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ミステリと声|冨塚亮平・謎のリアリティ【第53回】

多様性の加速度を増すいっぽうの社会状況に晒され、ミステリが直面する前面化した問題と潜在化した問題。重層化した「謎」を複数の視座から論ずることで、真の「リアリティ」に迫りたい

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文=冨塚亮平

『インヴェンション・オブ・サウンド』
チャック・パラニューク(早川書房)

『サバイバー』
チャック・パラニューク(早川書房)

★本評論ではチャック・パラニューク『インベンション・オブ・サウンド』のネタバレに言及しています

 声はときに、「人を破滅へ誘いこむ力」を帯びる。『インヴェンション・オブ・サウンド』(二三年、原書二〇年)の語り手は、オデュッセウスの神話におけるセイレンの歌を引き合いに出しつつこう述べる(一〇四頁)。聴くものすべてを絶叫させ、彼らの死を招く恐るべき究極の悲鳴はなぜ、どのようにして生まれたのか。チャック・パラニュークの最新作は、狭義のミステリ小説とは言えないものの、いくつかの悲鳴をめぐる謎を中心にプロットが展開する、優れてミステリ的な構造を備えた全三章構成の長編小説である。

 救急車のサイレンを合図に、さまざまな犬の遠吠えが連鎖する。この印象的な冒頭部を皮切りにパラニュークは、二つの一見無関係な物語を交互に読者に向けて差し出していく。映画におけるクロスカッティングの技法を思わせる形で並行して進むストーリーは、やがてあたかも冒頭のサイレンと犬のように不気味に共鳴しあう。そして、二つの物語とそれぞれの主人公が交錯するとき、ついにハリウッドに史上最悪の大惨事が訪れる。本稿では、今年十八年ぶりの邦訳新刊として出版されたこの小説を中心に、いくつかの過去作も振り返りながら、パラニューク作品に響き続ける一種の通奏低音としての、声をめぐる謎について考えてみたい。

 まず簡単に第一章のあらすじを確認しよう。一人目の主人公ミッツィ・アイヴスは、有能な音響効果技師フォーリー・アーティストだ。プロデューサーのシュローらの依頼に応じて、たとえばナイフで刺され、叫びながら死んでいく女性を捉えたB級ホラー映画の映像に合うような、悲鳴の音響素材を作り上げることで生計を立てている彼女は、自らの仕事を「きっかり同じタイミングで世界の全員に悲鳴を上げさせること」(八―九頁)だと語る。一方、もう一人の主人公ゲイツ・フォスターは、十七年前に行方不明になった娘を探し続けている男だ。彼はいまだに、自分がふと目を離した隙にいなくなってしまった娘の不在を受け入れることができていない。同じような境遇の親たちが集うサポートグループに通いつつ、日夜娘の手がかりを求めてダークウェブを徘徊し、娘に似た子供に危害を加えた児童ポルノ製作者の情報を集め、彼らを拷問することで、やがて娘を襲った男にたどり着くことを夢見ている。

 この二つの物語は、無実の男性を空港で襲撃し、「子供を痛めつけるこの男どもを痛めつける仕事」(三二頁)こそが理想の仕事だと語って憚らない彼の元に、ある日見覚えのないアドレスから、YouTubeの海賊版映画に誘導するリンクが送られてくるところから少しずつ共振しはじめる。リンク先の動画は、下着姿のチアリーダーが男に襲われナイフで刺される、どこにでもあるようなB級ホラー映画であった。しかし、画面上の唇の動きとまるで合っていない少女の悲鳴を聞いた瞬間、フォスターはキーボードにゲロをぶちまける。「助けて!パパ助けて!やめて!助けて!」(九四頁)と叫ぶその声こそは、娘ルシンダのものだったのだ。

 続く第二章でフォスターは、娘の声が吹き替えに使用された映画『血みどろベビーシッター』の主演女優ブラッシュ・ジェントリーの誘拐を企てる。一方で語り手は、ミッツィが生業とする悲鳴づくりが、そもそも膨大な録音のファイルとともに父親から引き継がれたものであること、さらには、彼女が日夜、ワインと睡眠薬アンビエンを大量に飲み下し、朦朧とした意識で悲鳴づくりに勤しんでいることを読者に明かす。驚くべきことに彼女は、記憶をほとんど失いながら、自宅のスタジオに招いた人間を縛り上げ、拷問する過程で被害者たちが発した現実の悲鳴を録音し、作品化していたのだ。そして、彼氏だったジミーの陰嚢をピアノ線で引きちぎることで完成させた新作〈突然かつ外傷性の去勢〉が、やがて彼女自身も想像だにしない結果を招く。この音源が使用された新作映画の試写会で、悲鳴の場面が流れた直後に劇場が崩落し、大量の死者が出る惨劇が立て続けに引き起こされる。異変に気づいたシュローは、ミッツィに悲鳴のオリジナル音源を焼き捨て、荷物をまとめて行方を暗ませるよう提案する。

 さて、物質を破壊する叫び声という、この一見突拍子もない奇想に説得力を与えるため、パラニュークはセイレンの歌以外にも、作中でいくつかの興味深い先行例に言及している。たとえば聖書のヨシュア記では、「ヨシュアの民が口々に叫び、その一体化した声がエリコの街の城壁を崩壊させた」(一五七頁)。また、一八五〇年にフランスのアンジェ橋、一九八一年にカンザスシティのハイアットリージェンシー・ホテルで現実に起きた二つの事件では、それぞれ兵隊の行進、ダンサーのステップが同期し共振が発生することで足場が崩落し、多くの死亡者を出したとも言われる(一九五頁)。だが実のところパラニュークは、これら叫び声の謎を解くために抜け目なく選び出した事例よりも、はるかに作中の惨事に近い事件を、自ら実際に経験してもいる。どういうことか。パラニューク自身の声をめぐる謎の核心に迫る前に、彼のキャリアを声という視点から簡単に振り返ろう。

 そもそも、パラニュークの小説では最初期から声をめぐる謎がしばしばストーリーの展開を牽引する重要な役割を担い続けてきた。たとえば『ファイト・クラブ』(九六年)では、語り手である「ぼく」がタイラー・ダーデンの声を聴きとってしまったこと、そのある種の幻聴が、全ての出発点となっていた。また、続く『サバイバー』(九九年)では、墜落寸前の航空機のボイスレコーダーを通じて何者かに語りかける主人公「僕」の声によって、彼の半生に秘められた謎が次第に解き明かされる。同作では、カウントダウン方式でページ数が減少していく特異な設定とともに強調される、語り手の声がはらむ切迫感こそが、作品に張り詰めた緊張感をもたらしていた。加えて、カルト教団のコミュニティを出た後の彼が、奉仕活動先の住人や自殺志願者たちと、直接対面せず電話でやり取りを行う場面が頻出することも見逃せない。とりわけ、最新作に登場する声について考える上で注意すべきは、広告を見て電話をかけてきた自殺志願者の背中を押し、死へと追いこんでいく「僕」の声であろう。相手に触れることなく死をもたらす声というモチーフもまた、すでに九〇年代の時点で現れていたのだ。さらに同様の主題は、聴いた者を瞬時に殺害する魔力を持つ、アフリカ起源の子守唄「間引きの歌」の秘密を軸に進んでいく『ララバイ』(〇二年)において、よりはっきりと焦点化されることとなる。

 タイラー・ブラッドウェイは、『クィアな実験文学』(一七年、未邦訳)最終章の議論を、翌〇三年に作家パラニューク自身の声が引き起こした、二つの騒動を併置することからはじめている。彼によれば、まずこの年にパラニュークは、自身のウェブサイトに自らがゲイであることを明かす怒りに満ちたボイスメールをアップしたのだという。彼のセクシュアリティをめぐる噂は、とりわけ九九年、『ファイト・クラブ』の映画化によって多くのヘテロセクシャル男性読者の支持を獲得したタイミングで、報道陣に妻がいると嘘をついていたことが発覚して以降の数年間にわたり、広められてきた。自らのセクシュアリティを暴く雑誌記事が発売されることを知ったパラニュークは、出版に先んじる形で、自身の言葉で電話に吹き込んだメッセージを読者に共有した。

 同じ頃、『ララバイ』の販促ツアーで彼は、のちに『ファイト・クラブ』と並ぶ人気を得るとともに悪名を馳せることになる、ある短編の朗読パフォーマンスを開始する。プレイボーイ誌に掲載され、〇五年には短編集Haunted(未邦訳)に収録された「はらわた」(“Guts”)は、いずれも公共の場での恥辱へと帰結し、二つのケースでは恐るべき身体的トラウマを残す結果となった、三人の男性による特殊な自慰行為の失敗をめぐる物語だ。まず、三人の恥をさらす経験が異性愛規範の強力さを読者に強く感じさせる点は、同時期の強いられたカミングアウトとの関連からも重要である。加えて、プールの吸水口を利用した行為の結果、腸が体外に引きずり出されるという、三人目のストーリーが到達する筆舌に尽くしがたい痛ましさに代表される、読者の身体と情動に直接働きかけるような強烈極まる描写は、朗読の場で信じがたい事態を引き起こすこととなった。全米各地で同作の朗読イベントに参加した聴衆が、次々に失神するという事件が多発したのだ。

 パラニュークは、二年後に上梓された短編集の末尾に付された「はらわた効果――ある種のあとがき(あるいは警告)」と題されたテクストで、当時の騒動を振り返っている。彼は、イタリアで行われた自身が参加してすらいないイベントまで含めて、各地のどういった会場で、何人の参加者がどう失神に至ったのかを克明に記し、最終的に合計六七人が朗読中に失神したと、どこか誇らしげに書きつける。この顛末は、『インヴェンション・オブ・サウンド』において、ミッツィが作り上げた作品が映画の観客たちの命を奪っていく展開へと、明らかに重ね合わされているだろう。

 たしかに、青木耕平あおきこうへいも指摘する通り、映画『ポストカーズ・フロム・ザ・フューチャー:ザ・チャック・パラニューク・ドキュメンタリー』(〇三年、日本未公開)のカメラには、実際に朗読中に「気を失い床に崩れ落ちる観客の姿」が捉えられてはいる。だが、それをもって失神にまつわるデータは「都市伝説や誇張された数字」ではないと断ずることは難しいだろう(「逸脱的ロマンチストの肖像――チャック・パラニュークの現在地」『SFマガジン』二二年四月号)。むしろ私には、のちに『ファイト・クラブ2』(一五年)の構想にも影響を与えたように思われる、映画『ファイト・クラブ』に感化されて実際に殴り合いをはじめた団体をめぐるゴシップなどと同様に、自らの作品が他者の身体に与えた影響を示す逸話を、ある程度誇張を加えてでも強調しようとする身振りにこそ、フィクションの、そして声の持つ力へのパラニュークのこだわりがよく表れているように思える。

 関連してステファン・ハンケは、パラニューク作品、とりわけ語り手が読者も宛先に含まれるかのような形で「あんた」(you)に語りかける二人称の構造を持つ『サバイバー』において、「テスト、テスト。1、2、3」の掛け声とともに反復される「聞いてくれ」という言葉に、自分の仕事は無意味なのではないか、聞き手や読み手は本当に存在するのかという作家の不安を見出している。だがハンケ自身も強調している通り、「はらわた」朗読をめぐる騒動を、こうした作家パラニューク自身の内面の問題のみへと還元するべきではないだろう。(「書店のフロア上の血――チャック・パラニュークと失神する読者の事例」『チャック・パラニュークを読む』〇九年、未邦訳)。

 ではわれわれは、当時朗読の場で起きていた現象をどういった角度から再考すべきなのか。「はらわた効果」でもう一つ興味深いのは、「はらわた」に登場する三つのパートのうち二つは実際にパラニュークの友人に起きたこと、もう一つは小説の取材で訪れたセックス中毒に関する自助グループの集会で出会ったある男性の実体験をもとに書かれたものであり、いずれも実話がベースとなっていたという記述だ。ひとまずこの指摘を事実として受け止めた場合、公的な空間で、きわめて私秘的な他者の欲望を語る、作家パラニュークによる朗読の声がはらむ力こそが、失神を引き起こすという構図が見えてくる。エッセイのタイトルに引っかけつつ、ブラッドウェイは正当にも、パラニュークが事前に行われるはずの警告と事後に書かれるはずのあとがきをパフォーマティヴな意味で類比させたのは、彼が時間における前と後、空間における内と外、公と私といった対立をいずれも整理しようとはしなかったからであると述べる。もしそれらを分類してしまえば、激しい物語が公の場で展開されるとき、誰の欲望が、どの感情がそこに循環しているのかという問題は、遡及的かつ予防的に画定され、朗読の衝撃は弱まったのではないか。

「はらわた」を読むパラニュークの声には、たしかに同年のボイスメールと同様に、彼のセクシュアリティと無縁ではない怒りや恥の情動が込められてはいただろう。だが、朗読が巻き起こした悲鳴、聴衆の身体に与えられた衝撃の謎を解く鍵はそこにはない。ブラッドウェイによれば「はらわた」とその朗読は、セクシュアリティがアイデンティティへと還元され、アイデンティティとして暴露されねばならないという、異性愛規範的でホモノーマティヴでもある物語構造に反抗し、代わってあらかじめ予想がつかない形で、エロティックな実践や喜び、実験を通じた、新たな情動的な複数の可能性や関係性を提示したのだ。肝心なのは、声の背景にある個人の秘められたセクシュアリティやトラウマではなく、声がいかにして思わぬ共鳴や共振を引き出すかである。この認識は、成功しているとは言い難い『ファイト・クラブ2』やその続編『ファイト・クラブ3』(一九年)において、自らが生み出した最大のカリスマ、タイラー・ダーデンを主人公の肉体から引き離し、読者や映画の観客たちに感染するウイルスのような存在として再定義しようとした、近年のパラニュークの狙いとも符合するものだ。

 ここまで来てようやくわれわれは、『インヴェンション・オブ・サウンド』ではなぜ、劇場に集う観客だけが悲鳴の犠牲となるのかを、設定上の辻褄合わせとは異なるレベルで理解することができる。パラニュークは決して、「はらわた」を「読んだ」読者が失神したというエピソードを紹介することはない。同様に、第三章でドルビー・シアターを破壊し、そこに集ったアカデミー賞の関係者を一網打尽にする観客たちの悲鳴を誘発したジミーの叫び、ミッツィの作品は、「ウェブでは大した音には聞こえなかった」(二二三頁)とされる。誰が、どんな背景であげた悲鳴かはどうでもいい。このルールは、もう一人の主人公フォスターがついにミッツィの元を訪れて以降の、不気味な展開にも通底する。ミッツィの膨大な音源ファイルを調べる二人は、それぞれ相手が探し求めていたはずの決定的なファイルを発見する。だが二人は、彼女が自らの父親を、そしてフォスターの娘を殺害した際に記録されたテープの内容を一度再生すると、すぐに消去ボタンを押してしまう。こうして、二人が探し求めていたはずのトラウマ的な記憶との唯一の結びつき、謎を解く手がかりは、永遠に闇へと葬られる。

 最終的に小説は、ミッツィの仕事を引き継いだフォスターが、娘の悲鳴を目にしたことをきっかけに出会い、偽のトラウマ的記憶を告白することで彼との関係性を深めたブラッシュとともに、亡きミッツィの子供を育てようとする姿を描くことで幕を閉じる。子供の存在を強調しつつも、リー・エーデルマンが「再生産的未来主義」として批判するような、彼らに素朴な希望を見出すような姿勢とは相容れない風刺性と違和感を残したこの結末はしかし、奇妙に爽やかな読後感をもたらしもする。自らは「コピーのコピーのコピー」ではないかという『ファイト・クラブ』の名高い一節をいまだに引きずっているかのようなフォスターの「本物らしさ」をめぐる嘆きはもはや、ややコミカルにも響く。正反対のベクトルから個人に帰属するトラウマがもはや重要ではないことをその振る舞いで繰り返し示してきたカップルが、今更「本物らしさ」を気にしてどうなるというのか。

 トラウマから共鳴へ。この声をめぐる力点の移行をもっとも象徴的に示すのが、ドクターが作品制作後のミッツィを診察する際に、サイレンと犬の逸話に続いて語った以下の言葉だ。「人間にも同じ叫びがあったらと想像してごらん。詩人ウォルト・ホイットマンの〝野性の咆哮〟のような、それを聞けば誰もが原始の叫びを上げずにいられなくなるような叫び」(一六三頁)。ホイットマンは、「おれ自身の歌」の最後を飾る五二節のなかで、こう叫ぶ。「おれは野性の咆哮を世界の屋根という屋根に響かせる」(『おれにはアメリカの歌声が聴こえる――草の葉(抄)』飯野友幸訳、光文社、三五頁の訳をもとに「荒々しい雄たけび」を「野性の咆哮」に改変)。そして、自ら「草の葉」に喩えられる非人称的な存在と化すことで、その歌を締めくくる。「おれはおれの肉体を渦のなかに放出し、ぼろ布のように流す。/おれはおれ自身を土に遺す、やがては愛しき草地から生え出るように、もしおれをまた求めるなら、おまえの靴底の下を探すがいい。/おれの素性も、おれの言わんとすることもよくわからないだろうが、それでもおれはおまえのための「元気」でありつづけ、おまえの血をきれいにし、強くする。/最初におれをつかまえそこねても、気を落とさないように、どこかで見失ったら、別のところを捜してくれ、おれはどこかで立ち止まっておまえを待っていてやる」(同書、三六―三七頁)。パラニュークと同様に、ホイットマンもまたクィアな欲望を有する作家であった可能性については、現在では広く知られている。しかしパラニュークは、ホイットマンのトラウマやセクシュアリティにではなく、彼が詩の中で「渦」、つまり共鳴に身を委ね、もはや誰であるか分からない存在と化しつつも、彼に触れる者と共振することでふたたび「血をきれいにし、強くする」、どこか「はらわた」第三話でプール内に漂う異性愛規範から解き放たれた精子を思わせる、そのエロティックな実践にこそ惹かれているように見える。ウイルスのように拡散するタイラー・ダーデン、そして、映画館で阿鼻叫喚の惨事を生む本作の悲鳴。「はらわた」の朗読をめぐる騒動を経た近年のパラニュークは、作品が共鳴を引き起こす過程すらも内包した「野性の咆哮」によって、読者を「破滅へ誘いこむ」。はたして実際に失神者や死者が出ることになるのか。本作の映画化も実に楽しみである。

《ジャーロ No.89 2023 JULY 掲載》


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