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【読書日記】阿部 潔『シニカルな祭典――東京2020オリンピックが映す現代日本』

阿部 潔(2023):『シニカルな祭典――東京2020オリンピックが映す現代日本』晃洋書房,176p.,2,000円.
 
2020年の4月に発行された前著『東京オリンピックの社会学』に次いで著者から送られてきた本書。前著が本来の東京2020オリンピック開催の直前に発表された,いわゆる事前分析だったのに対し,本書は1年大会延期後,2021年7月に実際に開催された東京2020オリンピックに関する事後分析。前著は中止になった1940年大会と実施された1964年大会にもページを割いていたが,本書は2020年大会に専念し,目的を「こうした東京2020オリンピックをめぐる一連の不可思議な動向と現象を振り返ることを通して,今の日本社会に見て取れる特徴を浮かび上がらせることが本書の主たる目的である。」(p.i)としている。
はじめに
序章 東京2020オリンピックと〈わたしたち〉
第1章 大会のゆくえ――ネット世論とメガイベント
第2章 危機と祝祭の表象――開閉会式パフォーマンス
第3章 祭典のただ中で――不可思議なパラレルワールド
第4章 喧騒のあとで――落ちた「憑き物」
第5章 世論の背景――「もやもや感」の記号論
第6章 シニカルな大会――浮かび上がる〈なにか〉
第7章 オリンピックはユートピアなのか?
終章 シニシズムから脱するために
前著について私は学術雑誌に書評を書いた。もちろん,著者は著名な社会学者であり,多少は文章を読んでいたが,書評を書くにあたって,過去の著作を2冊ほど読んだ。1964年生まれという,私より一世代上の社会学者ということもあり,現代思想や記号論の影響を受け,日本へのカルチュラル・スタディーズの導入に貢献した世代の一人。吉見俊哉が1957年生まれで,若林幹夫が1962年生まれ。都市やメディア,ナショナリズムなどのテーマへの関わり方はそれぞれで,各人個性を持っている。そんな特徴は本書を通じてもよく分かる。
序章では本書の目的を位置づける作業がなされていて,東京2020オリンピックを語りながら,実のところはその合わせ鏡としてのわたしたち日本人を論じる。本書は委最終的にはわたしたちから構成される日本社会を論じるのだが,序章ではその前段階としての〈わたしたち〉を議論している。ただ,ここでいう〈わたしたち〉はカルチュラル・スタディーズ以前または初期のメディア研究がそうであったように,具体像をおびたそれではなく,「大衆」のような形でメディア(=オリンピックというメガイベント)を通して表象される大衆像にすぎない。しかし,本書の面白いところは,かつての大衆像が,著者とは切り離された,そして場合によっては特権的な立場に置かれた著者=研究者から見下されるある種軽蔑的な存在でありがちだったのに対し,本書では著者という唯一の具体的で主観的な実在する人物を中心として肉薄された大衆像であるように私には感じた。研究者としてオリンピックに対峙するという意味では,読者である私自身はある程度著者の立場を共有しながらも,実際として開会式や競技についてはほとんど観ることのなかった私,そして完全に反オリンピックの運動家たちに賛同していた私とは全く重ならない部分もある。
第1章は,雑誌『世界』の特集「イベント資本主義」に掲載された論考を基にしていて,大会開催直前までの顛末を,本書の後半へと導かれる議論に沿って簡潔に整理されている。ここでまでは,正直新たに知る事項,また新たな思考を引き出されるような面白みを感じる場面は多くなく,本書について本格的な書評を書くべきかどうか,積極的な意義は見出されなかった。第2章については,著者が1998年の長野冬季オリンピックの開会式について詳細な分析を過去にしていたこともあり,非常に手慣れた感じで開会式と閉会式の様子が報告され,分析されている。
第3章は開催直前と開催中について,第4章は開催直後についての日本社会の状況について,第3章では,大会関係者が用いた「パラレル・ワールド」という言葉を用いて,第4章では「憑き物」という言葉を用いて議論している。本書は一貫して,個々の事項について突き詰めてその事実を詳細に確認していくような作業はほとんど行われない。細部について説明し始めるとその説明に紙面を費やしてしまうし,また全体像を見失ってしまう。本書の目的はあくまでもその細部(シニフィアン)に現れる全体像(シニフィエ)の解明に主眼があるものだと理解される。「パラレル・ワールド」とは空港からバブル方式で日本に住む人たちとは疫学的に区別された形で移動し,選手村や競技会場のみで活動することで,新型コロナウイルスの感染拡大を封じ込めるという意味で用いられた言葉だが,最終的にほとんどの競技会場は無観客で実施されることで,遠い国で開催されるオリンピック大会をテレビ中継で観戦するという「いつものオリンピック」を日本(東京)に住む人たちは体験したのだという。しかし,一方ではこの大会のために多大な犠牲を払って建て替えられた新国立競技場で開催されているであろう開会式を少しでも身近に感じたいという市民たちが競技場周辺に集ったという事実は,身近にありながら遠くに感じるその「パラレルな=平行の=いくらいっても交わることのない」二つの世界をなんとかねじれさせて一つにしようという欲望なのかもしれない。「憑き物」というのもなかなか面白い表現である。本来は本人が意識せずとも付きまとって離れないような感じだが,本書では開催中はなんだかんだでテレビ中継に翻弄され,これまでの顛末を忘れるかのように,オリンピック大会を楽しんでしまい,しかし大会終了後は何物もなかったかのように日常生活に戻るという,まさに「いつものオリンピック」だったということ,しかし開催前の顛末があったが故に,日常生活への回帰は遠い国で開催された大会よりもより容易だったという議論はなかなか興味深い。また,ここまでの論調で気になるのは,雑誌『世界』では,2016年の時点で明確に「理念なきオリンピック」と特集号を組んでいて,その他の多くの論者もこの大会を東京で開催する意義などないし,「復興五輪」というスローガンもまやかしでしかないということは明言している。しかし,本書の著者は何度も「…ではないのではないか。」という表現を繰り返し,明言はしていない。もちろん,ものによっては安易に断言せずに問いかけを続けることに意味がある場合も多いが,この点に関しては断言していいと思う。
第5章が本書の山場である。「はじめに」でも触れられているが,本書では東京2020オリンピックをめぐる事項を「グレマスの四角形」を用いて分析すると書かれている。「グレマスの四角形」といわれても,記号論にそこそこ詳しい私でも何だか分からなかった。第5章の冒頭にその解説があり,フレドリック・ジェイムソンが『未来の考古学』で,フランスの記号論者グレマスが考案した「記号論的四角形」のことであるという。『未来の考古学』は翻訳もあり,その存在は知っていたが読んでいなかった。ユートピアを主題としてSF作品の分析をしているとのことなので,是非読まなくては。さて,その記号論的四角形は本書の解説を読む限り,「S」と「上にバーがついたS」で表現されている。このSは単にSignのSかも知れないが,上にバーがついているのは私の売る覚えな知識ではジャック・ラカンの図式だったようにも思う。Sは主体SubjectのSで大文字と小文字とバーありとなしとで図式化されていたような。本書にはその辺りの説明がないので,ジェイムソンを読んで確認したい。どうやらグレマスの著書もいくつか翻訳があるようだ。また,本書の図式の中には「中立項」というものもあり,これまた売る覚えなのだが,ジェイムソンの「消えゆく媒介者」という概念との関係も気になる。
まあ,その辺りの詳細が分からなくても本書の理解には支障はない。ともかく本書では,東京2020オリンピックをめぐるさまざまな対立項を交差させ,このグレマスの四角形で複雑化させて論じていく。その巧妙な論の展開に思わず唸ってしまう。やはり本書は学術雑誌に書評を書くべきではないかと思い始める。決してページ数が多くないこの第5章の中に,東京2020オリンピックに関連する四角形の図式は6つも示されている。「図5-2 理想⇔現実」「図5-3 賛成⇔反対」「図5-4 祝祭⇔危機」「図5-5 リアル⇔ヴァーチャル」「図5-6 開催⇔結果」「図5-7 憑かれる⇔つかむ」ここでも少し気になるのは,賛成⇔反対の図式で登場する「どうせやるなら」という文言である。「なんとなく賛成」と「なんとなく反対」というとらえ方で,開催直前に反対派の世論が急激に増えたことを説明しているのは非常に説得的なのだが,「どうせやるなら派」というのは小笠原・山本編『反東京オリンピック宣言』で主張されたもので,編者の二人はその後の著書でも繰り返し使っている。もちろん本書では2022年の『東京オリンピック始末記』には言及されているのだが,もっとしっかり言及すべきかと思う。いずれにせよ,一つの図式を詳細に説明せずに次から次へとテンポよく論じていく展開は,冒頭にも書いたように,このメガ・イベントを俯瞰的に解釈するという目的には沿っていると思う。しかし,やはり反対派にコミットしたい私のような読者にとっては,物足りない印象が残る。第5章の最後に「潜在的対抗の失効――「反対」はなぜ力を持ちえないのか」という節があるのだが,本文を読んでも私が納得するような十分な説明はなかった。確かに,反対の声は開催を前に日に日に高まり,日本共産党もこの時期での開催には反対を表明するようになったものの,最終的には予定通りに開催され,大会は終了した。そういう意味では反対の声は力を持たなかったというのは間違いない。しかし,私の肌感覚では(あくまでも反対デモなどの現場に足を運んだわけではなく,TwitterやYouTubeといったSNSを通じてだけだが),これはひょっとすると中止に追い込めるかも,と思うほどの勢いがあった。それまでは,反五輪の会による活動が継続的にではあるが細々とやられていて,2019年7月には都内で国際反オリンピック会議が開催され,米国からのNOlympicLAをはじめとする海外からの参加者があり,反五輪の会が中心となってはいるが,おことわリンクも共同していたし,研究者の多くも参加し,特に留学経験のある井谷聡子さんを媒介としてジュール・ボイコフなどの海外のオリンピック研究者も参加していた。1998年の長野冬季大会の反対運動の中心人物である江沢正雄さんの姿もあった。そうした,この頃には日本中,そして海外の反オリンピック運動家も連帯するようになっている。しかし,国内においてはまだまだ反対運動の拡がりがみえないなか,コロナ禍に突入し,開催が1年延期される。延期が決定された当初はおそらく1年くらい経てば収まるだろうと楽観的な考えだったと思うのだが,第2波,第3波と増減を繰り返すごとにそのピークの感染者数は増えていき,最終的には開催予定の1年後にも緊急事態宣言中だった。そんななか,その状況でも開催準備を進める日本政府,東京都,JOC,大会委員会に対し,多くの市民がしびれを切らしていたと思う。確かに,本書の著者が言うように,これまで「なんとなく賛成」だった者が「なんとなく反対」に回った結果が,世論調査8割の反対だったと思うのだが,先ほどの井谷さんも関わる形で多くの女性・フェミニストたちが街頭で声を上げ,反対を訴えるようになった。医療従事者も同様に声を上げ,とにかく森喜朗による女性差別発言の影響も大きいとは思うが,女性の反対意見が目立っていたように思う。反五輪の会の中心メンバーも女性だったし,そうした女性たちは「なんとなく反対」などという表現に回収できるようなものではなく,明らかに怒っていた。結果的に開催されてしまったことは確かに力を持たなかった結果としか言いようがないのだが,それを今年6月の国会審議で成立してしまった入管法改定案にも言えるのだろうか?いかに正当に反対しようとも,毎日のように数千人規模でさまざまな箇所でデモを行おうとも,結局は国会における数の力で議会を通過してしまう。
同じように,あの巨大なイベントをわたしたちは暴力を用いずに中止させる術はあったのだろうか?どういう「力」を持てば中止に追い込めたのか,逆に教えてほしい。東京2020オリンピックの開催は完全に政治権力と経済権力による反対派の弾圧以外の何ものでもない。先の戦争で日本政府が反戦意見を法律を使ってまでも弾圧したものと何が変わるのだろうか。
さて,本書による「プログラム/プロジェクト」という概念の語源的な違いにヒントを得た考察は非常に興味深い。著者は前著でも,レガシー概念を用いて,あらかじめ約束されたレガシーという考え方のおかしさを指摘していたが,オリンピックをめぐってはさまざまなプログラムとプロジェクトがあるが,プログラムというものは事前に決められたもの,プロジェクトとは事後に拡がっていくものが,語源的な意味合いであり,オリンピックをめぐってはすべてプログラムに収まってしまうものであると指摘する。この議論はとても面白いのだが,同じように本書の結論であり,書名でもある「シニカル」についても十分に議論してほしかった。そもそもシニカルとはどういう態度なのか,手元の『リーダーズ英和辞典』によると「cynical」には「皮肉な,冷笑的な,世をすねた」という語義が掲載されていて,本書での用法は「皮肉な」であることは分かるのだが,他の語義として捉えた場合どうなのか,そんな議論は無意味だろうか。
さて,ここまでで私はやはり本書は学術雑誌に書評を書くことで,上記のような私の立場からの批判を公の場でしておく必要があるようにも徐々に感じてきた。第7章は,本書が依拠するグレマスの四角形の根拠でもあるジェイムソンの著作がユートピアに関するものであることもあり,オリンピックをユートピアと見做した場合の議論を展開する。カール・マンハイムからルイ・マラン,若林幹夫など,数々のユートピア論を参照しながらの議論だが,ここは私がほとんど理解できなかった。そのことから,学術雑誌での書評を書くことはとりあえず断念し,こうしてブログ記事としているわけだが,オリンピック・パラリンピック大会がどのようにユートピアなのか,またユートピアという場合に単なる理想郷なのか,トマス・モアが描いたユートピア国のような一つの社会をイメージしたらよいのか,その辺りの議論の条件をしっかり示してほしかった。先に議論された「パラレル・ワールド」がその手掛かりにもなるのかと思うのだが,他の章との関りも十分に議論されていないようにも思った。
また,本書は東京2020オリンピックを通じて,この日本社会のあり方を照射することが目的だったように思う。確かに,上記で今年前半の国会に関して入管法改定案の話を出したが,日本政府に限らず,さまざまな自治体でも,強権的にさまざまな事項が上意下達で決定され,住民の意思を無視した政治がなされていて,それに対して強い抗議の声を上げ,行動に移す市民が一定程度いる一方で,その動向に反対をしながらも傍観している多くの市民がいて,そうした傍観市民を味方につけ(結局は選挙では自民党,公明党,日本維新の会が多くの票を集めてしまう,あるいは圧倒的多数の投票の放棄がある),数の力で押し切られてしまう。そういう構造は多くの事象とオリンピックとが重なり合うものであるが,そういう議論は本書にない。
最終的にオリンピックに向けられた批判を,著者自身はどのように解決策を考えているのか,そうした点にももう一歩踏み込んでほしかったと思う読書だった。

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