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CANCER QUEEN ステージⅠ 第4話「幸運の女神」


【これまでのあらすじ】

 キングは健康診断で肺に影が見つかり、再検査を受けることになった。がん細胞のクイーンはキングの肺の中で、彼の体を気遣うのだった。
    再検査の結果、彼は主治医のドクター・エッグから肺がんを告知され、さらに精密検査のため、入院を勧められた。

前回はこちら。第3話「ドクター・エッグ」


 さすがに5泊6日も入院するのは時間と費用の無駄だと思ったのか、キングはドクター・エッグに頼んで、精密検査の日程を1泊2日に変更してもらった。
    そうよね。いくら土日は入院手続きができないからといって、2日で終わる検査に6日も入院させるなんて、どう考えてもおかしいわ。そんな病院側の事務的な理由で患者に負担をかけるなんてとんでもない。
    とまあ、わたしがむきになって怒ることではないけど、ドクター・エッグがキングの頼みを快く引き受けてくれたのでよかった。やっぱり、ドクター・エッグはわたしの見立てたとおり、優しいドクターね。この先生になら、安心して彼を任せられそう。

  検査入院の日は、朝食を軽めにしなくてはいけないのはわかるけど、いくらなんでも、野菜サラダとフルーツが少々、それに牛乳とヨーグルトだけじゃ、食いしん坊のわたしはとてももたないよ。キングはわたしを兵糧攻めにするつもりかしら。

    彼はそそくさと朝食をすませると、いつものようにワイシャツとズボンに着替えた。今朝は出勤するわけじゃないんだから、もっとラフな格好でもいいのにと思っていたら、病院に行く前に、近くの病院に入院しているお母さまの病室に寄ったの。お母さまはちょうど朝食の最中だったわ。

「あら、早いわね。どうしたの?」

    いつもは会社帰りに寄るのに、朝から顔を出した息子を見て、お母さまは変だと思ったのね。

「いや、なんでもないよ。このところ仕事が忙しくて、しばらく来れないかもしれないから、ちょっと寄っただけ」

    と、彼は噓をついた。それで、会社に行くような格好をしたんだわ。
    お母さまは少しがっかりしたようだけど、いつものように優しく微笑みながら、

「そうなの? あまり無理しないように。体に気をつけなさいよ」

    と言ったの。彼は胸が詰まって、それ以上なにも言えなくなったわ。 

     彼は予約時間ぎりぎりに病院に着くと、エスカレーターを駆け登って2階の呼吸器科の受付に駆け込んだ。滑り込みセーフ。と思ったら、入院の受付は1階だというから、あわてて反対側のエスカレーターを駆け下りた。ハアハアゼイゼイ。彼の息が上がると、わたしまで苦しくなる。ああ、しんどい。

 入院受付のカウンターの前には、大勢の患者や家族が列を作っていた。
    受付時間には間に合ったはずなのに、なによこの混雑は。これじゃ、予約の意味がないじゃない。とまあ、わたしが文句を言ってもしょうがないわね。
    彼は落ち着かない様子で、周りを見回していたわ。ここは総合病院だから、いろんな病気で入院するんだろうけど、なかにはいかにも重病という感じの人もいれば、まるで旅行にでも来たみたいに、鼻歌交じりにカラフルなキャリーバッグを引きずっている人もいる。この人たちはどんな生活をして、どんな病気になって、ここに入院することになったのかしら。人生いろいろ、病気もいろいろね。
    今回は検査入院なので明日には退院できるから、この人たちよりは気楽なはずだけど、彼はさっきから浮かない顔をしているの。きっと、検査の結果が心配なのね。

    ようやく受付が終わって病室まで行こうとしたら、案内スタッフが来るまで待つようにと言われた。案内スタッフがいるなんてホテルみたいね。それじゃ、ベルボーイもいて、荷物も持ってくれるのかしら。
    しばらく待っていると、グレーの地味な事務服を着た女性スタッフが大きな声で、「大王さん」と、彼の名前を呼んだの。
    え!? 声、大きくない。これじゃ、個人情報がばればれだ。
    彼が手を挙げて返事をすると、女性スタッフは荷物を持つこともなく、

「こちらです」

    と言って、さっさと歩き出した。彼は黙って、女性の後をついていったわ。
    エレベーターホールでは大勢の患者さんが待っていたけど、女性スタッフはそこをやり過ごして、“入院患者・スタッフ専用”と書かれたエレベーターの前に立った。専用エレベーターだなんて、まるでVIPになった気分ね。
    わたしたちの後ろからは、白衣を着た若い女医さんが、ポケットに両手を突っ込んだまま、エレベーターに乗ってきた。まるでテレビドラマにでも出てきそうな、いかにもドクターって感じの、かっこいい女医さんよ。わたし、こんな先生に診てもらえるといいな。

    病室は7階の713号室。ラッキーセブンの7と、不吉な13が並んでいて、運が良いのか悪いのか。でも、キングはキリスト教徒じゃないから13は無視して、やっぱり、ラッキーセブンよね。
    キリスト教といえば、彼のご両親はなにを思ったのか、親戚に勧められたと言って、ずいぶん前に、突然、二人で洗礼を受けたらしいの。どおりでお母さまは、マリアさまのようだと思ったわ。でもそのあと、二人とも教会にも行かず、聖書も読まず、お祈りもしなかったそうだから、本気でクリスチャンになるつもりはなかったみたい。

「なんで洗礼まで受けたの?」

    と彼が聞いても、お母さまは黙って、にっこりと笑うだけらしいわ。
    それでも、普段は支障がなかったけど、お父さまが亡くなった時は、葬儀をどうするかで困ったみたい。まさか、仏式ではできないし、かといって、キリスト教式も馴染みがないから、結局、無宗教にして、牧師さんもお坊さんも呼ばずに、身内だけで簡単にすませたそうよ。

     病室の彼のベッドは窓側だった。大きなガラス窓の向こうに、横浜の港や丘陵が見渡せて、ほんとうにホテルのようだわ。やっぱりラッキーセブンね。
    4つのベッドのうち2つには、カーテンが引かれている。彼の隣のベッドは、今は空いているけど、すぐに埋まってしまうのかしら。
    彼がぼんやりと外を眺めていると、後ろから名前を呼ばれたの。振り向くと、若い看護師さんが立っていた。

「こんにちは。担当の倉田と申します。大王さん、よろしくお願いします」

    マスクで顔の半分は隠れているけど、目元がやさしくて、感じがいいわね。弾けるような笑顔と弾むような声は、まるで幸運を呼び寄せる女神のようだわ。これから、ラッキーちゃんと呼ぶことにしよう。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 と、彼はいかにもうれしそうに挨拶したの。ふん、どうせわたしは疫病神ですよ。
    ラッキーちゃんが行ってしまうと、彼は思い出したように、パジャマに着替え始めた。レンタルもあるけど、少しでも入院費を節約しようと、家から持ってきたの。
    パジャマ姿になると、いかにも病人らしく見えるから不思議ね。ベッドに横たわると、そのまま、うとうとと眠ってしまったわ。そうね、このあと、大変そうな検査があるから、今のうちに休んでおいたほうがいいかも。 
    でも、10分もしないうちに目が覚めたわ。やっぱり検査のことが気になるのね。ベッドから起き上がるとすぐに、さっき、ラッキーちゃんがテーブルの上に置いていった検査の説明書を読み始めた。

    口からのどを通して気管支鏡を気管や気管支の中に挿入して、直接内腔を観察、あるいは組織や細胞、分泌物などの検体を採取する検査方法で、……。

    病院の文章って、どうしてこうわかりにくいのかしら。つまり、目のついたメスを口から入れて、肺の中のがん細胞を引っぱがしてくるということでしょ。
    ああ怖い。わたし、どうしよう。か弱い乙女を傷つけるなんて、許せないわ!

     彼が説明書と格闘していると、また別の女性スタッフが検査着を持って迎えにきた。パジャマから検査着に着替えると、女性スタッフは車椅子を勧めたけど、彼は自分で歩くと言って断った。女性スタッフと並んで、意気揚々と車椅子を押す検査着姿の彼を、すれ違った看護師さんが不思議そうに見ていたわ。 
    検査室が広いのには驚いた。いろんな機械が並んでいて、ドクターや看護師やスタッフが大勢いるものだから、いきなり手術になるのかと思ったわ。これには、さすがの彼も少し怖気づいたみたい。
    検査台に寝かされると、目隠しをされて、タオルで体をぐるぐる巻きにされてしまったの。彼はどうにでもなれと腹を括ったようだけど、わたしのほうがドキドキして、心臓が破裂するんじゃないかと思ったくらいよ。
    え? がん細胞にも心臓があるのかって!?  
    もちろん、あるわよ! だから、こうして生きているんじゃない。

    彼はすぐに麻酔が効いてきたのか、気持ちよさそうに寝てしまったわ。わたし一人を置いてきぼりにして、ひどい人ね! 
    ドクターさん、お願いだから、あまり痛くしないでくださいね。
    いよいよ気管支鏡が喉を通って、肺の中に入ってきたわ。首をぐにゃぐにゃと回しながら、ゆっくりと近づいてくる様子は、まるでヘビのよう。わたしはできるだけ小さくなって、肺のすみっこに隠れていたんだけど、とうとう見つかってしまったの。ヘビはわたしを見つけると、ヌーと首をもたげて、いきなりガブリとお尻に噛みついたのよ。その瞬間、わたしは気絶してしまったみたい。

     目が覚めると、ベッドの横にラッキーちゃんが立っていた。心配そうに彼の顔を覗き込んでいるの。どうやら、わたしもまだ生きているようね。

「ご気分はいかがですか」

 いいわけないでしょ! てっきり死んだかと思ったわ。わたしのお尻を返してよ!

「はい、大丈夫です。いい気持で寝ていました」

 いい気なものね。彼は幸せそうにラッキーちゃんを眺めているのよ。まあ憎らしい。

 夕方、奥さまが見舞いにきたわ。そこに、たまたまラッキーちゃんがいたので、

「こちら、担当の倉田さん。とてもいい看護師さんだよ」

 と、彼はうれしそうに紹介したの。

すると、奥さまはなんと、  

「よろしくお願いします。うんと、いじめてくださいね」

 と言ったの。奥さまもなにかピンときたのかしら。

「え、どうやって?」

 ラッキーちゃんの目が点になったわ。そのあとは、3人で大笑い。

「まだ1年目の新米なので、いろいろご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞ、よろしくお願いします」

 だめよ!新米だからといって、大切な彼に迷惑なんかかけたら、わたしが許さないわよ!
    そういえば、チェックシートを確認する手際は、どことなくぎこちなかった。さっきも先輩の看護師さんから、あれこれと細かい注意を受けていたわ。

「看護師さんになるなんて、偉いわ」

 わたしの心配をよそに、奥さまは新米看護師を褒めるのよ。

「そんなことはありません。でも、お話していただいて、うれしいです。早く一人前の看護師になれるように頑張ります」

 と言って、ラッキーちゃんはマスクを外して、ていねいにお辞儀をしたわ。初々しいのはいいけど、ほんとうに大丈夫かしら。

「明日で退院とは、残念だな。今度、また入院した時も、よろしくね」

 と、彼が言うと、

「またお会いできるのは、うれしいような、そうじゃないような、複雑な気持ちです」

 と、ラッキーちゃんはもじもじしながら応えたの。素直でいいお嬢さんね。悔しいけど、彼には、ラッキーちゃんのような幸運の女神が必要なんだわ。 

 翌日は朝から検査。午前中は胸のレントゲン、午後は専門機関に行って、MRIとPETの検査。忙しいわね。     夕べ、彼は眠りが浅かったみたい。同室の患者さんがトイレに起きる度に、目が覚めていた。
    1泊2日の入院だからかしら、彼は同室の患者さんたちとまだ一言も話をしていない。カーテンが全部閉まっていて、どんな人がいるのかよくわからないけど、声は聞こえてくるから、お医者さんや面会に来た家族との会話は、聞く気がなくても耳に入ってくるの。
    昨日、入院してきた患者さんは70歳を過ぎたおじいちゃんのようだけど、どうやらこれで2度目の入院らしい。彼と同じ肺がんで、お医者さんの話では、肺がんの中で最も多い腺がんという種類で、手術では取り切れずに、骨にも転移しているというの。これからは、放射線治療と抗がん剤治療を並行して受けるらしいわ。
    肺がんは完治が難しいのよね。彼はお隣さんの話を、どうしても自分に置き換えて聞いてしまうみたい。お医者さんの言葉に、一喜一憂しているの。

    レントゲン検査が終わって、服を着替えて待っていると、ドクター・エッグとラッキーちゃんが病室に入ってきたわ。
    彼はドクター・エッグに丁寧にお礼を言ったあと、検査結果を聞く日を28日ではなく、奥さまも同席できる日に替えられないかと頼んだの。ドクター・エッグはいやな顔ひとつせずに承知したわ。 

「まあ、1日2日を争うわけではないから、いいでしょう。そうですね、午後からだと12月1日になりますが、どうですか?」

「はい、それでお願いします」

 それを聞いて、彼より先に、奥さまがお礼を言った。やっぱり奥さまは、一緒に先生の話を聞きたかったのね。その間、彼ったら、名残惜しそうにラッキーちゃんを眺めているのよ。

「じゃ、あっちゃん、頑張ってね!」

 苗字ではなく名前を呼んだの。いつの間に覚えたのかしら。

「ありがとうございます。名前を覚えていただいて、うれしいです。お大事にどうぞ」

    ラッキーちゃんの笑顔はかわいいわね。悔しいけど、この次も彼女が担当ならいいなって、わたしも思ったわ。 

    午後からの検査は2時からだけど、お昼を食べてはいけないらしい。検査だと、どうしていつもだめなの。地下鉄に乗っている間中、彼のお腹がグーグー鳴っていたわ。わたしもお腹が空いて、もう死にそうよ。
    これじゃ、彼はまた痩せてしまうかも。よせばいいのにダイエットなんかして、体重が65キロに減ったの。彼はそれがベスト体重だと思っているの。でも、この2、3日は、やっぱり減り過ぎが心配になったみたい。急に体重が減るのは、典型的ながんの症状だと言われているわ。

    検査機関は5階建ての大きな建物だった。どこにも窓がないから、倉庫かと思ったわ。
    でも、玄関はホテルのように立派だった。中に入ると、紺のスーツ姿の女性が笑顔で出迎えた。ロビーには静かなBGMが流れていて、検査を受ける人たちが、ゆったりと長椅子に腰掛けながら順番を待っている。
    彼が受付の女性に、保険証と病院からの紹介状を渡すと、

「今日はお食事をされてから、5時間以上経っていますか? その間に、お水やお茶以外は召し上がっていませんか?」

 と尋ねたの。やっぱりホテルでも倉庫でもなくて、病気の検査機関ね。
    ロビーでしばらく待っていると、紺のスーツ姿の別な女性が迎えにきた。案内された更衣室で検査着に着替えると、今度は、また別の女性が診察室まで案内した。検査料が4万円もするというから、こんな手厚いサービスも当然かもしれないけど、それにしても、スタッフが多すぎない。 
    診察室では若い女医さんが待っていたわ。白衣姿の女医さんって、やっぱりかっこいいな。てきぱきと彼の健康状態をチェックしていくの。なんだか彼の血圧が少し上がったみたい。まったく、あきれちゃうわね。

     いよいよ検査開始。始めはMRI検査。点滴で造影剤を入れてから検査台に横になるの。トンネルみたいな丸い機械の中を潜る時に、カーン、カーンという大きな音がする。こんな機械で、ほんとにわたしのことがわかるのかしら。
    次はPET検査。もっと簡単な検査かと思ったけど、意外に時間がかかったわ。なにか薬剤を注射されたあと、1時間ほど安静室で待つようにと言われたの。照明を落とした部屋にはリクライニングシートがいくつか並んでいて、横になると耳元から静かなクラシック音楽が聴こえてくるの。彼は目を閉じて音楽を聴いているうちに、すっかり寝入ってしまった。 
    きっかり1時間後、今度は男性スタッフの太い声で起こされた。優しい女性の声では、みんな起きないからかしら。安眠を妨害されて、彼は見るからに不機嫌そう。
    検査室には、MRIと同じような丸いトンネル状の真新しい機械があった。台の上に横になると、台ごとスライドしながらトンネルの中を潜るの。でも音はしなかったわ。
    彼は初めての機械に興味津々ね。20分くらいの検査の間、ずっと目を開けてあちこち見ていたわ。
    好奇心旺盛な彼は、検査室から出る前に、白衣を着た男性スタッフに、MRIとどこが違うのかと質問したの。

「MRIと形は似ていますが、原理は全く違います。MRIでは、磁場・電磁波を加えることによって体内を画像化しますが、PETは、ブドウ糖を多量に摂取するがん細胞の特性を利用することで画像化します。このため、放射線を出す、ぶどう糖に似た検査薬を体内に入れて、その取り込み具合によって、がんを捉えるのです」

 と、スタッフさんはていねいに説明してくれた。 
    がんに偽の食べ物を与えて、食いついたところを調べるなんてひどい話ね。そうとは知らず、わたしはすっかり騙されて、ぶどう糖に似た検査薬とやらを大量に食べてしまったわ。でも、それでお腹がいっぱいになったから、まあいいか。
    キングはさぞかしお腹が空いたでしょう。わたしは悔しいかな、もうなにも入らないけど、キングはおいしいものをいっぱい食べてね。朝から検査づくめで、ほんとうにお疲れ様でした。わたしもしんどかったな。

 

(つづく)

次回はこちら。
第5話「キングの望み」


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