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「普通」とはなにか

先日、村田沙耶香さん著で芥川賞を受賞した「コンビニ人間」を読んだ。
意識の高いnoteの書き手の皆様であれば、ここであらすじなど書くのだろうけど、私は意識低い系の書き手なので、そういうものは書けない。

とりあえず参考程度にWikipediaのリンクなど。

もともとそこまで長い作品ではないとはいえ、一気に読み終えてしまった。
読むのがべらぼうに遅い私には珍しい。

「普通」っていったい何だろう?
と考えさせられてしまった。
読み終えたのは先週だけれど、それ以来、ほぼ毎日「普通」が何かということを考えるようになった。

「十人十色」という言葉があるように、おそらくは時代を問わず、そして洋の東西を問わず、人それぞれ、みんな大なり小なり違うんだ、ということは頭のどこかで認識され続けてきたのだと思う。

「みんな違って、みんないい」と思うか、「みんな違うから、ひとつにまとめなければ」と思うかの違いである。

多少の振れ幅はあるにせよ、現在の潮流としては「個を認める」方向なんだろうなと思う。
多様性がどうのこうのという言葉もよく耳にする。
平たく言えば、みんな、色々と違いがあるけど、まぁ、仲よくやっていこうよ!ということなのだろう。

良いことである。
賛成。
異議なし。
そういう人が大半であろうと思う。

その一方で、
「わざわざ言葉にするようなこと??」
という思いもある。
「赤信号で横断歩道を渡ってはいけません」
と、50目前のこの年齢で、じっと目を見て言われているような居心地の悪さがある。

赤信号で横断歩道は渡ってはいけない。
当たり前である。
経験則として「これはいける!」という状況によっては渡ってしまうこともあるが、渡ってはいけないことはよく知っている。

多様性云々であったり流行りの(?)SDGsなども、見るたび、聞かされるたびに私などは白けてしまうのである。
「それ「普通のこと」じゃん??今更、世界規模で言い出す事???」
という思いが、頭をよぎる。

でも国際的にみれば「普通」ではないからこそ、わざわざ、国連などという頭のいいひと、えらい人たちの集まりが、平易な言葉で言い始めたのだろうと思う(ターゲットは全然平易ではないけど)。

単一民族、かつ島国である日本で生まれ育った私の「普通」が国際的にみれば「普通」ではないのと同じで、日常においてもそうした「普通」の齟齬は山のように存在する。

朝、風呂に入る「普通」もあれば、夜、風呂に入る「普通」もある。
昼に手製の弁当を持ってくる「普通」もあれば、コンビニに弁当を買いに行く「普通」もある。
夜、うつ伏せで寝る「普通」もあれば、仰向けで寝る「普通」もある。

ありとあらゆるパターンの「普通」が合致する人と出会える確率は一体、どのくらいなんだろうかと思うと、限りなくゼロに近いのではないんじゃないかと思ってしまう。

そもそも「普通」などというものは、この世に存在しないのかもしれない。
あったとしても緻密かつ綿密な統計計算によって弾きだされるべきもので、安易に「そんなの普通じゃん」などと他人に言うべきことではないのかもしれない。

だからといって
「「普通」なんて安易に使っちゃいけないな。よし!俺は明日からは「普通」という言葉は使わないぞ!」
などという気もさらさらない。
普通というのは便利な言葉である。
敢えてそれを使わない選択肢はないし、そもそも、そういう便利な言葉は使った方がコミュニケーションは潤滑になる。
個人のこだわりで、分かりにくい表現を使って、コミュニケーションに支障をきたす方がよほどめんどくさい。

ただ「普通」とは何か?
という自分への問いかけはやめてはいけないなと感じている。

「コンビニ人間」読了後、こんなことがあった。
私の勤務地は陸の孤島なので、交通の便が非常に悪い。
ただ私の自宅からは直線距離でかなり近所で、車で行けば遠回りしても15分程度。結構快適である。
ところが私の近所に住んでいる人は免許を持っていないので、公共交通機関を乗り継いで出勤する。その所要時間、なんと90分である。

私はそれを聞いて愕然とした。
電車で十数駅先まで通うというのなら話は別だが、この距離で90分かけて出勤することは、私には耐えられない。
私なら免許を取るか、そもそも、そこでは働かないことを考える。

しかしながら、その人にとっては、それが「普通」なのである。
この辺りは車がないと日常生活も難儀するようなところだが、幼少期から車のない生活が浸透しているため、何とも思わないらしい。
強がりでも何でもなく、涼しい顔で、そうした思いを話すその人に対して
『いやいやいや!』
と内心思った私は、ハッとした。

「コンビニ人間」を読む前ならば、私は車の利便性を挙げて、免許の取得、せめて原付の免許取得を進めたり、電動自転車などの購入を進め、出勤時間が重なるのなら、送迎することも考えたと思う。

そこには悪意はない。
むしろ善意と言って良い(自分で言うのもどうかと思うが)。

けれど、受け手は戸惑うだろう。
何一つ不自由していないところへ、ずかずかと入り込み、あーだこーだと押し付けられる。
悪意はないと分かっていても、善意だと分かっていても、そこには思うところがあるだろう。

こんな方法もあるよ、という紹介は良いと思う。
けれどそれを押し付ける、強要するのはよろしくない。

きっと、ほとんどの人が、それに気づいている。
けれど、無自覚の強要は、少なくとも私の場合は、そこかしこに転がっているのではないか。

私にとっての「普通」が、誰かにとっての「普通」とは限らない。
それを意識しすぎて、委縮する必要はないにしても、人の数だけ「普通」があることは、如何なる時でも忘れてはいけないなと感じる。


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