとなしくて気弱な少年たちだったのだ!


その姿をじかに見てきているだけに、ヤクザにかかわると人間こうも変わってしまうのかと驚きの念を禁じえない。


高校に進むと、体を鍛えればいじめられなくなるかも知れないと考え、柔道部の部活に入った。

私以外の同期は、小学生から地元の道場で柔道を続けてきていて、鍛え抜かれた猛者ばかり。

先輩らは、私の細い身体を見るなり


「誰が連れてきたんだ?こんなヤツよ~」


と、苦笑しながら、のけぞった。

今思えばたしかに無謀であり、また迷惑でもある。普通ならしない選択をしたといえる。

朝練でベンチプレスや乱取り、昼休みも腹筋や背筋やスクワット、そして放課後は、うさぎとびが加わり、とにかく乱取りである。

ひたすら読書や詩作に明け暮れてきた少年である。《地獄》だった。

毎日、死を覚悟するほど身体がキツかった。当初は疲れ過ぎて、帰りの駅のベンチで23時近くまで動けなかった。

キツいのは、体だけではない。
1年で奴隷、2年で平民、3年で神、と言われるほど、上の先輩は絶対的な存在であり、シゴキという名の虐待が当たり前の日々。

柔道の絞め技の練習といっては、頸動脈を腕で締め上げられた。すると気絶する。気絶すると、ひっぱたいて起こされる。これを「オトす」というのだが、よくやられた。

殴る蹴るなどはあいさつみたいなものである。

柔道部の夏の7日間の合宿は、40年経った今でも忘れられない。

合宿初日の夜中に先輩の枕元に呼ばれ、


『世界で一番ウマいジュースを買ってこい!』


と命じられる。

まわりには海と砂浜しかない合宿所である。
コンビニなどなく、古びた自販機が一つあるだけ…

その自販機でコーラを買って先輩に渡すと、それを一気に飲み干し、


「世界一ウマいジュースじゃねえなぁぁ」


というなり、その空き缶の角で私の頭を叩き、


「世界一ウマいジュースといっただろうがっ!」


といいながら、正座した私の頭を缶の角でコン、コン、コン、コン、と20分以上も叩き続けた。

暗闇の中、道場に布団を敷いてみんなで寝ているのだが、みんな、見て見ぬふりである。

翌日の晩、先輩2人と1年生2人の計4人で風呂に入った。「オメエら、背中流せ!」と命じられ一生懸命に背中を洗っていると、先輩たちが突然、私に


「オウッ、A(仮称)の○○○(性器)をシゴけっ!」


と命じてきた。

私はいくらなんでも、さすがに冗談だろうと思い、固まっていると、先輩は


「早くヤれやっ!」


とスゴんできた。

なによりビックリしたのは、私と同期のAがおびえた様子で


「バカ!はやく、シゴけ!逆らうな!」


と、うながしてきたことだ。

Aは同期で唯一私が懇意にしていた人間であり、元ツッパリで、街中で現役のツッパリ数人相手に1人で啖呵を切った場面に幾度か立ち会った私からすれば、並み以上の度胸もあり、プライドも非常に高い男だった。私とは正反対だった。だから「逆らうな!」とAが言った瞬間、耳を疑った。


たたみかけるように先輩がドスをきかせてスゴんだ。


「いいから、ヤれっ!」



私は静かに言った、


「いやです。」


一瞬その場がシーンっと静まり、Aの表情が凍りついた、次の瞬間、先輩たちの怒声とパンチと蹴りの連打が始まった。木製の風呂桶の角でおもいきり頭を殴られ、頭から血が吹き出した。浴室の床は真っ赤な血の海に。

その「血の海」が幸いした。先輩たちはそのグロテスクな光景を前に 


「こりゃ、セン公に知られたらマズい!」


と叫ぶなり、


「おいっ、A、オメェすぐにこいつを風呂から出して手当てしろっ!誰にもバラすんじゃねぇぞっ!」


とスゴんで、我々を解放したのだ。


この手の話は、特に実録の場合には読んでいてイヤな気分になる。

しかし、いじめというものの【罪深さ】を伝えるためには、どうしても「抽象的な理論」よりも「具体的なエピソード」を選択せざるを得なかった。

熟慮の上、これでも比較的マイルドなエピソードの一部のみの開示にとどめたことをご理解頂ければ有難い。


柔道部の場合は「いじめ」ではなく体育会系ならではの「シゴキ」というくくりにはなり、体育会系の部活なら、多かれ少なかれこうした《シゴキ》があり、《シゴキ》で根性が付く、といわれる。

それに、企業からは「体育会系出身者」が好まれると聞く。理由は「上下関係の厳しさ」を訓練されているからだと。

まるで「上下関係の厳しさ」を知っていることが《美徳》であるかのような風潮が日本にはある。

私に言わせれば、要は、

「黙って言うことをきけ!」
「自分の意志など持つな!」
「奴隷になれ!」

ということを「上下関係の厳しさ」という、まことしやかな言葉を使って洗脳しているとしか思えない。

実際に体験した私の実感としては、こうした

「上は絶対」
「上には、何があっても逆らわない」

という訓練は、自らが正しいと信ずることさえ上の立場の者には主張できない

      「腰抜け」

をつくる。

相手が権力者であろうと正々堂々と戦える、「本当の勇気」「本当の信念」のある人格が築けない。

したがって、こうした権威主義的なやり方は、人をして、根性はあるが


    上に弱く下に強い、


いわば、人格をいやらしく、いびつにしてしまう立派な《イジメ》に他ならない。

管理する側、支配する側、にとって、これ以上《使いやすい》都合の良い【奴隷】はいない、といってよい。

いずれにせよ、暴力にねじ伏せられた青少年期を送った私の心は完全に《萎縮》し、暴力への、そして腕力のある者への恐怖心にとりつかれ、必要以上に常におびえて過ごすようになった。それは、もう異常なまでの恐怖であった。

Vol.2へ続く…


   


     


                          

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