セルフ・ロックダウン〜ロードバイク転倒小話【第1話】
2020年某月某日。
その日は、ゴールデンウィークの初日であった。
が、今年はいつものそれとは異なり、不穏な静寂の中から始まっていた。
世界中がすでに新型コロナウイルスに侵され、
外出自粛やロックダウンという脅迫を受けていたのだ。
いつもの時間に目覚めた。
少し気怠い体も、いつもの通りであった。
毎朝の日課ともなった窓辺からの朝景のスマートフォン撮影もルーティン通りであった。
その作業は、別段SNSにアップすることを目的にするわけでもなく、
単純に日々の風景の移ろいや、自然の表情を確認する作業に近しい。
空には、幾重にも覆いかぶさった雲が広々と漂う。
予報は雨を告げていた。
確かに、いつ雨が降ってもおかしくはない雲行きではあった。
が、突如として雲間から神々しい朝日が差し込んできた。
ロードバイクライドへの誘惑。
コロナウイルス対策と防寒対策を自らに施し、外へ飛び出した。
それとなく目的地を決め、軽く流すように走り出す。
過ぎ去る風は肌寒い。
往復でもおよそ1時間程に過ぎないと思えば、我慢することは容易かった。
豊かな川のざわめきが届くどこまでも続くひと気の少ない河川敷を、ギアを変えながらただひた走るのだ。
頭上のどこかで囁く鳥の軽やかな鳴き声。
車輪の紡ぎ出す軽快な春風を切る音。
その中を疾走するロードバイクとの一体感は、
体の奥底から静かなファナティシズムを揺すり出す。
天候はどうであれ、この体感はかけがえのない無形財産なのだ。
すると5分も経たないうちに、細やかな雨粒が間合いを取って落ち始めた。
その雨は、すぐさまこれまでにない別種の感情を呼び起こした。
それは、悪質な安堵だった。
安堵ほど人を堕落させるものはない、と勝手に定義づけている自分に気づいた。
では、安堵の理由はなんであろう?
『これでコロナウイルスから逃れられる?』
そう思うならば、天候の良し悪しに関わらず、ロードバイクにまたがらなければ良かったのだ。
何か妙な葛藤の末に引き返えすと、またもや神々しい朝日が降り注いだ。
天候はいたずらに人を惑わすが、それにしても程があるだろうと、マスク越しにつぶやした。
すぐに帰宅することをやめ、大きな公園に身を投じた。
人も少なく、新緑も美しい。
その姿は、コロナウイルスに汚染された街とは想像し難い。
むしろ、汚染が深刻度を増すほどに街は美しさを取り戻しているようだ。
名の知れぬ色とりどりの草花、鴨が悠然と泳ぐ水辺。
その恩恵を浴びるようにゆっくりと前へ進む。
光と雨の交錯。
そこに身を置く微かな解放の充足を味わった。
雨が本降りにならないうちに帰路に着こう、とペダルに力を入れた。
公園の静寂を抜けると、自動車の騒音がむせ返る。
野太い車道の路側帯を自動車と競うように駆け抜けた。
すると信号機が赤に変わった。
右折すれば帰路なのに、なぜか都心へ向かう直進を選んだ。
信号機が再び青になりかけると同時に、押し出すように前に出る。
背後から自動車が押し迫ってくる気配を感じた。
危険を察知するように速度を落としながら、歩道に乗り入れようとした瞬間、
鈍い銀色の煌めきが目に飛び込んできた。
車道の路肩に寄り添うように走る市電のレールに浮かぶ雨の滴。
鈍く濁ったそのレールの輝きに魅せられたかと思うと、
私とロードバイクは、一体となって回転するような感覚を覚えた。
それは、奇怪なロードバイクとの限りなく一瞬の永遠のようであった。
凄まじい衝撃音の後に、かつて経験したことのない痛みがひた走った。
その痛みによって、地面に叩きつけれたことを理解した。
起き上がろうにも、上半身は微動だにしない。
周囲からすれば、まるでロダンの奇抜な彫刻のポーズのように違いない。
「大丈夫ですか?救急車を呼びましょうか?」
優しげな女性の声で正気を戻したような気がした。
「ありがとうございます。じっとしていれば大丈夫だと思います。」
震えるような声音を振り絞って返答した。
じっとしていれば、の根拠は何もない。
「何かあったら言ってください」
その女性は、ファストフードショップで働く20代前半ぐらいの女性であった。
「はい…」としか返答できないほど、左の脇腹に痛みが次々と押し寄せてくる。
おそらく、30分以上は奇抜な彫刻のポーズのままだったはずだ。
呼吸を整え、痛みに耐えながらゆっくりと起き上がる。
自分の今置かれている状態を確かめてみる。
ヘルメットで守られた頭も首も痛みはない。
左腕と左足の外側全体に打撲の灼熱を感じながら、上半身を動かすたびに、胸部全体に痛みが広がり、かすかに骨が内臓を刺す感覚を覚えた。
痛みを我慢しながら倒れたままのロードバイクを持ち上げる。
ハンドルはタイヤとの並行感を失っていた。
携帯用の修理セットから6角レンジを取り出し、強烈な痛みとの葛藤の中で、ハンドルを並行に戻した。
自宅まではロードバイクに乗れさえすれば5分と掛からないはずだ。
恐る恐るサドルに乗り上げ、ペダルを漕ごうとすると空回りしていることに気づいた。
チェーンが外れていたのだ。
痛みに耐え続けてチェーンをギアに噛ませた。
脈打つように痛みが上半身に襲いかかる。
左手で左脇をかばったまま、ゆっくりと走った。
段差が少しでもある道は少しでも避けて前へ、前へ、と緩やかに帰路に着いた。
かろうじて自宅の賃貸マンションに到着した。
最初の関門は、エレベーターにロードバイクを乗り入れることだ。
狭いエレベーター内でロードバイクの前輪を建て、後輪のブレーキによって収容する。
当然、思うように左手が使えない。
左脇の痛みと打撲でブレーキはおろか、ハンドルを握る締めるにも命がけの気分であった。
息を止めて、左手をブレーキに近づける。
拷問のような苦痛が襲いかかってきたと思うと、すぐさまエレベーターが止まった。
次はエレベーターからロードバイクを下ろす番だ。
拷問のような苦痛は、体内を噛み砕くように襲いかかってくる。
例えようのない悶絶と闘いながら、かろうじて自宅に戻ることができた。
コントロール可能な右手でドアを開け、足でドアを固定しながら、ロードバイクを室内に入れるところで、
最初の関門をクリアしたような気分になれたのも束の間、まずは着替えようとすると、異様な鈍痛と汗がそれを邪魔した。
しのびやかに確実に服を脱いでゆく。
着用していたダウンジャケットの肘の部分が擦り切れている以外に、
これといったダメージがないのが不思議だった。
スマートフォンもまったくダメージがない。
体のダメージとは対照的なのが皮肉に思えた。
今すぐ受診できる病院を探すべく、スマートフォンを持ち上げるも。
激痛がそれを阻み続けていた。
デスクの上にスマートフォンを置き、右手で病院を検索した。
ゴールデンウィークに突入した土曜日の昼前でも、すぐさま往診してもらえる病院、しかもできるだけこの地から近い病院は、
果たしてあるのだろうか?
すると1件の病院がヒットした。
すぐさま電話してみると、12時まで開院しているという。
時刻は11時を刻もうとしていた。
(続く)
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