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いじめの呪縛を斬るvol.2~大人社会が遠因!

      《第三章》


本当は、映画や文学の語らいに楽しく花を咲かせる…そんな青春を送りたかった…

もし、「どんな青春だったか?」と問われたら…


青春? なかったですねえ、僕には。


私の青春は、侮蔑、恫喝、暴力、に黒く塗りつぶされてしまった。


しかし、いじめの根本原因を考えた場合、加害者だけの問題であるはずはない。


なぜなら一個の人格というものは、環境の様々な影響をうけて出来上がるのだから。


そこで《時代》《社会》をサラッとふり返りたい。


日本を経済大国に押し上げた【高度経済成長】には負の側面もあった。


朝から夜遅くまで《根性》で働く「モーレツ社員」がもてはやされ、共働きが多かった。

子どもたちは帰宅しても一人ぼっち…自分で鍵を開ける「カギっ子」たちが都市部を中心に増え、問題になった。

つまり、この国策は、【家庭の団らん】や【親子のふれあい】を犠牲にしても【経済的豊かさ】を求めさせる面があったといわざるをえず、要するに《幸せ》とは、


     金である


と、暗に国民に示した、ともいえよう。


そして、豊かな生活=《お金》という幸せをつかむためには、『良い会社』に入らねばならず、そのためには『良い学校』に入らねば、となり


    『受験戦争』


に突入。

もともと、


     【知】(知性)
     【情】(思いやり)
     【意】(精神力)


という《人格の三要素》を育むべき【教育現場】で、思いやりどころか、


知識でいかに他者より抜きん出るか?


を教え、見事に、【情】(思いやり)を置き去りにしたのである。

家庭でも学校でも、【情】(思いやり)より【知】(知識)と【意】(精神力)を優先させたのだから、どうしても「人の痛み」を思いやる人格は育ちにくい。

「人の痛み」を思いやれたら「人をいじめる」などという非道ができるだろうか?


そう考えると《いじめの多発》は【情】をなおざりにした《家庭教育》と《学校教育》を行ってきた当然の帰結といえる。

ともあれ、当時は社会も家庭も学校も、豊かな生活【お金=幸せ】という大目的に向かって一丸となっていったのである。

まさに、金、金、金、の


    《物質主義》


の世相であった。

そして、《物質主義》の行き着く先は、あたりまえだが、


    《心の荒廃》


である。

そして《心の荒廃》の波は、少しずつではあるが、しかし確実に、社会の底流にひたひたと忍び寄ってきていた…

その流れのなかで、【知識偏重の画一的な教育】に違和感を感じた者や、あるいは【カギっ子】として幼少から淋しい思いに耐えてきた者が、多感な思春期を迎え、蓄積された『負のエネルギー』を一気に爆発させた。

その《爆発》こそ、昭和50年代半ばから日本列島に吹き荒れた、


   「校内暴力全盛期」



に他ならない、と私は考える。

なぜなら、家庭や学校で、大人たちが子どもたちに教えたことは「人生は金」「人生は競争」だけではないからだ!

テレビで少年たちに大人気であった、【正義のヒーローもの】は、殴り、蹴り、投げ飛ばして《悪者》や《怪獣》を倒した。つまり、


【暴力=悪】ではなく「正義」なら《殴る蹴る暴力》は許される


ということを「憧れの正義のヒーロー」という模範が幼い心に示したようなものなのだ!


【正義は殴る蹴るを許される】と学んだ子どもたちを諭すべきはずの【親たち】は、我が子を「しつけ」と称して叩き、殴り、蹴り、投げ飛ばした。(今では考えられないが)

そして学校に行けば、これまた模範たるべき【教師】が、規則を破る生徒を殴り、蹴り、投げ飛ばしても、問題にはならなかった。
そういう時代だった。(私自身、給食の牛乳を飲まなかっただけで、倉庫へ呼ばれ、顔を5、6発なぐられた。)


「暴力=悪」ではないということを、『メディア』や『親』や『教師』から身体で叩き込まれたのである!


【メディア】や【家庭】や【学校】だけではない!


もちろんエートスとしての話だから直接子どもたちに関わってはいないが、【社会】では、大企業の一部が、不良債権の回収や土地開発のための地上げに裏で暴力団を利用し、ある企業は有毒な工業廃水を海や川にそのまま流していた。

【国家】は《人を殺すな!》とうたいながら、「死刑」の名のもとに『人を殺した人を殺す』矛盾を有した。

こんな事は日本だけだろうと、広く【世界】を見渡してみれば、なんと、人類を何度も絶滅できる大量殺戮兵器の軍拡競争に血道をあげる大国の指導者たちの姿が!


子どもたちの無色透明な瞳に映じていたものは


《暴力》を良しとしている大人たちの姿ではなかったか!


子どもたちは、ガンジーのように、身を挺して《非暴力》を教える大人にはお目にかかれなかったのだ!

《大人たちが金と競争と暴力を体現する世の中》で育てられた少年たちが負のエネルギーを《暴力》や《いじめ》という形で爆発させてしまうのも理の当然ではないか!と私は考える。

もちろん、暴力に走らなかった少年たちもいたことはいたが、それは、よほど、まともな親にまともな愛情と教育を受けられた者か、強靭な精神もしくは、宗教的信念の持ち主だろう。


ガラス細工のように繊細で多感な少年たちが、社会やまわりの大人たちの強い影響から逃れることなど到底不可能なのだ。


だからといって少年たちにまったく責任がないとはさすがにいわないが、なんといっても、

   《大人社会の反映》


であることは論を待たない!


しかしながら、こんな俯瞰をしてみたところで、リアルタイムに被害を受けた当人にしてみれば、その傷は、消えてなくなるものではないし、


ああ、こんな社会で育てられたのだから、私をいじめた加害者たちの気持ちもわからなくもないか~


などと溜飲をさげるつもりもない。


こうしたことを『許すこと』が【人間的成熟】であり、あるいは【寛容】であるかのような論調もある。


しかし、それは、寛容や成熟などではなく、

     《偽善》


に過ぎない。これは、皆、心の底ではわかっているが目を背けているのだ。


【戦争】や【差別】や【暴力】や【いじめ】といった、
 

《人間の尊厳》を冒とくする所業に対しては、永遠に許してはならない。


なぜなら、


   私憤ではなく公憤


だからである。


なぜ、時代や社会に言及したのか?


加害者と社会を同時に断罪するためである。


Vol.3へつづく…








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